2020.7.26「キリストに向かって成長する」
エフェソの信徒への手紙4章7〜16節(新P.356)
7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
1.個性は賜物
①教会の一致のために
今日も皆さんと共にパウロの記したエフェソの信徒への手紙から学びます。私たちの神はこの世界と私たち一人一人の人生に対して素晴らしい計画を立ててくださっています。その計画がこの手紙の冒頭から語られるパウロが私たちに告げる福音です。しかし、どんなに素晴らしい計画があったとしても、それが実際に実現されなければ全く意味がありません。ですから神はこの計画を実現させるために救い主イエスをこの地上に遣わしてくださいました。このイエスの御業によって神の計画は確実なものとされたのです。確かにこの計画はまだ完全には私たちの上に実現していません。だからこそ、神はこの計画の完成のためにキリストの身体である教会を立て、そこに私たち一人一人を集めてくださったのです。この教会の歩みと神の計画との間には密接なつながりがあります。そのような意味でこの教会には最初から明確な目的が与えられています。その目的に従うならば教会は神の計画が進展し、神の国が実現するために活動しなければなりません。そして、この活動に教会が従事していくためにはなによりもその教会の一致が求められているのです。教会がたいせつな使命を果たす前に、仲間割れをしていたら、結局何もできなくなってしまうでしょう。だから、パウロはここで教会の一致を勧めています。それでは私たちは教会の一致のために何をしたらよいのでしょうか。
②キリストの賜物のはかりに従って
「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(7節)
少し前に学んだようにエフェソ教会の主要なメンバーは異邦人、つまりユダヤ人以外の人々でした。もちろん、この教会の中にはユダヤ人の教会員も所属していました。私たちの教会にも外国から日本にやって来られて生活されている方が出席されます。そのような方たちと信仰生活を共にしていきますと、生活の仕方から、物事の考え方でいろいろな違いがあることに気づきます。もちろん、個性というものがありますから、人間は皆違うのは当たり前ですが、外国から来られた方と付き合っているとやはりその国のお国柄と言うものを感じることがあります。その場合、互いの違いを理解し合えればよいのですが、そうはうまくいかないことがよくあるものです。エフェソ教会でもそのような問題が生じていたようです。特にユダヤ人は子どもの時から律法に従う厳格な生活を守ってきました。それは異邦人にはなかなか理解できないことで、そのために教会の中でも問題が起こっていたと言うことがこの手紙の記述の中から想像することができます。
しかし、今回パウロが取り上げようとするのは民族の違いではありません。今日の部分ではむしろ先ほど少し言いかけましたが個性の違いと言ったものが問題とされています。私たちは一人一人違った個性を持って生きています。そしてその違いのゆえに衝突し合うこと、争いが起こることがよくあるのです。その場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか。自分の個性を犠牲にしても、私たちは誰か一人のリーダーの言葉に従って行くべきなのでしょうか。そうではないとパウロはここで教えています。パウロはここで私たちが普段「個性」と呼んでいるものを「賜物」と言う言葉で呼び変えて語っています。なぜなら、私たちの持っている個性は神が私たちに与えてくださったもの、その意味で「賜物」と呼べるからです。
昔、高名な聖書の教師にその弟子が、「あなたはモーセのような方です」と褒め称えて語りました。するとその教師はその弟子を戒めてこう語ったといいます。「わたしがやがて、この地上の生涯を終えて神の前に立たされたとき、神は「お前はモーセのように生きたか」とは問われないはずだ。その時、神は私に「お前はお前自身として生きたか」と問われるはずだ」と語ったと言います。
パウロはここで私たちの個性を「賜物」と呼び、その賜物はキリストによって私たちに与えられたものだと語っているのです。ここで「キリストの賜物のはかり従って」と語られているように、私たちに神から与えられた賜物は決して同じではありません。しかし、教会の一致のために、また神の計画のためには私たち一人一人がキリストからいただいた賜物を大切にしていくならば私たちの教会は豊かに成長することができるのです。私たちはそのことをここからまず学ぶべきであると思います。
2.キリストの勝利
①キリストの分捕り品である賜物
パウロはここで私たちに与えられた賜物がキリストによるものであることを説明した上で、そのキリストがどのようにしてこの賜物を私たちのために獲得してくださったのか、その方法を説明しています。
「そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」(8〜10節)
ここに括弧で囲まれている部分は旧約聖書の引用です。パウロは詩篇68編19節の言葉を直接の引用ではなく、自分なりに意訳してここで語っています。この詩篇の言葉の元々の意味は王が戦いに勝利して、敵から得た分捕り品を民に与える姿を歌っています。私たちに与えられた賜物はこのキリストの勝利によって得られた分捕り品です。だから私たちはその分け前をキリストからあずかっていると言うのです。
②謙遜の意味
ここでキリストの勝利の最大の秘訣をパウロは「低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」と語ります。これは使徒信条の言葉では「陰府にくだり」と言う文章で表現されている行為です。キリストの勝利は彼が高く上ったからではなく、最も低いところに下られたからだと言っているのです。これを教会では「キリストの謙遜」と言う言葉でよく表現します。キリストはご自分がキリストとして使命を十分に果たすために謙遜になられたのです。
実はこれは私たちに与えられた賜物を私たちが最大限に生かすためにも重要になってくることだと言えます。なぜなら、人は自分の才能を人と比べることで誇って見せたり、その反対に卑屈になったりしてしまうからです。私たちはこのような誤りを犯すことで教会の中で本当にその賜物を生かす機会を失ってしまうのです。なぜなら、私たちに与えられた賜物は私たちが謙遜になるとき、最大の力を発揮するからです。キリストの謙遜はそれをよく私たちに教えているのです。
最近ネットで評判になっている韓国人の芸能プロデューサーがいます。彼によってK-POPと言って韓国の芸能界で歌手としてデビューしたい日本人の女性たちを選ぶ番組が作られました。そしてこのプロデューサーは番組の中で将来のK―POPの歌手を夢見る女性たちに意外なアドバイスをするのです。実際にインターネットでその発言を調べて見ると彼はスターを夢見る女性たちに「真実、誠実、謙遜」が大切であることを教えていました。その中で彼が語った「謙遜」についての説明がとても興味深かったのです。このプロデューサーはこう言います。「あなたの周りの人は誰でも自分より優れていると思いなさい」。ここまでは私たちも謙遜についてよく聞く説明です。しかし、彼は続けてこう語ったのです。「だから、人を見るとき、まずその人の長所を見つけ出すようにしなさい」と…。
これは謙遜ついての分かりやすいアドバイスであると言えます。なぜなら私たちが他人に不満を抱き、その人を裁こうとするときは、必ず自分はその人よりも上だと考えていることが前提となるからです。他人を蹴落としてでも人気を得たいと考えるはずの芸能界に生きるプロデューサーの発言としては意外だと感じました。しかしこのプロデューサーに育てられるなら、本当に素晴らしいスターが生まれるのかも知れないなとも思されたのです。
キリストから与えられた私たちの賜物は私たちが謙遜となるとき、本当の意味でその力を発揮します。そのために私たちも自分より他人を優れた者と思うこと、そのためにいつも教会に集う兄弟姉妹の長所を私たちが見つけ出していくなら、そこに本当の意味でキリストの身体である教会の一致が実現していくと考えることができるのです。
3.キリストの身体である教会が成長するために
①教会役員のつとめ
パウロはキリストのはかりに従って賜物が私たちに与えられることで、それぞれ違った職務を担当する者が教会に与えられていることをここで続けて語っています。最初に上げられる「使徒」、「預言者」は聖書が完成されるために働いた特別な職務の人々で、聖書が完成した今は、このような職務を担当する人は教会に存在していません。しかし、次の「福音宣教者、牧者、教師」は現在でも教会に存在する職務です。そしてこの三つの職務はそれぞれ別々なものではなく、現在では「牧師」や「長老」と呼ばれる人々、教会の役員として職務を遂行する人のことを言っています。パウロはこのような職務を行うために神から賜物を与えられた人々が、その賜物を教会でどのように使うべきかをここで語っています。
「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(12〜13節)
教会に立てられたリーダーは教会の一致のために奉仕します。そこに集められた者たちは決して完全な者たちではありません。しかし、確かなことはキリストが私たちにそれぞれにふさわしい賜物を与えてくださっているということです。だから教会の牧師や長老たちは、そこに集められている人の賜物が豊かに発揮され、成長していくために奉仕するのです。
②信仰と知識
教会に与えられた賜物を生かして教会を一つとするために大切なことがあります。パウロはそれを「神の子に対する信仰と知識」と言っています。教会の役員はキリストに対する正しい信仰と知識が教会員の中で守られるために働きます。なぜなら、私たちに与えられた多様な賜物は私たち一人一人が一人のキリストに従うことによって十分に発揮されるからです。だからこのキリストへの信仰と知識がそれぞればらばらであるなら、教会の一致は実現しません。そのために牧師や長老は聖書にもとづいて正しい信仰と知識を教会員一人一人が伝えて行くのです。このようにして教会員一同が正しい信仰と知識を持つ時、教会はキリストの身体として成長していくからです。
ここで聖書は決して個人の信仰的成長だけを語っていないと言うところに注目すべきです。私たちはよく「あんな人はほっておいて、自分だけよくなればよい」と考えてしまうことはないでしょうか。その考え方は間違いであることをパウロの言葉は教えています。自分一人で維持される信仰は独善的で、自分では成長していると勘違いすることができても、決して成長しているとは言えません。なぜなら私たちの成長は一つの教会の中で実現していくからです。そして私たちの信仰の成長にとっても、教会に集められた人が持っている多様な賜物が必要になってくるからです。
4.偽物に騙されない
パウロはここでエフェソ教会の人々が「人を過ちに陥れるような教えに従ないように」と勧めています。そして彼らに「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していき(なさい)」(15節)と教えています。興味深いのはヨハネの黙示録が伝えるエフェソ教会の当時の特徴です(2章1〜7節)。この記事を読んでみるとエフェソの人々は自分たちの教会を誤った教えから守ることには成功していたようです。しかし、そのエフェソ教会にはキリストから次のような警告が語られています。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(4節)。どんなに真理が守られているとしても、教会に愛が欠如してしまっていたらそれは致命的です。ヨハネの黙示録がここで語っている「初めのころの愛」とは「キリストの愛」のことであると言ってよいでしょう。キリストがこの地上に来てくださり、私たちと同じ姿を取られ、私たちに代わって死の呪いを受けて「陰府にくだられました」、その謙遜によって示されたキリストの愛から遠ざかってしまったら、教会の本当の一致は実現できないのです。
だからこそ私たちはこのキリストの謙遜の模範に従って、自分よりも相手が優れていることを認め、その長所を認めることが大切なのです。なぜなら、キリストはここに集められている一人一人にそのはかりに従ってふさわしい賜物を与えてくださっているからです。私たちがその賜物を互いに認め合いながら生きるとき、私たちの教会は成長し、一つとされていくことを信じて行きたいと思います。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちにキリストの勝利によって素晴らしい賜物を与えてくださることを感謝いたします。私たちがこの賜物を使って、あなたから与えられた使命を果たすことができるように助けてください。そのために私たちがキリストの謙遜の模範に従い、お互いの賜物を認め合うことで教会が成長し、一つとなることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロは私たちにはキリストから何が与えられていると語っていますか(7節)。
2.パウロは詩篇の言葉を引用して私たちにキリストから与えられた賜物についてどのような説明をしていますか(7〜9節)。
3.教会にはキリストから与えられる賜物によってどのような職責を持った人が働いていますか(11節)。そして彼らの奉仕によってどのようなことが実現すると言われていますか(12〜15節)。
4.パウロの言葉に従えば私たちの信仰の成長はどこでどのように実現して行くと考えることができますか(16節)