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2020.7.5「キリストの愛を知る」

エフェソの信徒への手紙3章14〜21節(新P.355)

14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。

15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。

16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、

17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、

19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、

21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


1.祈るパウロ

①自分には神の助けが必要

 今日も使徒パウロが記したとされるエフェソの信徒への手紙から学びます。今日の箇所にはパウロがエフェソの信徒たちのためにささげた祈りの言葉が記されています。パウロの祈りの一部はこの手紙の1章の15節から23節にも既に記されていました。パウロはエフェソの人々を思い、この手紙を記した訳ですが、その途中で繰り返し神に祈りを献げるという行動をしています。私たちは使徒言行録や彼自身が記したいくつかの手紙の内容を通して伝道者として誰よりも活動的であったパウロの姿をよく知っています。しかし、パウロはそれと同時に祈りの人であったことが聖書を読むと分かります。この二つのパウロの姿は決して矛盾するものではありません。なぜならば彼が誰よりも抜きん出て福音伝道のために活動することができたのは、彼が祈りによって神の助けを受けることができたからだとも言えるからです。


②神は私たちの祈りに必ず答えてくださる

 私たちが神に祈りを献げる条件としてとても大切なことが二つあります。それは第一、自分は祈りを通して神の助けをいただかなければならない者であることを知っていると言うことです。「自分は誰の助けも借りなくても大丈夫、自分の力で十分やって行ける」と考える人は、あえてそれ以上誰かに助けを求める必要を感じることはないはずです。ましてや神に助けてもらおうと、神に祈りを熱心に献げるということもありません。先日も学びましたように、パウロは自分のことを「最もつまらない者」(8節)と考えていましたし、「罪人の中で最たる者」(テモテ一1章15節)とまで語っています。しかしパウロは「だから自分はだめだ」と言っているのではありません。むしろ「だから自分には神の助けが必要なのだ」と強く感じていたのです。だから私たちが祈るためには、自分が神の助けなしには生きていけない者であることを知っておく必要があると言えるのです。

 さらに第二の条件は、私たちが神に献げる祈りは空しい独り言ではなく、神は必ず私たちの祈りに答えてくださると言うことを知っていることです。パウロは伝道者として生涯を通して、神が必ず自分の献げる祈りに答えてくださるという経験を積み重ね、確信を持つことが出来ました。確かに神はパウロの祈りに答えて驚くべき奇跡を数々行われています。しかし、パウロの祈りについての確信が最もよく言い表されているのは、次のパウロの言葉だと思います。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12章9節)

 私たちは祈ることによって神に今の自分とは全く違う誰か別の人に変えていただくのではありません。欠け多く、弱さをもった今の自分を神は用いてくださって、私たちが最高の人生を送ることができるようにしてくださるために祈るのです。このように私たちの人生を用いてくださる神を知れば知るほど、私たちはその神に助けを求めて、祈る必要を感じるようになるはずです。パウロはこの確信を誰よりも強く持って、祈り続けた人物と言えるのです。


2.内なる人

①人間の親の求めと、神の求めの違い

 今日の聖書の箇所でパウロはエフェソの信徒たちが信仰的に成長できるように、祈りを献げています。この「信仰の成長」について私たちは誤解してしまっているところがあります。なぜなら人間の教育はいつも、子どもたちが一人前になって、親の助けなしで生きることがでるようにさせるものだからです。だから親や教師たちはそのために子どもたちを厳しく訓練するのです。このように子どもの成長が求められる理由は親も教師も、子どもたちといつまでも共にいることはできないと言うところにあります。だから、「自分がたとえいなくなったら、この子が大丈夫のように」と考え、彼らは子どもたちの成長を願うのです。

 しかし、神と私たちとの関係にはこのような問題は決して起こりません。なぜなら、神が私たちを置いて、どこかに消えていなくなってしまうことはないからです。神は私たちといつでも、いつまでも共にいてくださる方です。だから、神の訓練は「自分がいなくなっても、大丈夫のように」と言うような目的でなされるものでは全くないのです。むしろ、神は私たちが徹底的に神に助けを求めることができるように私たちを訓練されるのです。だから、私たちはこのことを踏まえて今日のパウロの祈りを読んで行く必要があります。


②内なる人が強められるために

「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(16〜17節)

 パウロはここで私たちの内なる人が強められるように、そのために私たちの心の内にキリストが住んでくださるようにと祈っています。ここで「内なる人」と言う言葉が登場します。この言葉を理解するにはパウロの語った別の言葉が参考になるかも知れません。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(コリント二4章16節)

 私たちの肉体は日々、老いて行きます。だから昔は簡単にできたことが、今はできなくなっている…、そのような経験を私たちはするのです。私たちはこのような経験を繰り返して年を取っていき、やがて地上の生涯の最後を迎えることになります。私たちの人生がこの「外なる人」だけで営まれていると考えるなら、私たちの人生には希望はありません。しかし、パウロは「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」と語っています。この「内なる人」とは私たちと神との関係を語っています。神によって私たちの内なる人は日々、新たにされるのです。私たちと神との関係が日々深められて行きます。そして私たちに神から永遠の命の希望が与えられるのです。

 それでは私たちのこの「内なる人」が強められるためにはどうしたらよいのでしょうか。パウロはそのために「私たちの心の内にキリストが住んでくださるように」と祈っています。キリストは私たちに天から日々、聖霊を送ることで、私たちの心の内に住んでくださる方です。そして私たちの人生はキリストのものにされるのです。私たちの心の内に住むキリストが私たちの人生を導いてくださるようになるのです。このキリストが導いてくださる人生が失敗に終わることは決してありません。このように私たちの内なる人は、私たちの心の内にキリストが住んでくださることによって強められることができるのです。


3.キリストの愛が私たちの基礎

 パウロはさらにここで祈っています。「(神が)あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と…。どんなに熱心な信仰生活を送っているように見えても、違った原理の上に立てられた信仰生活があります。それは私たちの「恐れと不安」の上に立てられた信仰生活です。「これをしなければ自分は失格者になってしまう」。そんな不安な気持ちを隠すために、熱心に信仰に励もうとするのです。「マインドコントロール」と言う手法を使う宗教家たちは、人が持つ「恐れと不安」を巧妙に利用します。しかし人の持つ「恐れと不安」の上に立てられた信仰にはいつまでも本当の平安、心の安らぎは訪れません。なぜなら、マインドコントロールを行う指導者たちは、人々を安心させてしまったら、その人を支配することができないと思っているからです。このマインドコントロールの罠にかかった者はアルコール依存症にかかった人に似ていると言えます。アルコールを飲み続けているときには気分はよいのですが、ひとたびアルコールが切れるとその人は地獄のような苦しみに襲われます。だから、いつまでもそのような人はアルコールを止めることができないのです。

 パウロは私たちの信仰の土台は「恐れと不安」ではないと言っています。私たちの信仰は愛にねざし、愛にしっかり立つものであるはずだと語っているからです。愛は、誰かに強いられて、誰かに「愛さなければなりませんよ」と命令されたからと言って、私たちの心に生まれて来るものではありません。本当の愛は自由にされた者が、本当の愛を体験することから生まれてくるものだと言うことができます。ところが、罪を犯した人間は決して自由な存在ではありません。彼らは罪と死に捕らえられて、「恐怖と不安」を抱えながら生きなければならないからです。これこそ私たちがキリストを信じる前に送って来たかつての人生の正体であると言えます。確かに私たちの両親は、また友人たちは私たちを愛してくれたはずです。しかし、彼らの愛も決して完全なものではありません。だからこそ私たちは人に愛されるために懸命に努力しなければならなかったのです。

 最近、テレビの番組に出演していたタレントがSNSと言うインターネットに投稿された文章を通して、人々に批判されて耐えられなくなり自ら死を選ぶと言う事件が起こりました。そのタレントは番組の中で悪役を演じて、人々から嫌われるような人物像を見せていたらしいのです。なぜ、このタレントは悪役を演じたのでしょうか。自分がその役を引き受けることで、番組を面白くして、番組制作者の期待に答えることができると考えたからです。だから番組担当者から自分が必要とされるためにそのタレントは悪役を演じ続けたのです。本当は人に愛されたいのに、人々から憎まれる役を演じることは耐えられないものだったのでしょう。こんな出来事は極端な話かもしれません。しかし、私たちは他人から愛されたいと願いながら、返ってその人から憎まれたり、無視されたり、そのような辛い出来事を経験して成長していきます。だから私たちは決して、愛にねざし、また愛によって立つような信仰生活を自分の力で作り上げることはできないのです。


4.キリストの愛を知る

①私たちはキリストによって自由にされている

 そこでパウロはこのような私たちが「愛にねざし、愛にしっかりと立つ」者となるための道筋をここで示しています。それが次のパウロの祈りの言葉の中に明らかに示されています。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(18〜19節)

 パウロは私たちに愛にねざし、愛にしっかりと立つためにキリストの愛を知ることが必要だと教えています。なぜなら私たちがキリストの愛を知るならば、私たちが罪と死から解放されて、自由な者とされていることが分かるからです。私たちを愛してくださったイエス・キリストは十字架にかかって、私たちのために命を捨てることで、私たちを支配していた罪と死から私たちを解放してくださいました。私たちは今や、このキリストによって神の子とされ、自由を得ることできたのです。そしてこのキリストが与えてくださる自由の本当の価値は、私たちが喜んで神を愛し、神に従う信仰生活の中に現わされています。なぜなら、罪と死に支配される罪人は神を愛することも、神に従うこともできないからです。だから、私たちが今、教会の礼拝に参加することができることは私たちが自由にされている証拠だと言えるのです。


②宇宙のようなキリストの愛

 パウロはここでキリストの愛について興味深い表現を使っています。キリストの「愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」と言っているからです。キリストの愛は物差しで測って理解できるような、他の物と比べてそのサイズが判断するようなものとは違います。聖書の解説者によればこのパウロの表現は無限の宇宙を表現するときに用いられる言葉と同じだと言われています。キリストの愛は私たちにとってこの広大な宇宙と同じだと言えるのです。だからパウロ「人の知識をはるかに超えるこの愛」とも語っています。この表現は言葉の上では矛盾しているように思えます。どうして「人の知識をはるかに超えたもの」を私たち人間が知ることが出来るのでしょうか。キリストの愛は私たちの脳内にあるメモリーの容量をはるかに超えるものであって、私たちにはその愛を知り尽くすことできないはずだからです。

 しかし、その知識を私たちは毎日、深めて行くことができます。それは私たちの日々の信仰生活を通して起こります。そのためにキリストは私たちに聖霊を送って、私たちの心の内に住んでくださるからです。

「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

 コロナウイルス騒ぎでステイホームを強いられている人の中でも、「断捨離」が流行しているそうです。断捨離は自分にとって不必要なものを捨てることで、自分を見つめ直す作業だとも言われています。全部捨ててしまったら、生活できなくなります。断捨離をするには自分の生活に本当に必要なものが何であるかを見極める必要があるのです。私たちの信仰生活はこの断捨離と似ているところがあります。私たちの心の内側には私たちがいままでの人生でため込んできた、不必要な知識、思い出や感情がたくさん残されています。そしてキリストは私たちの心の内側に入ってくださり、この断捨離を決行してくださるのです。キリストが私たちの心の中に入ってくださるなら、私たちも安心です。なぜなら、このキリストはやがて私たちのような者たちまで、ご自分に似た者と変えてくださり、私たちが神の栄光を喜んで表す者となるようにしてくださるからです。そして私たちはこのキリストによって、愛にねざし、愛にしっかりと立つ者とされて行くのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 今日も私たちにあなたの礼拝する自由を与えてくださったことを心から感謝します。私たちは今や、イエス・キリストによって罪と死から解放され、神の子どもとして、自由に生きることが出来る者とされています。その上で、イエスは今も私たちに聖霊を送って、私たちの心に住んでくださることで、私たちの心を整理して、私たちが愛に根ざして、愛にしっかりと立つ者としてくださろうと助けてくださることを感謝いたします。どうか私たちがさらにあなたの愛を知ることで、あなたとの関係を深め、永遠の命の希望を持っていきることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはここでエフェソの教会の信徒のために何を祈っていますか。①彼らが強めてもらわなければならないもの、②心の内に誰に住んでもらう必要がある方、③信仰によって彼らが何にねざし、何の上にたつことができるようになるためか(14〜17節)。

2.パウロはエフェソ教会の信徒たちの「内なる人」が強められるために彼らが何を理解し、何を知る必要があると言っていますか(18〜19節)

3.私たちの心の内に住む方は、その御力によってどんなことがおできになるとパウロは言っていますか(20節)。

4.私たちの信仰生活にとって「内なる人」が強められるということはどういうことだと思いますか。そのためにキリストのあなたに対する愛はどのような役割を果たすと考えますか。

2020.7.5「キリストの愛を知る」