2020.6.7「キリストによって生き返った私たち」
エフェソの信徒への手紙2章1〜10節(新P.353)
1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
1.人間は善い者か、悪い者か
今年は新型コロナウイルスの感染拡大によって教会の予定も大幅に変更され、予め立てた計画がその通りに行えないような状況が続いています。私は4月の教会設立記念日の講演でカウンセリングについてお話をする予定で、そのために準備して来ましたが、それも今まで実現していません。
今では誰もが「カウンセリング」と言う言葉をいろいろなところで耳にするようになりました。しかし、日本では少し前までは「カウンセリング」と言う言葉を聞いても「それはいったい、何をすることなのか」と首を振る人も多かったはずです。このカウンセリングは主にアメリカで開発され、発展してきた心理療法の一つです。心理療法には様々な流れがあって、皆さんも聞いたことがあると思いますが、フロイトやユング、アドラーと言った人々も心理療法の開発者として有名です。カウンセリングはその中でもアメリカのカール・ロジャースと言う人によって生み出された心理療法とされています。このカウンセリングが流行になる以前の心理療法は治療者が問題を抱えている人に様々なアドバイスや指導をして、その人の問題のある生活態度を変容させるというようなことをして来ました。ところがカウンセリングではこれと違って、カウンセラーは問題を抱える相談者に通常は「これこれのことをしてみなさい」と言うようなアドバイスや指示を与えることはありません。ただ、カウンセラーは自分の抱えている問題を語る相談者の言葉に真剣に耳を傾けるのです。
カウンセリングの理論では問題の解決方法はその問題を抱えている本人自身が一番よく分かっていると考えます。だから、カウンセラーは相談者自身が自分の抱える問題の本当の解決策を見つけることができるようにと援助するのです。以前、カール・ロジャースの理論について書いた本でカウンセリングについてたとえを用いて説明されているものがありました。カウンセリングは、日の当たらない場所に置かれ続けて今まさに枯れようとしている鉢植えを、日の当たる場所に移し、水を与えるようなものだと言うのです。そうすればやがてその鉢植えは命を吹き返して、きれいな花を咲かすことができるからです。この本ではそれこそがカウンセリングの使命だと説明していました。このようにカウンセリングではどんな問題を抱えている人も、その問題を自分の力で解決する能力を持っていると考えています。そしてカウンセリングはその人の持っている能力が引き出されるように援助する技法だと言うのです。
このようにカウンセリングでは根本に人間は元々、素晴らしい力を持っている、善いものだという「性善説」の理論が前提されていることが分かります。哲学ではこの「性善説」に反して、「性悪説」、つまり人間は元々、悪いものであって、そのまま野放しにしておくとたいへんなことになってしまう、だから教育や法律が必要になるという考え方があります。私が高校の頃に学んだ倫理社会の教科書にはたぶんキリスト教は「性悪説」に立っていると説明されていたような気がします。しかし、今日のパウロの言葉を聞くと、単にキリスト教は「性悪説」の立場を主張しているとは言いきれないような事情があることが分かります。
2.死んでいた私たち
実は今日の聖書の箇所は前回学びましたパウロの祈りの言葉の続き部分とされています。「祈りは神に献げるものですからどんな言葉で語ってもよいのではないか?」と考える人も多いはずです。確かにわたしたちが個人的に献げる祈りの言葉ではそれでよいのかも知れません。なぜなら、私たちの神は私たちの心を誰よりもよくご存じであるため、私たちの言葉にならない叫びさえも聞き取ることのできるお方だからです。しかし、同じ祈りでも私たちが声を上げて信仰の友と共に祈る際には事情が異なってきます。私たちは何よりも、自分の献げる祈りに耳を傾けて、ともに「アーメン」と祈ろうとしている信仰の友によく分かる言葉で、また彼らが心からその祈りの言葉に同意できるように配慮して祈る必要があります。パウロの祈りはこの言葉を聞いている人が確かに「アーメン」と祈れるように、説明し、また説得するような内容になっていることが今日の聖書箇所からも分かります。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(1〜2節)
私が子どものころテレビで「鉄人28号」と言うアニメドラマが放送されていて、毎週楽しみに見ていたことを思い出します。敷島博士によって作り出された巨大なロボット、鉄人28号はリモコンで操縦されています。そのリモコンを渡された金田正太郎少年が鉄人28号を使って正義のために戦うというのがこの物語のストーリーです。私は今でも鉄人28号の主題歌を歌うことができるのですが、その歌詞の中に「いいも、悪いもリモコン次第…」という箇所があったはずです。鉄人28号はロボットと言っても鉄腕アトムのように人工頭脳を持っている訳ではありません。つまりリモコンを使う人の指図通りに動くことしかできない機械なのです。だからひとたびそのリモコンが悪人たちの手に渡ると鉄人は悪の手先と変わってしまうのです。
パウロは私たち人間がかつて神に敵対し、過ちと罪を犯し続けて来たと語ります。そしてその理由は私たちがそのように生きるようにと私たちを操り続けた存在があるからだと説明しているのです。私たちを操縦するリモコンが敵の手に渡されてしまったのです。しかし、人間の罪の問題は鉄人28号のストーリーよりもさらに複雑です。なぜなら、私たちは自分の意思を持って、神に敵対し、罪を行い続けているからです。
「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(3節)
私たちが私たちのリモコンを操作している者たちによって罪を犯しているならば、その責任はリモコンを操作する者にだけあって、私たちに自身には無いと言えます。しかし、私たちは自分の意志で罪を犯し続けていたのです。私たちは自分の欲望のままに生きることで罪を重ねていましたから、その罪の責任も私たち自身が負わなければならないのです。だからパウロは、私たちはかつて「神の怒りを受けるべき者」だったと言っているのです。
私たちはパウロがここで言っているように霊的には死んだ状態にありました。自分の意志では神に従うことができない者たちだったのです。霊的に死んだ人間は自分がすでに死んでいることさえ分かりません。そこで神は、その私たちに聖霊を送って、私たちに命を与えようとされたのです。そして私たちに聖書の言葉を知らせて、私たちが今まで霊的に死んでいる状態であったことを教えたのです。聖書は私たちに神と隣人を愛して生きるようにと教えています。しかし、実際に私たちがその律法に従おうとすると、それが不可能であることがわかります。自分が霊的に死んでいることが分かるようになり、このままでは神の怒りを受けるべき存在であることに気づかされるのです。
3.キリストによって生き返らされた
しかし、パウロは私たちが聖霊によって命に回復さえたのは、自分の罪を知り、自分が神の罰を受けるべき存在でることを気づかせるためだけではなかったことを教えています。むしろ、神が私たちを聖霊によって生き返らせてくださったのは、私たちが救い主イエスを信じて、神と共に本当の命を生きることができるようになるためであったと言うのです。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」(4〜5節)。
「神とはどのような方なのか…?」。そう問われると、私たちの想像は色々と膨らみます。しかし、パウロは私たちにとって真の神とは「憐れみ豊かな」方とここではっきりと語っています。かつて悪逆非道を繰り返す、アッシリアの都ニネベの町の人々が一人たりでも滅んでしまうことを惜しむ神は、預言者ヨナを遣わして彼らを救おうとされました。神は私たちがどんなに不忠実な存在であっても、私たちが滅びることを惜しまれる方なのです。だからこそ、神は御子イエスを私たちの救い主としてこの世に遣わしてくださったのです。そして私たちのために御子イエスを遣わすと言うことにこそ、私たちへの神の愛が豊かに示されているのです。パウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と強調して語っています。
最近、一時は全く私たちの手に入らなくなっていたマスクがいろいろなところで売られるようになりました。中国からたくさんのマスクが輸入されるようになったからでしょう。その上で、日本の有名企業もマスクの生産に乗り出しました。ニュースによればシャープが作ったマスクの購入希望者があまりにも多くて抽選を繰り返していると言うことです。中国製のマスクなら町のお店でも簡単に買えますが、購入希望者たちは日本の信頼できる企業が作ったマスクを使いたいと思っているようです。マスクとは言ってもどこで作られたかも分からないようなマスクを使うのは不安ですし、第一肝心ときに役に立たないものかも知れません。
パウロが「恵み」と言う場合は、これは神によるものだと言う意味を表しています。つまり、メイド・バイ・ゴッドと言うことになります。もし私たちの救いが、私たち人間や他の何か神でないものによるものであったら、それは確かなものではないことになります。見かけは同じように見えても、肝心のときに私たちを救うことが出来ないものなのです。だから「恵み」による救いほど、私たちにとって確かなものはありません。私たちは私たちの救いが「恵み」によるもの、神によるものであるからこそ、安心することができるのです。そしてパウロはこの確信に基づいて次のようも語っています。
「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(6節)。
確かに私たちの救いはまだ完成していません。私たちは自分たちの救いが完全なものになることを待ち望んで、今、信仰生活を日々送っているのです。そんな信仰生活で私たちは「その完成の日まで、自分は本当に信仰生活を続けることができるのか?」と言うような不安を感じることがあります。しかし、私たちの救いは「恵み」によるものであるからこそ確かなのです。パウロはこの確信に基づいて、私たちがキリストと共に復活し、天の王座にともに着くことは間違いないとここで先取りして語っているのです。
4.善い業を行って生きる
①私を生き返らせたイエスを伝える
パウロはこの後、さらに繰り返して私たちの救いは神によるものであって、自分の行いによるものではないと語っています(7〜9節)。私たちが救われることが恵みによるものであり、神の御業によるものであるならば、私たちが救われたときにはっきと分かることは、この神の御業の素晴らしさです。かつて私たちが罪を犯して、霊的に死んでいたときには、私たちが生きていることは神の怒りを増し加えるだけのものでした。しかし、キリストを信じたときから、私たちの人生の意味は変わりました。なぜなら、霊的に死んだ私たちがキリストによって生き返ることができたからです。私たちが救われたことを通して、死んだ者を見事に生き返らせることのできる名医イエス・キリストの素晴らしさが示されました。
人は深刻な病を抱えているとき、その病を癒すことができる名医を懸命に捜します。町にはたくさんの病院の宣伝があふれています。しかし、私たちが聞きたいのは、実際にそのお医者さんにかかって病を治してもらったという人の体験談です。だからもし、私たちが人々にキリストを伝えようとするならば、自分がどんなに深刻な病であったのかを語り、誰も癒すことのできない自分の病をイエスが癒してくださったと言うことを語る必要があります。伝道では、自分のすぐれた経歴や能力を示す必要はありません。むしろそれを示すことは返って逆効果となりえるのです。
②本当の私たちの能力を引き出してくださるカウンセラー
人間の存在は「性善説」で説明されるのか、それとも「性悪説」で説明できるのか?その問題に対してパウロは次のような言葉を語っています。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(10節)。
私たちは本来に、神によって創造された作品です。「恵み」をメイド・バイ・ゴッドと説明したように、私たち人間の存在も本来、神によって創り出されたものでした。ですから人間は神と共に生きるときに本来の力を発揮することができるようになるのです。日の当たらないところに置かれた鉢植えの花を日の当たるところに持っていって、水を上げてあげてやるようなことがカウンセリングの役割だと言うことを最初に説明しました。イエス・キリストによる私たちの救いはそのカウンセリングの働きとよく似ているのかもしれません。
神の作品であった私たち人間は、神から離れてしまって霊的に死んだ状態となってしまっていました。その人間を本来ある場所、つまり神と共に生きることができるようにするために主イエスは救いの御業を成し遂げてくださったのです。そして人間の置かれている場所がそれによって全く変わりました。その上で、神は霊的に私たちが成長できるように天から聖霊なる神を送ってくださるのです。枯れかけて死んでしまおうとしていた私たちを生き返らせ、神に造られた私たちが本来の力を発揮できるようにしてくださった、その神の御業をほめたたえ、今日も神に感謝をささげたいと思うのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちはかつて、霊的に死んだ状態でありながら、そのことさえ分からずに罪を犯し続け、あなたの怒りを受けるべき存在でした。しかし、憐れみ深いあなたは私たちに救い主イエスを遣わすことで、私たちを霊的に生き返らせてくださり、あなたと共に生きることができるようにしてくださいました。私たちはあなたの恵みよって今、救われていることを確信し、また感謝をささげます。どうか私たちが私たちを生き返らせてくださったあなたの素晴らしさを、日々、証して生きることができるようにしてください。また感謝を持って、あなたの栄光を現わし生きることができるように聖霊を日々、私たちに送ってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはここでキリストに救われる前の私たちが「死んでいた状態」であったことを説明しています。死んでいた私たちはどのような存在で、何をしていましたか。そのようになってしまった理由は何ですか(1〜3節)。
2.もし私たちの犯した罪が私たちを操るものたちの仕業であるとしたら、私たちがその責任を問われることはないはずです。しかしパウロは私たちが「神の怒りを受けるべき者でした」と言っています。それはどうしてですか(3節)。
4.私たちの救いは神の恵みによるものであると語るパウロの言葉によって私たちは自分の救いについてどのような確信を持つことができますか(4〜6節)。
5.パウロは私たちがキリストによって救われることによって、私たちの人生がどのように変わり、また何ができるようになったと教えていますか(10節)。