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2020.7.19「一つの希望にあずかる」

エフェソの信徒への手紙4章1〜6節(新P.355)

1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、

2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、

3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、

6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。


1.招きにふさわしく歩む

①知るだけではなにも変わらない

 私は第二次世界大戦が終わった年の十二年後に生まれました。そのような意味で私は「戦争を知らない世代」と言われるような人間の一人です。ただ、まだ私が小さかった頃に私の身の回りには戦争の痕跡と言うものがたくさん残されていたような気がします。私の身の回りにも戦争で家族を失って寂しく一人暮らしている婦人がいました。町では傷痍軍人と言われる人が不自由な体で物乞いをしている姿をよく見かけました。しかし、そのような姿も私が成長するにつれ少しずつ消えていき、日本は高度経済成長と言う名のもとに飛躍的な発展を遂げて行きました。

 その高度経済成長の中で育った私の記憶にも今でも鮮明に残されているのは、戦争は既に終わっているのに、何十年もの間、南の島のジャングルに籠り、ひっそりと生き続けていた日本兵が発見されたと言うニュースです。グアム島で発見された横井さんや、フィリピンのルバング島で発見された小野田さんのことを知っている方も、皆さんの中にはおられるかもしれません。彼らの発見はニュースとなって当時の日本を騒がせました。

 日本に帰って来た彼らの証言を聞いてみると、彼らは決して日本の敗戦を知らなかった訳ではなかったようです。戦後の大きな世界の変化はジャングルの森の中でひっそりと暮らす彼らにも伝わっていたと言うのです。しかし、彼らは日本の敗戦のニュースを知っていても、それを信じることができませんでした。だから彼らは戦後に起こった世界の変化を無視して、ジャングルの中でひっそりと逃亡生活を続けなければならなかったのです。


②信じて生きること

 今日の聖書箇所でパウロは次のように私たちに勧めています。

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み(なさい)」(1節)。

 ここでパウロは私たちが神から招かれてその救いに入れられことを取り上げています。だから私たちに神から招かれた者らしく「ふさわしく歩みなさい」、つまり「ふさわしく生きなさい」と勧めているのです。ここまでパウロはエフェソの手紙で神の救いについて語って来ました。神は天地を造られる前からこの世界のために、また私たちに一人一人の人生のために素晴らしい計画を立てて下さいました。そしてその計画を実現させるために私たちに救い主イエスをこの地上に遣わしてくださったのです。私たちはこのイエスの御業によって、罪赦されて、神の子とされる特権を神から与えられたのです。そして神は、その計画に基づいて私たち一人一人をキリストの身体である教会のメンバーにしてくださったのです。神は今もなおこのキリストの身体である教会を通してこの世界に対するご自身の計画を成就されよとしておられるのです。

 パウロが言うここで言っている「ふさわしく歩みなさい」と言う言葉は、その神の計画を知り、神の救いにあずかった者なのだから、それにふさわしい生き方をしなさいと言う意味を表しています。いくら福音を知っていても、それだけで今までと全く同じ生活をしているならば、それは「ふさわしく歩ん」でいるとは言えません。それでは戦争が終わったことを知りながらも、ジャングルの奥地に留まり続けた日本兵と同じになってしまうからです。だからパウロは私たちに福音を知るだけではなく、信じて、神に救われた者として新たな生活を始めなさいと教えているのです。


2.謙遜の模範

①教会生活と日常生活の関係

 パウロはキリストに救われた者、特にキリストの身体である教会に招かれている私たちがその招きにふさわしく生きるためにはどうしたらよいのかについて具体的に次のように勧めています。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(2〜3節)

 ここに教えられている勧めの言葉は私たちの日常の生活に対する教えなのか、それとも教会生活と言う限られた範囲に対しての勧めなのかがまず問題となります。ただ、この後のパウロの言葉を読んでみると、これはやはり同じ信仰を持っている信者同志の間、つまり私たちが営む教会生活についての教えてであることが分かります。もちろん、私たちの生活が教会での生活とそれ以外での生活で全く違って二重生活のようなことになってしまうことも可笑しなことです。教会では素晴らしい証を立てている人が、一般の日常生活では全く違った生き方をしているならば、それはまさに二重人格者となってしまいます。むしろ私たちの教会生活の生き方が、この日常の生活にも適応されるとき私たちはキリストの福音を教会の外の人々に証することができるようになるではないでしょうか。だからこそ、私たちが正しく教会生活を送ると言うことは重要になって来るのです。


②教会生活の問題をどのように解決するのか

 この世に存在する教会は決して理想郷のような場所ではありません。私たちの救いがまだこの地上の生活では未完成のように、私たちの教会も完成された場所ではありません。だからその教会に後から後から問題が生まれることも確かなことなのです。そこで私たちはどうのように対処すべきなのでしょうか。

 先週、リジョイス誌では旧約聖書のホセアと言う預言者の記した書物を取り上げていました。ホセアは北イスラエル王国で活動した預言者の一人です。この当時、北イスラエル王国は巨大なアッシリアと言う国の脅威にさらされ亡国の危機に立たされていました。ところが当時の北イスラエルの為政者たちは真の神への信仰を蔑ろにして偶像礼拝を行っていました。その上で、彼らはこの危機をこの世の知恵を使って解決しようとしたのです。具体的にはアッシリアに多額の貢物を差し出して、彼らの属国となる方法を彼らは選びます。そのようにして彼らは自分たちの身の安全を守ろうとしました。しかし、結局のところ北イスラエルはやがてアッシリアの侵略に合い、滅ぼされてしまいます。預言者ホセアは北イスラエルの民、この世の知恵や自分たちの力に頼るのではなく、神に頼るべきだと言うことを語り続けた人物です。

 このように聖書の中心的なメッセージはいつも私たちに対して神に頼る道を勧めています。ですから、ここでパウロが語る教えはそれぞれの問題を解決する処方箋と言うよりは、私たちが神に頼ることを教えていると言っていいのです。だから神に頼ろうとしない者がパウロの教えに耳を傾けて、実際にそれを実行してみても意味はありません。いえ、ここに語られているパウロの勧めは神に信頼する者だけが行い得るものだと考えることができます。

 この箇所で興味深いのは「一切高ぶることなく」と言う勧めの部分です。パウロはここで私たちがお互い「謙遜」になることを教えている訳ですが、実はこの「謙遜」と言う言葉は当時のローマの社会では美徳ではなく、むしろ「悪徳」の一つとして数えられていたと言うのです。たとえばローマ皇帝が皇帝らしい気品を持って振る舞うことなく、まるで奴隷のようなふるまいをしていると言う場合がそれにあたります。つまり異教社会で「謙遜」は人々の非難の対象となる行為と見なされていたと言うのです。ある聖書学者はこの「謙遜」の素晴らしさを私たちに身をもって示されたのが私たちの主イエス・キリストであると教えています。つまり、この「謙遜」を悪徳から美徳に変えたのはイエス・キリストだと言うのです。そう言われてみるとこの後に続けてパウロが記している、柔和で、寛容な心も、そして愛することについても主イエスの生き方がその本当の意味を私たちに教えていると考えることができるはずです。

 パウロはこの勧めを通してキリストの身体である教会に招かれ、集められた私たちがキリストの模範と同じように生きるようにと教えているのです。しかし、神の子であるイエス・キリストがそのように生きることができたことは私たちにも理解できます。問題はそのキリストと同じように私たちが生きることが本当にできるのだろうかと言うことです。だからこのような疑問を抱く私たちにパウロはこの勧めの根拠を次のように示しているのです。


3.聖霊なる神が実現してくださる一致

「霊による一致を保つように努めなさい。」

 ここでパウロは私たちに「霊による一致を保つように」と言っています。私たちはここでパウロが「霊による一致を作り出すように」とは言っていないことに注意すべきです。つまり、パウロはキリストの身体である教会にはすでに「霊による一致が与えられている」ということを語ります。そしてその事実に基づいて私たちに勧めの言葉を語るのです。だから私たちは既に実現している霊による一致を「保つ」だけでよいと教えているのです。それではこの「一致」は誰によって作り出されるのでしょうか。パウロがここで言っている「霊」がこの一致を実現させるのです。そしてこの「霊」とは復活されたキリストが私たちのために天から送ってくださる「聖霊」なる神のことを意味しています。

 私たちはここで語られているパウロの勧めを私たちが実現できるのもこの聖霊の力によるものであることを忘れてはならないのです。私たちはアッシリアに貢物を差し出した北イスラエル王国の民のようになってはなりません。だから問題の解決はこの聖霊なる神に頼るべきなのです。聖霊なる神が私たちの教会に働いてくださるからこそ私たちがキリストの模範に従うことが可能となるのです。

 先ほど、謙遜も柔和で寛容な心も、そして愛もイエス・キリストが私たちに身をもって示してくださったことだと言うことを語りました。そして聖書はイエス・キリストがこの地上で救い主としての生涯を送るときに、聖霊なる神が彼を導いたことを教えています。だから今、私たちのところに来てくださって、私たちの信仰生活を導いてくださる聖霊は、イエス・キリストの生涯を導いて下さった霊でもあるのです。この聖霊がキリストの身体である教会を導いて、教会に招かれ集められた私たちをふさわしく生きることができるようにしてくださるのです。パウロは私たちがそのことを覚えることで、この聖霊の働きに一層の信頼を寄せて、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と勧めていると言えるのです。


4.一つの希望にあずかる

①神によって完成に向かっている

 パウロは続けて次のように語っています。

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(4〜6節)。

 ある信仰者がこの世の生涯を終えて、天国に旅立ちました。そこで初めて天国を訪れた彼のためにペトロが天国の中を案内してくれることになりました。ところがペトロがある部屋の扉の前を通りかかったときのことです。ペトロは急に声を潜めてこう語ります。「この扉の前では静かにしてください」。天国に来たばかりの新入りは「それはどうしてですか。ここはどのような部屋ですか」と尋ねるとペトロは次のように答えたと言うのです。「この部屋にはバプテスト教会の人々だけが集まっています。そして彼らは「天国には自分たちしかいない」と思い込んでいるのです」と言うのです。

 これはアメリカ人がよく語るジョークの一つです。本当のことではありませんからバプテスト教会の出身者の方が気を悪くされないようにお願いします。しかし、このような勘違いは私たちの信仰生活の中でもよく起こるのではないでしょうか。自分の信仰は正しいが、あの人の信仰は間違っている…。そう考える人にとって天国はごく限られたわずかな信仰者しか入れないところになってしまいます。パウロはここで「一つ」と言う言葉を強調しています。私たちに信仰を与えてくださった方はお一人の真の神なのです。残念ながら私たちがこの地上に留まる限り、私たちの信仰生活が完成されると言うことはありません。私たちはそれぞれ過ちを犯す存在でしかありません。だから私たちの教会生活でも不一致が起こることは避けられないのです。

 しかし、だからと言って私たちは希望を失うことはありません。なぜなら、この誤り多く、弱い私たちの信仰生活を聖霊が導いてくださることを信じることができるからです。だからやがて、私たちが天に迎えられるとき、私たちの信仰生活は神によって完成されるものとなるのです。そのとき私たちの持つ不完全な信仰が天において完全なものにされるのです。だから天国ではバプテストも改革派もカトリック教徒も関係はありません。私たちは今は様々な違いがあっても神によって一つとされると言う希望を持って生きることができるのです。


②私のこの人生にしかできないことがある

 私たちは私たちのために立てられた神の計画を信じています。その計画を神が必ず実現してくださることを信じているのです。そしてこの計画はキリストの教会に集められた私たち一人一人の人生を通しても実現されて行きます。だから私たちは希望を持ってその計画が実現することを待ち望んで生きているのです。

 私たちはこの神の素晴らしい計画を知らなかったとき、自分の置かれた境遇を恨み、自分をそのように育てた親兄弟を恨んで生きていました。私たちは決して自分の人生に希望を抱くことはできなかったのです。しかし、今は違います。なぜなら私の人生を通して神の素晴らしい計画が実現することを信じているからです。神は、その素晴らしい計画を実現させるために私たちにこの人生を与えてくださったのです。私たちのこの人生を通してでしか実現できない神の計画が必ずあるのです。そしてこの神の計画を知る時、私たちは今自分たちがたとえ試練や危機に立たされていたとしても、希望を失うことなく、この人生を歩み続けることができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 あなたの素晴らしい計画に基づいて、私たちをキリストによって救ってくださり、今、キリストの身体である教会の一員として招いてくださったことを感謝いたします。私たちはこの世にあって未だ不完全な者たちであり、様々な問題にぶつかって、解決策さえ見つけ出せないことがよくあります。しかし、あなたはその私たちに聖霊を遣わしてくださり、私たちを導いてくださいます。どうか私たちがキリストの模範に従って生きることができるようにしてください。そして私たちがあなたのから与えた人生を通して、あなたの素晴らしい計画の実現のために働くことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはここで自分をどのようなものだと言っていますか(1節)。パウロがこのように自分のことを語ったことは、パウロがエフェソの信徒たちに教える勧めとどのように関係していると思いますか。

2.パウロはここで「神から招かれた者にふさわしい」生き方として、エフェソの信徒たちにどのような生き方を教えていますか(2節)。

3.パウロの言葉から考えると教会における平和と一致を実現させるものはだれであると言えますか(4〜5節)。

4.それでは「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」という福音の真理は私たちの信仰生活にどのような希望を与えてくれると思いますか(5〜6節)

2020.7.19「一つの希望にあずかる」