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2020.6.28「神の計画とパウロの苦難」

エフェソの信徒への手紙3章1〜13節(新P.354)

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。

2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。

3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。

4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。

5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。

6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。

8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、

9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。

10 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、

11 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。

12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。

13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。


1.神の計画とパウロ

①パウロの願いと行動

 今日も皆さんと共にパウロの記したエフェソの信徒への手紙から続けて学びます。パウロはこの手紙を通して、イエス・キリストによって明らかにされた神の素晴らしい計画を語り、実際にその計画が今地上に実現していることを語っています。教会はこの神の計画によって立てられたものであって、人間が勝手に作り出したものではありません。神は世界を救うためにこの教会にユダヤ人、そして異邦人を集めてくださったのです。その上でこの教会に集められた私たちは、それぞれ神の計画を実現と言う使命を持って集められているのです。だから私たち一人一人はこの教会の中でなくてはならない大切な存在として集められています。

 聖書はこの教会を「キリストの体」と呼んでいます(エフェソ1章23節)。この体で最も大切な部分は体のすべての器官に指令を送る働きをする頭の部分です。ですからキリストの体にとってはキリストが頭の部分であると言えるのです。そのキリストの指示を受けて体の各器官は動いて行くのです。もし、体の器官がそれぞれ別の意思を持って勝手に動いてしまうなら、その体は大変なことになってしまいます。だからこそ、キリストの体である教会に集められた私たちは、頭であるイエス・キリストに従って教会生活を送る必要があるのです。私たちがこのキリストに従い続けるならば私たちの教会生活は祝福され、教会はキリストの体として最も効果的な働きをすることが可能となるのです。

 パウロ自身もこのキリストの体である、教会のメンバーとして召されていることを自覚していました。ですからパウロは自分のためではなく、キリストのために、そしてキリストの体である教会のために生きようと願い、行動したのです。今日の聖書箇所では、そのパウロの生き方がよく示されています。


②異邦人の使徒としてパウロの役目

 今日の部分はパウロの次のような言葉で始まっています。

「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」(1節)。

 また少し飛びますが、今日の部分の結論でパウロは次のようにも語っています。

「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(13節)

 この二つの言葉で分かることはパウロが今、囚人となっていると言うことです。実際、この手紙を書いたときにパウロはローマの獄中にいたとされています。そして囚人となっているパウロの苦難を見て、エフェソの人々が落胆することなく、かえってこの出来事を通して神の栄光があらわされていることを知るようにと促しています。つまり、パウロは自分が今、囚人となっていることも神の計画が確かに実現している証拠なのだと言うおうとしているのです。それではなぜ、パウロが囚人となったことが神の計画と関係してくるのでしょうか。

 パウロは今まで福音を聞くことが出来なかった異邦人が、福音を聞くことができるように働いたからです。キリストの福音がパウロの口を通して異邦人たちに伝えられたのは単なる偶然の産物ではりません。それは世の始まる前から立てられた神の計画によるものだったのです。

 しかし、かつて人間はこの計画を知ることも、理解することもできないでいました。そしてこの隠された計画を私たちたちに明らかにしてくださったのがイエス・キリストです。このキリストの救いの御業を通して神がユダヤ人だけではなく、異邦人も、すべての人を救おうとされていることが分かったからです。そしてこのキリストの御業によって実現したこの計画を人々に教えるために選ばれたのが「使徒」や「預言者」と言われている人たちです。この彼らの言葉は今、私たちが持っている新約聖書の中に残されています。

 そしてこの使徒の一人として選ばれ、働いたのがこの手紙を記したパウロと言う人物です。パウロはかつて熱心にキリスト教徒と教会を迫害していました。ところが主イエスはこのパウロの前に現れて、パウロに福音を伝える使命を与え、彼を使徒として選ばれたのです。使徒言行録にはパウロに神が委ねようとした働きの内容が次のように記されています。

「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒9章15節)。

 パウロは最初から今まで福音を聞いたことがない異邦人たちにキリストの福音を伝えると言う特別な使命を受けていました。パウロはこの使命を忠実に果たそうとして、アジア、そしてヨーロッパを旅し、各地に福音を伝えたのです。この手紙を受け取ったエフェソの町にもパウロは足を踏み入れて、福音を伝えています。おそらく、この手紙を受け取ったメンバーの中にパウロの伝道によってキリスト者になったという人もいたはずなのです。このようにパウロは異邦人に福音を伝えるために熱心に働きました。そしてその働きによってパウロは不当に逮捕され、ローマに護送される囚人となっていたのです。パウロが囚人となったのは彼が犯した過ちによるものではなく、神の計画にどこまでも従おうとした彼の信仰によって起こったことなのです。


2.イエス・キリストの囚人

①事実と異なるパウロの自己紹介

 ところで今日の聖書箇所の最初の部分でパウロは自分を「キリスト・イエスの囚人」と紹介していることを先ほどお話しました。確かに当時パウロはローマで囚人となっていたのですが、よく考えて見るとこのパウロの自己紹介の仕方は少し歴史的な事実と違っているような気がします。使徒言行録の記事によればパウロの逮捕はエルサレムの神殿で彼を憎む人々が起こして騒ぎが直接のきっかけとなっていました。そして彼らによって引き起こされた騒動を鎮圧するために出動したローマ軍によってパウロは逮捕されたのです(使徒21章27〜36節)。この後、パウロは「自分はローマの市民権を持っているのだから、ローマの法廷で正しく自分を裁いて欲しいい」と願い出ています。だから彼はローマに護送され、そこで裁判を待つ囚人となっていたのです。このような事情から考えるとパウロは「自分はローマ政府によって捕らえられ、裁判を待っている囚人です」と紹介するのが正しいと思われます。パウロを捕らえて彼から自由を奪っていたのはローマ政府であったからです。ところが、パウロはここで自分は「キリスト・イエスの囚人」だと言っているのです。これではパウロはイエス・キリストによって捕らえられた囚人と言うことになってしまいます。このパウロの言葉にはどのような意味があるのでしょうか。


②イエス・キリストとの関りから人生を考える

 今まで、皆さんに何度かお話してきたと思いますが、私がキリスト者となって牧師になろうと決心をしたのは今から40年前のことでした。その当時、私は病気のために大学を休学していました。今は、コロナウイルス感染予防のために「ステイ・ホーム」が奨励していますが、当時の私は完全な閉じこもりの状態を二年近く家から外に出ることはありませんでした。すでに大学で共に学んだ同級生たちは皆、学校を卒業し、それぞれの進路に進んでいました。私は自分だけが一人取り残されてしまったと言う気持ちで毎日、生きていても意味がないと考えながら日々を送っていました。そのとき、私はたまたまラジオで流れていたキリスト教の伝道番組を聞きました。そして私は自分の抱えている悩みを手紙にしてその番組に送ってみたのです。するとしばらくしてそのラジオで聖書を語っていた牧師から手紙が届いたのです。その手紙の中にはその牧師が教会で作っていた印刷物が同封されていました。そしてその印刷物の片隅にこんな小さなメッセージが記されていました。

「君は病気だから自分は何もできないと思っているようだが、そうでないと思う。君は自分が病気で苦しんだ分、同じように病気で苦しむ人の気持ちが分かるはずだ。だから牧師になって君と同じように苦しむ人に福音を伝えて、彼らを慰めることができるのではなか…」。

 私はこのメッセージを読んだ時の衝撃を今でも忘れることはありません。今まで、病気など自分の人生には何の意味もないものだと考えて来ました。だからこんな苦しん人生にはたくさんだと思っていたのです。その私が自分の病気には意味がある、自分が人生で苦しむことには意味があると言うことをそのとき知ることができたのです。

 私たちがイエス・キリストを信じること、このイエス・キリストを通して自分の人生を考えることができるなら私たちの人生観は全く変わります。パウロは自分の人生に起こるできごとすべてのことをイエス・キリストを通して見ることが出来ました。だから「わたしはキリスト・イエスの囚人だ」と言うことができました。自分の人生に起こったことはすべて神の計画が実現するためであり、神の栄光が現わされるためにあると考えることができたのです。


3.小さくなったパウロ

①小さな者を変える大きなキリストの恵み

 今日の聖書の箇所でパウロは自分のことをこのようにも表現しています。

「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」(8節)。

 神は福音の恵みを伝えるために聖なる者たちを選ばれました。使徒と呼ばれる人も、また福音を伝える使命を持って生きている人はすべてを「聖なる者」と呼ぶことができます。なぜならどんな人間であっても、神の聖なる福音をゆだねられた者はすべて「聖なる者」と言うことができるからです。しかし、興味深いことはパウロがここで聖なる者の中で「最もつまらない者であるわたし」と表現していることです。この言葉は別の聖書では「最も小さい者」とも訳されています(フランシスコ会訳聖書)。またパウロさらに他の聖書の箇所で自分を「わたしは、罪人の中で最たる者です」(テモテ一1章15節)と紹介しています。ある人はこの理由について「パウロはかつてキリスト教会の迫害者として数々の罪を犯してきたからだ」と説明しています。ところがその説明について別の聖書の解説者は「もし、そうならパウロよりももっと悪いことをした人が罪を悔い改めて、キリスト者になったら、パウロは上から二番目の罪人に格下げされてしまうのではないか」と反論しています。

 パウロがここで自分を「最もつまらない者」、「罪人の中で最たる者」と紹介したのは、自分を救い出した神の恵み、キリストの御業の大きさを表現するためあると言えるのです。ヨハネの福音書にはイエスによって生き返らせられたラザロと言う人物が登場し、そのラザロをユダヤ人たちが再び殺してしまおうと陰謀を立てたことが記されています(ヨハネ12章9〜11節)。なぜなら、イエスに敵対する人々にとってラザロは一番目障りな存在だったからです。彼は死んでいたのにイエスの力によって生き返ることができました。だから彼が生きている限り、イエスの素晴らしさが多くの人々に証明されてしまうのです。どうしてラザロにはそんな力があったのでしょうか。それは彼が「死人」だったからです。この世の誰もが助けることのできない「死人」であったからこそ、そのラザロを助けたイエスの素晴らしさをはっきりと示すことができたのです。

 パウロが「最も」と言う言葉を使うのはこれと同じような意味を持っています。「自分は何の役にも立たない人間だ、自分はよいことなど何一つもできない罪人でしかない」。「そしてそんな私を生かして、用いてくださったのはイエス・キリストである」と言うことをパウロはこの言葉を通して明らかにしようとしたのです。パウロはイエス・キリストの素晴らしさを褒めたたえるために自分を「最もつまらない者」、「罪人の中で、最たる者」と表現したと言えるのです。


②イエス・キリストに捕らえられたパウロの人生

 このようなパウロはその生涯で異邦人に福音を伝える使徒としてその使命を全うしようとしました。パウロはかつてキリスト教会の迫害者として活動していたとき、イエスなど十字架で死ぬしかなかった無力な人間だと思っていました。彼は神に選ばれ、救いを受けるのは自分たちユダヤ人だけだと固く信じて生きていました。そしてパウロは自分の先祖たちと同じように律法に忠実に生きることで、自分は神に認められるのだとも信じていたのです。だからパウロにとって律法ではなく、キリストを信じることで人は救われると説くキリスト教会の教えは受け入れることできないものでした。彼はそのためにキリストの教えを信じる人々を徹底的に迫害しました。その当時のパウロは、聖書も知らない異邦人たちを軽蔑することはできても、彼らも神の救いの対象とされているとは全く考えることができなかったはずです。

 だからそのパウロがイエス・キリストを受け入れて、イエスの福音を異邦人に伝える使徒として変えられたと言う事実は、キリストの素晴らしい御業を表していると言えるのです。パウロの人生はキリストの力によって全く変えられたからです。だからこそ、パウロは自分のことを喜んで「キリスト・イエスの囚人」と語り、自分は確かにイエス・キリストに捕らえられた者なのだと語ったのです。そのキリストは今、私たち一人一人の人生も捕らえてくださっています。だから私たちも「キリスト・イエスの囚人」として自分の人生の意味をもう一度捉え直して、そこに神の素晴らしい御業が示されていることを確認することができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちをキリストの身体である教会に集めてくださり、キリストの計画を実現させるものとして召してくださったことに感謝いたします。私たちもすでにキリストに捕らえられ、キリストによって人生を変えられた者たちです。私たちが自分の人生に起こる出来事を、自らだけで勝手に判断するのはなく、キリストの関係でそれを理解し、すべての出来事に大切な意味があることを確信して生きることできるようにしてください。特に今、困難な人生の課題に直面している者たちキリストの福音が伝えられ、希望を受けることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロは何のために「キリスト・イエスの囚人となっている」と説明していますか(1節)

2.パウロがここで言っている「秘められた計画」(3節)とはどのようなことを言っていますか(6節)。この計画は誰によって実現しましたか(4節)。また、この計画は誰を通して啓示されましたか(5節)。

3.どうしてパウロは自分のことを「聖なる者たちの中で最もつまらない者」と言っているのでしょうか(8節)。

4.パウロは異邦人にどのようなことを告げ知らせたと言っていますか(8〜9節)

5.パウロはエフェソの教会の人々に自分が受けている苦難を見て、落胆せずに、かえって何を知ってほしいと願っていますか(13節)。

6.あなたは主イエス・キリストがあなたの人生をどのように変えてくださったと思っていますか。あなたの人生の中に主イエスの力がどのように表されていると思っていますか。

2020.6.28「神の計画とパウロの苦難」