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2020.7.12「ファリサイ派と徴税人」

ルカによる福音書18章9〜14節(新P.144)

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


1.ファリサイ派の人と徴税人

①聖書の語る「罪」と「汚れ」

 相変わらずコロナウイルスの脅威が私たちの毎日の生活に影響を与えています。最近はコロナウイルスが飛沫感染だけではなく、空気感染もするようだというニュースが世を騒がせています。私たちも可能な限り防衛策を考え、いろいろなことを試みていますが、とにかくこのウイルスと言うものは人間の目には見えませんからとても厄介な代物であると言えます。

 イエスの時代のユダヤ人たちも、目には見えませんが、自分たちの存在を脅かすあるものを大変に恐れて生きていました。それは「罪」とか「汚れ」と言うことに関する問題でした。誤解してはならないことは、この当時の人々が考えている「罪」と「汚れ」と言う言葉の意味と、現代人が考える「罪」と「汚れ」の間にはその解釈において大きな違いがあると言うことです。現代人は「罪」と聞くと、人間が作った法律を破る行為、つまり「犯罪」を連想します。だから「罪人」と書くと、普通の人はそれを「ザイニン」と呼んで警察に追われているような人を想像するのです。しかし、聖書が語る「罪」とはこのような「犯罪」のことを言っているのではありません。聖書の中で語られる「罪」とは私たちと神との関係の中で生じる問題を指しています。ですから「罪」とは私たち人間が神に背いて生きていることを表す言葉なのです。

 これは「汚れ(ケガレ)」と言う言葉の意味でも同じことが言えます。私たちは「汚れ」と言う文字をおそらく「ヨゴレ」と読んで、何か人間の健康を害するような衛生的な問題だと考えるはずです。まさに、私たちが今問題にしているウイルスも人間の健康を害する存在ですから、この「汚れ」に該当するものなのかも知れません。だから私たちは自分がこのウイルスに侵されないために家に帰ったらまず石鹸で丁寧に手洗いをしなければならないのです。

 しかし、ユダヤ人たちが考える「汚れ(ケガレ)」はこのようなものではありません。確かに彼らは家に帰ると必ず熱心に、強迫観念にとらわれている人のように手を洗いました。しかし、それは衛生的な問題からしているのではありません。これも神との関係に基づく問題です。なぜなら彼らは「汚れ」が少しでも自分にあるならば、自分は神に受け入れてもらえないと考えていたからです。だから、ユダヤ人は自分を神に受け入れてもらうために「罪」や「汚れ」と言う問題にとても敏感でした。しかも、彼らはこの「罪」や「汚れ」が自分の内側からではなく、自分の外側からやって来ると考えていたのです。彼らにとって「汚れ」は私たちの考えるウイルスのように怖いものだったのです。


②ファリサイ派の人と徴税人

 今日もイエスが語られたたとえ話から学びます。そして今日のたとえ話に登場する二人の人物にとってもこの「罪」と「汚れ」の問題はとても大切であったと言えます。この物語の一方の登場人物であったファリサイ派の人はこの「罪」や「汚れ」にとても敏感に反応しました。だから彼らは自分を「罪」や「汚れ」から守るために一生懸命に防衛策を考え、それを実践していたのです。そのために彼らは神が与えてくださった「戒め」、聖書が教える律法に熱心に従って生きようとしました。自分が律法に熱心に従うならば、「罪」や「汚れ」の脅威から守られると信じていたからです。

 このたとえの中では「自分は正しい人間だとうぬぼれて」(9節)とか、「義とされて家に帰った」(14節)と言う言葉が登場しています。ここで使われる「正しい」とか「義」と言う言葉の意味も聖書の教える意味は、私たちが普通考えるものとは違っています。なぜならば聖書では「正しい」とか「義」と言う言葉を、その人の存在が「神に受け入れられている」と言う意味で用いられているからです。ですから「正しい」とか「義とされる」の言う言葉は「この人には「罪」や「汚れ」は一切認められない」というお墨付きをもらったことを表す言葉なのです。

 ファリサイ派の人々は自分がそのようなお墨付きを神からいただくことができるような存在だと考えていました。しかしもう一方の「徴税人」と呼ばれる人は違いました。なぜなら、「徴税人」は当時の人々の中で「罪人」の代表格、「汚れ」に満ちた存在と考えられていたからです。だから、ファリサイ派の人はこの「徴税人」に近付くことを恐れていました。なぜならファリサイ派の人は「徴税人」に近付けば、彼らの持っている「罪」や「汚れ」が自分に移ると考えていたのです。それほどまでに「徴税人」は罪深い存在だとユダヤの人々に信じられていたのです。

 この「徴税人」は当時のユダヤを支配していたローマ帝国に仕えて、民衆から税金を徴収する役目を担った下級役人たちでした。彼らはユダヤ人でありながら、ローマの命令に従い、ローマのために働く人々でしたからユダヤ人にとっては「売国奴」と呼ばれてよい存在でした。最近、お隣の韓国では「親日派」の清算問題が話題になっているようです。そしてその問題を解決させるために政府は様々な政策が行おうとしています。この「親日派」というのは言うのは、日本に親近感や好意を感じている人々のことを言うのではでありません。ここで問題とされる「親日派」は日本が韓国を支配していた時代に、当時の日本政府のために働いて何らかの利益を得た人々のことを指しているからです。このように戦争が終わり、韓国が日本の支配から解放されて75年も経つのに、いまだに「親日派」と呼ばれる人々は韓国において犯罪者として取り扱われているのです。

 徴税人もユダヤ人にとっては同じように憎むべき存在とされていました。なぜなら、彼らはローマから得た税金徴収の権利を使って、多額の税金を民衆から奪い取り、自分の財産を蓄えていたからです。つまり、このイエスのたとえ話には当時の人々にとって模範的ユダヤ人とされるファリサイ派の人とそれとは対照的な徴税人という二人の人物が登場しているのです。


2.自分の正しさを誇ったファリサイ派の人の祈り

①不自然な感謝の祈り

 この対照的な二人の人物がなぜ、ここで一緒に登場するのでしょうか。その理由は彼らが同じように祈るために神殿にやって来たからです。当時エルサレムの中心に建てられていた神殿では祭司たちによって神に献げられる礼拝が連日執り行われていました。そして人々は祈りを献げるためにこの神殿にやって来ていたのです。ですからイエスはユダヤ人が親しんでいる日常的風景を用いてこのたとえ話を語られたのです。確かにこのたとえ話はイエスの作られた創作の物語ですが、もしかしたら、このお話と同じような風景をイエスは神殿で目撃していたのかも知れません。そしてこの対照的な二人の人物が献げた祈りも同じように対照的なものであったと言えます。

「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」(11〜12節)

 「ファイリサ派の人は立って、心の中でこう祈った」と書かれています。しかし、言葉に出さなくても彼の祈りの内容はいかにも自信たっぷりの彼の容貌からも誰にでもよく理解できたのだと思います。彼の祈りはまず、自分が神の律法に従っていること、神が律法で禁じられていることを自分はしてはいないと言う訴えから始まっています。そしてその次に彼は自分の信仰の熱心さを示すために、自分が進んで行っていることを語っています。つまり、彼は律法に定められた以上のことを自分はしていると言っているのです。そして彼は自分がこれらのことができていることを神に感謝しています。

 しかし、彼の「感謝」はどこかが変なのです。通常、感謝の祈りは、私たちに与えられた神の恵みに感謝すると言う形で献げられます。神が恵みを与えてくださったから自分の信仰生活はこのように祝福されていると祈ることで、その恵みを私たちに与えてくださった神の素晴らしさをほめたたえるのが感謝の祈りの目的です。しかし、このファリサイ派の人の祈りを聞いていて感じることはそれができている自分が優れている、人よりも勝っていると言う自慢でしかありません。それではどこに彼の不自然な感謝の祈りの原因があるのでしょうか。それは彼がこの祈りの中で「この徴税人のようでないことを感謝します」(12節)と語っている部分にあります。彼はここで自分の信仰のすばらしさを示すためにそうでない人物を登場させるのです。このように「自分はこの人よりもずっとましでしょう」と祈ることが本当に私たちの献げる神への祈りに必要なことなのでしょうか。


②他人と自分を比べても正しいセルフイメージは得られない

 この間のフレンドシップアワーで私たちが自分に対して抱いているセルフイメージのことについて話題になりました。セルフイメージは簡単に言えば、自分で自分の価値をどのように評価しているのかを示すものです。そして一般的にこのセルフイメージが高いに人の方が、自分の人生を豊かに生きることができると言われています。つまりその方が幸せな人生を送ることができると言えるのです。それに対してセルフイメージが低い人は、その人生で問題行動を起こしやすいと考えられています。

 イエスの語られたたとえ話に登場するファリサイ派の人は一見、このセルフイメージが高い人のように思えるかもしれません。自分で自分が優れていることを誇っているからです。しかし、そうではありません、なぜなら彼は自分のセルフイメージを示すために、自分よりも価値が低いと考えている徴税人を登場させなければならなかったからです。このように自分の持つセルフイメージが低い人は自分よりも価値が低いと思わる人を見つけ出そうとします。だからそのために他人がいつも自分より劣っていることを証明しようとするのです。そして他人の成功を喜ぶのではなく、他人の足を引っ張って何とかその人を失敗させようとするのです。だからファリサイ派の人は徴税人のような人が悔い改めて、神のもとに帰って来ることを決して好みません。聖書ではイエスの元に徴税人たちが近づいて仲良くするのを見て、ファリサイ派の人がイエスを非難したという場面が何度も登場しますが、その理由はここにあります。

 このように人と比べて自分のセルフイメージを見積もることには大きな落とし穴が潜んでいます。だからこのファリサイ派の人とは全く逆に「他の人はできていることを自分はできていないから自分はダメな人間だ」と考えることも、同じように誤ったセルフイメージの見方をしていることになるのです。


3.神の助けを求める祈り

①「自分は正しいとうぬぼれる」人々

 自分の正しさを証明するために自分よりもダメだと考える徴税人のような存在を利用して、祈りを献げたファリサイ派の人の祈りは、人によっては「祈りではなく、独り言」と考える人がいます。確かに、自分の正しさを主張するファリサイ派の人は神に何かを求めている訳ではありません。彼はすでに自分自身ですべてが満たされてしまっていると思っているからです。

 最初にこのたとえ話はイエスによって「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(9節)語られていると聖書は記しています。実はイエスがこの話をいったい誰に向かって語っているのかと言うことも聖書学者たちは問題として論じています。このお話はたとえ話の登場人物と同じファリサイ派の信仰を持つ人々に向けて語られているのか、それともイエスの弟子たちに向けて語られたのかと言う論争です。ただここで「自分にうぬぼれて」と言う表現を私たちは注意して読む必要があります。実はこの言葉は「自分を頼りにして」と読んだほうがいいような意味を持つ言葉だからです。つまり、このたとえ話は「自分を頼りにして」、神に助けを求める必要を感じていない人々に向けて語られていると考えてもよいのです。そしてたとえ話に登場するファリサイ派の人はその祈りの中で神に助けを求めていませんから、自分を頼りとする典型的な人物と考えることができます。


②徴税人の祈り

 このことを踏まえてもう一方の徴税人の祈りについて考えて見ると、なぜ彼の祈りの方が神に「義とされた」のかが分かって来ると思います。確かにこの徴税人は信仰者としてはふさわしい信仰生活を送ることができてはいなかったようです。彼は神の律法に従うことが出来ない自分は、このままでは神に受け入れられることができないことをよく知っていました。だから彼は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」そう祈るしかなったのです。彼は祈りの特徴は自分のありのままの姿を神の前に示していることです。彼は自分で自分を取り繕うと言うことを一切していません。だから彼は「自分は罪人だ」と言う他、何も言うことができなかったのです。徴税人は「目を天に上げる」ことができませんでした。考えれば考えるほど自分は神にとってふさわしい者ではないと思えて仕方がなかったのです。しかし、彼の心はそれでもまっすぐに神に向けられています。だから、彼は神に「わたしを憐れんでください」と叫び求めることができたのです。

 旧約聖書に登場するモーセと言う人物は自分に語りかけてくださる神の声を聞いたときに「神を見ることを恐れて顔を覆った」(出エジプト3章6節)と記されています。宗教改革者カルヴァンはこのモーセの姿について、モーセは神に近付けば近づくほど、自分がその神にふさわしくない者であることを悟り、自分の顔を覆わざるを得なかったと説明しています。つまり、私たちが私たちの罪深さを悟ることができるのは、神が私たちのそばにいてくださるからです。神がその聖なる光で私たちを照らしてくださるから、私たちは自分の罪深さを自覚することができるのです。ですから徴税人がこのように祈ることができたことは、神が彼のそばにいてくださっていると言うことも表しているのです。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)

 イエスはここで徴税人が「義とされる」と言う受け身の言葉、受動態を使って語っています。私たちが自分で自分を「義とさせる」ことはできません。私たちを義としてくださることのできる方は神お一人しかおられないからです。徴税人はだから神に「憐れみ」を求めました。そして私たちの神は私たちに対して「憐れみ」を豊かに示してくださったのです。なぜなら私たちのために救い主イエスを遣わしてくださったからです。イエスを信じる者だけが神に「義とされる」ことができます。このような意味でここに登場する徴税人は、救い主イエスによって救われて、神の子とされた者たちを象徴的に表す存在だと考えることができます。私たちはこの徴税人と同じように神の前に自分を取り繕う必要はありません。自分が優れていることを証明するために誰かを利用する必要もありません。なぜなら、神は罪人である私たちをイエス・キリストによってそのままで救ってくださるからです。だから私たちはこの神に心から感謝を献げることができます。そしてその神の素晴らしさを心からほめたたえながら信仰生活を送ることができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 このたとえ話に登場する徴税人のように憐れみを求める罪人の祈りに答え、救い主イエスを遣わしてくださったあなたの御業に心から感謝いたします。あなたの愛によって生かされている私たちが、あなたによって自分の価値を正しく判断することができるようにしてください。そして私たちがあなたから与えられた命を大切にして、私たちに与えられているこの地上でのふさわしい働きに従事し、その勤めを全うできるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このたとえ話はイエスによってどのような人々に対して語られたものだと福音書は記していますか(9節)。

2.この日、神殿に祈るためにやって来た二人の人はどのような人たちでしたか(10節)

3.ファリサイ派の人は心の中でどのように祈りましたか(11〜12節)。この祈りの言葉からこの人がどのような人であることが分かりますか。

4.どうしてファリサイ派の人は祈りの中でこのたとえ話のもう一人の登場人物である徴税人のことを語ったのでしょうか(11節)。

5.もう一方の徴税人は神に対してどのように祈りましたか(13節)。

6.イエスが語られたようにどうして「義とされて家に帰った」のはファリサイ派の人ではなく、徴税人だったのどうしてでしょうか(14節)。あなたが神に献げる祈りはファリサイ派の人と徴税人のどちらに似ていると思いますか。

2020.7.12「ファリサイ派と徴税人」