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2020.8.2「古い生き方を捨てる」

エフェソの信徒への手紙4章17〜24節(新P.356)

17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、

18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。

21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。

22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、

23 心の底から新たにされて、

24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。


1.異邦人の生き方

①二度あることは三度ある

 「二度あることは三度ある…」と言うことわざを皆さんも知っておられると思います。「同じような失敗を二回も繰り返して犯したときには、さらにもう一度繰り返して同じような失敗をする恐れがある、だからくれぐれも用心するようにしなさい」と言う教訓を私たちに教えることわざです。皆さんはこのことわざ通りに同じような失敗を繰り返して困ったという経験がおありでしょうか。

 「二度あることは三度ある…」。実はこのことわざの教えは心理学的にも説明がつくものだと考えられています。なぜなら、人間は自分が何かを選択する場合に、自分が今まで経験したことの方を選んでしまう傾向があるからです。人間は自分が今まで経験したことのないことをしようとすると、そのために相当の勇気が必要となります。その反対に、今まで経験したことのあることなら安心できるので、そちらの方を選び易いのです。

 道を歩いていて、今まで通ったことのない知らない道を歩くと不安を感じます。だから、当然、人は何度も通って知っている道の方を選びます。過去にその道を選んで失敗していても、知っている道を行く方が心に不安を感じることがことなく進むことできます。だから結局、前に迷ったときと同じ道を選んで、再び道に迷ってしまうという愚かな失敗を繰り返してしまうのです。

 人間は何でも今までしたことがないことをしようとするとき、心に相当のエネルギーが必要となります。だからそのエネルギーがない人は、たとえ自分が失敗することが分かっていても、前と同じような行動を取りやすいと心理学では説明します。皆さんはどうでしょうか。もし「二度あることは三度ある」と言うようなことを私たちが繰り返しているとしたら、その失敗の原因がどこにあるかを究明しようしないでそのままにすれば、私たちはこれからもずっと同じ失敗を繰り返して行くことになるのです。

 今日の箇所で、パウロはキリストを信じて新しくされたエフェソの教会の人々に、キリストを信じる以前の生活をそのまま続けることで同じような失敗を犯すことがないようにと教えています。せっかく、キリストに救われたのに以前と全く同じような生活を続けているなら、それは信仰者とってはふさわしくない生活だと言えるからです。


②知性は暗くなり、無感覚になる

 それでは私たちがキリストから救われる前に送っていた生活とはどのような生活だったのでしょうか。パウロはそのことについて今日の聖書箇所で次のように説明をしています。

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(17〜19節)。

 パウロはここでエフェソ教会の人々に向かって「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」と語っています。以前もお話したように、この手紙を受け取っているエフェソの教会のメンバー構成は、その大半がユダヤ人以外の人々、つまり「異邦人」たちであったと考えられています。本来、「異邦人」と言う言葉はユダヤ人が自分たち以外の神を知らない外国人を呼ぶために用いた言葉です。ですからエフェソ教会の信徒たちは、かつて神を知らない「異邦人」として生きていたのです。しかし、今は違います。なぜなら彼らはイエス・キリストを信じることによって、神の民の一員とされたからです。彼らもまた信仰によってアブラハムの子孫とされ、アブラハムに神が約束された祝福のすべてを受け継ぐ者たちとされたのです。だからこそ、パウロは今や神の民とされたエフェソの教会の人々に神を信じなかったときのような生き方を続けてするべきではないと教えたのです。

 パウロがここで言うように、神を知らない異邦人の生き方の特徴は「知性が暗くなり」、「無感覚になる」と言うところに現れます。子どものころ理科の実験で、冬眠していたカエルを捕まえて来て熱したお湯の入っているビーカーに入れると言うものがありました。熱いお湯に突然に放り込まれたカエルは驚いて、冬眠から目を覚まします。ところが、冬眠したカエルを最初は水が入っているビーカーに入れてその水を後から少しずつ温めていくと、カエルは自分の周りで起こっている変化に気が付かず、最後には熱湯の中でそのまま気づくことのなく茹で上がって死んでしまうと言うのです。

 異邦人の生き方はこの最後には自分も知らないまま熱湯の中で茹で上がって死んでしまうカエルと同じようなものだと言えます。なぜなら、彼らは自分が犯し続けている罪に対して無感覚となっているからです。だからそのままでは死と滅びを目指してまっしぐらに進んでいるにも関わらず、そのことに自分では全く気づくことがないのです。むしろ、自分の人生は善い方向に向かっていると勘違いしたままで、自分の人生の悲惨さに気づくことなく、死んで行かなければなりません。ローマの信徒への手紙にはこの「知性が暗くなり、無感覚になる」こと自体が神の罪人に対する厳しい裁きの現れだと語っています(ローマの信徒への手紙1章24節)。だから、今は私たちが自分の罪を自覚することができると言うことは、とても大切なことなのです。なぜなら、それは私たちがキリストの救いにあずかっているという証拠だと言えるからです。私たちが自分の犯して来た罪に気づくことができるのは、またその故、自分の人生が死と滅びに向かっていることに気づくことができたのは私たちの知性が明るくされた証拠であり、無くなっていた感覚が甦ったこと知らせるものだからです。

 それではどうして私たちの暗くされていた知性が明るくされ、失われた感覚が甦ることができたのでしょうか。


2.聖霊によってキリストとの生きた関係が生まれる

 パウロはその理由を次にように私たちに説明しています。

「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(20〜21節)

 暗くなっていた私たちの知性が明るくなったのは、無感覚になっていた私たちの感覚が甦ることができたのは私たちがキリストを学ぶことができたからです。私たちが福音を通してキリストのことを学ぶことができたからこそ、私たちは死に向かって一直線に進んでいた人生から、永遠の命を目指して歩む人生に方向転換をすることがでるようになったのです。

 三浦綾子さんが記した「塩苅峠」の主人公は一人の伝道者を通してキリストの福音を知り、キリストを信じる決心をしようとしました。しかし、そのときその伝道者が「キリストがあなたのために十字架にかかって死なれたことをあなたは信じますか」と問われたときに、それを主人公は簡単に認めることができませんでした。なぜなら彼は、自分のためにキリストが十字架にかかるほど、自分は今まで深刻な罪を犯してきたとは思えなかったからです。結局、彼はその伝道者に「何でもよいから聖書に書かれた教えの一つに真剣になって従ってみなさい」と勧められました。「そうすれば、あなたにもキリストの十字架の意味が分かるようになる」と教えられたのです。そして主人公が真剣になって聖書の教えに従おうとしたときに、初めて彼は自分がそのままでは聖書の教えに従うことができない罪人だと言うことを知ることができたのです。そして、キリストが十字架に付けられて死んだのはこの自分の罪のためだということを信じることができたのです。

 ですから、私たちがキリストを知り、キリストを学ぶことで私たちの暗くなった知性が明るくされ、無感覚だった感覚が甦るのです。そして私たちは自分の罪のためにキリストが十字架にかかってくださったことを信じることができるようにされるのです。

 ここで一つ注意すべきことはパウロが「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられた」と語っている言葉です。なぜならば私たちは普通、「知る」とか「学ぶ」と言う言葉を聞くと本を読んだり、学校に通って知識を身に着けるというと言うようなことを想像しがちだからです。しかし、パウロが言っている言葉の意味はそのようなことではありません。なぜなら、パウロはここで「キリストに結ばれて教えられ」とわざわざ言っているからです。つまり、この知識はキリストと私たちとの間にできる生きた関係から与えられるものと考えることができます。この関係は今でも天におられるキリストが、私たちのために送ってくださる聖霊によって生まれます。その聖霊が私たちの心の内に働かれることで、私たちはキリストを知り、キリストに学ぶことができるからです。

 今から二千年前に私たちの住む日本の地から見れば遥かに東の地であるパレスチナで生き、そこでイエス・キリストの弟子となったペトロたちは実際にイエスの声を聞き、そしてイエスの行動を見ながら、キリストを知り、キリストから学ぶことができました。聖霊は私たちの内で働いて、今から2000年前に生きた弟子たちと同じような体験を私たちにさせることができるのです。それは聖書の言葉を通して、今の私たちに語ってくださるイエスの言葉を聞くことができるようにさせます。また、その言葉を信じて、生きようとする私たちの人生にキリストが実際に働いてくださっていることを知ることができるようにされるのです。だから私たちは聖霊によってキリストを知る者となり、新しい人とされたのです。


3.新しい人を身につけなさい

①聖霊の力によって歩み出す

 そしてパウロはキリストによって既に新しい人とされた私たちに次のように勧めています。

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(22〜23節)。

 確かに私たちはキリストによって新しい人とされています。しかし、私たちは最初に「二度あることは三度ある」と言うことわざから学んだように、自分が慣れ親しんだことがどんなに自分にとって不都合なことであっても、それをし続けることで安心してしまうところがあります。だから新しいことをするためには相当の勇気とエネルギーが必要となるのです。これは私たちの信仰生活にも同じようなことが言えます。つまり、私たちがキリストの言葉に従って生きようとする決断は私たちにとっては未体験のことだからです。そのためどうしても私たちは不安を感じざるを得ないのです。

 イエスは私たちに「明日のことを思い悩むな」(マタイ6章34節)と教えてくださいました。確かに明日のことを思い悩んでも私たちの人生は少しもよいことはありません。ところが私たちはそのことをよく教えられても、相変わらず明日のことを思い悩んで暮らしています。なぜなら、そのほうが私たちには慣れているからです。今まで身に着けた古い生き方の方が安心できるからです。しかし、その私たちにイエスは「明日のことを思い悩むな」と教え、神を信頼して生きる新しい生き方を教えてくだいました。確かに私たちがこのイエスの言葉に従うためにはエネルギーが必要です。なぜならそれは私たちにとって未体験の世界に一歩足を踏み出すことになるからです。私たち自身にはその力はないかもしれません。しかし、大丈夫なのです。なぜなら、信じてその一歩を踏み出そうとする私たちにキリストが遣わしてくださる聖霊が力を与えてくださるからです。


②私たちのためにキリストが準備してくださった新しい服

 このキリストの言葉に従って生きることをパウロは「古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着ること」に例えて表現しています。私もいつも自分が着慣れた服を繰り返し着る傾向があります。ヘビーローテーションになってぼろぼろになってもそれを着てしまう傾向があるのです。しかし、勇気を出して新しい服を着れば、その服がどんなに自分にとってよいものであるかが分かるようになります。その上で、その新しい服を着続けていくなら、今度はその服が自分にとってぴったりの服となっていくのです。

 キリストに従う信仰生活にこれと同じです。古い生活に馴染んでしまっている私たちは、それがどんなに不都合な生活であっても、ぼろぼろになった自分の古い服を着るように、以前と同じような決断をする傾向があります。しかし、パウロはそのような生き方をしてはならないと私たちに教えています。なぜなら、神はキリストによって私たちに新しい服を準備してくださっているからです。だから不安な心のままでもよいのです。たとえ今は完全に信じることができなくてもよいのです。キリストの言葉に従って生きるなら、私たちの人生は変わって行きます。

 毎食後に歯を磨く習慣を持っている人は、一回でも歯を磨くことができないと、とても不快に感じると言います。しかし、その逆に歯を磨く習慣を持たない人が、たまに歯を磨くと、「口の中がスース―して気持ちが悪い」と感じると言います。人にとって慣れるということはとても重要なことだと言えます。なぜなら、それでこれからの自分の人生が決まってしまうこともあるからです。

 だからこそ私たちは今までの古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着るべきなのです。私たちが聖書の言葉に従って生きようと日々、決断をしていくとき、私たちの人生は変わっていきます。私たちの人生のために立てられた神の素晴らしい計画が実際に実現して行くことを私たちは自分の信仰生活を通して知ることができるようにされるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちはたとえその結果が不都合なものに終わることが分かっていても、自分の人生で以前と同じような選択をし、同じ失敗を繰り返すような罪人であることを覚えます。しかし、あなたは私たちそれぞれに聖霊を遣わして、私たちの知性を明るくし、その感覚を回復させてくださり、私たちが神の子として生きることができるようにしてくださいました。その上で、あなたは私たちを永遠の命の祝福に導くために、私たちが以前は知らなかった新しい生き方を教えてくださいました。どうか私たちが古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着ように、キリストに従う人生を送ることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはエフェソ教会の人々にここでどのようなことを勧めていますか(17節)。

2.パウロは異邦人の生き方の特徴をどのように表現していますか(17〜19節)。

3.私たちがかつて自分が慣れ親しんだ生活や習慣を捨てることは難しいことでしょうか。それとも簡単だと思いますか。

4.私たちがそれまでの異邦人として歩んで来た自分の生活の悲惨さを知り、新しい人生に歩み出すには何が必要であると言えますか(20〜21節)。

5.私たちが古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に付ければ、私たちの人生はどのように変わるとパウロは言っていますか(22〜24節)。

2020.8.2「古い生き方を捨てる」