2020.8.23「愛によって歩む」
エフェソの信徒への手紙5章1〜5節(新P.357)
1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
1.この世の社会と教会の関係について
今から500年以上前にヨーロッパで起こった宗教改革運動の中で、ルター派でもなく、またジャン・カルヴァンの流れを汲む私たちと同じ改革派にも属さない、第三の潮流と言うことができる宗教改革者のグループがありました。教会史ではこのグループを「再洗礼派」と読んでルター派や改革派と区別して呼んでいます。当時のヨーロッパではキリスト教信仰が国の宗教とされていましたから、すべての人々が教会に属すように求められました。そのため子供が生まれれば教会で幼児洗礼を受けることが義務とされていたのです。再洗礼派はこのような当時の教会の伝統を拒否し、幼児洗礼を否定しました。その上で彼らは「人は自らの意志で信仰を告白し、洗礼を受けるべきだ」と主張したのです。つまり、既に教会で幼児洗礼を受けていた人々が、改めて洗礼を受けなおすと言う行動が勧めたのです。このことから彼らは「再洗礼派」と呼ぶようになったと言われています。
この再洗礼派の特徴は、この世の社会と厳しく対立するところにもう一つの特徴がありました。彼らは世の権力を認めることを拒否し、自ら信仰者だけが集まった独自の共同体を形成し、自分たちの掟を持ってその共同体を治めようとしたのです。このため、彼らは世の権力者から厳しい迫害を受けながら、自分たちの信仰共同体を守ったという歴史を持っています。そしてこの再洗礼派の一部はやがて信仰の自由を求めてヨーロッパからアメリカ大陸に移住することとなりました。皆さんも、名前を聞いたことがあると思いますが、アメリカに存在する「アーミッシュ」と呼ばれる人々はこの再洗礼派の信仰を受け継いでいる人々であると言えるのです。
アーミッシュは今でもアメリカ社会の中で独自の伝統を維持しながら自分たちの生活を続けています。彼らは電気も自動車も使うことがなく、ちょうど彼らの先祖がアメリカ大陸に渡って来た当時と同じような生活習慣を今でも守り続けているのです。もちろん、彼らは現代社会の影響が自分たちの共同体に及ぶことを極端に嫌っており、この世の社会と積極的に交わりを持つことはしません。
いつの時代においても教会はこの世の社会とどのように付き合っていくのか、そのことが教会の抱える重大な問題となります。その中でも再洗礼派と呼ばれる人は、この世の社会との関係を断ち、自らの信仰を守りぬくと言う選択をした人々だと言えるのです。
しかし、同じ宗教改革から生まれた私たちの属する改革派教会はこの点において彼らと全く違った道を選びました。なぜなら、改革派教会の考えでは私たちは信仰者としてこの世の社会に対しても責任を負っていると主張するからです。教会はすべての人々にキリストの福音を宣べ伝えると言う使命を神から与えられています。だからこの世に存在している教会は、むしろこの世の社会の中でキリストの証人として福音を伝える使命を負っているのです。
その使命を遂行するためには私たちが世とどのような関係を持つかということがさらに重要な問題として浮かび上がります。なぜならキリストの証人として世に進んで出て行くべき私たちが、その信仰の原理を忘れて、この世の習慣や原理に従って生きてしまえば、私たちは神の証人としての使命を果たすことができなくなってしまうからです。私たちは今、パウロの記したエフェソの信徒への手紙を学び続けています。前回は大切な使命を神から受けた教会がその使命を果たすためにお互いに一致して一つになることが大切であると言うことを学びました。そのために教会員である私たちが語る言葉において、お互いに人を造り上げるために役立つ言葉を語るべきだと言うことを学んだのです。そしてパウロはこの5章に入って、今度は私たち教会員が世の人々の前でどのように生きるべきかを問題としようとしています。世に対してキリストの証人として生きるためにはどうしたらよいかについてパウロは私たちに教えようとしているのです。
2.神に倣う者になりなさい
今日の箇所でパウロはユダヤ人としては意外な言葉を手紙の読者に投げかけています。「神に倣う者となりなさい」と語っているからです。聖書の信仰を守り抜いたユダヤ人たち取って神と被造物である人間との間に大きな隔たりがあると考えることが当たり前でした。つまり、ユダヤ人の中では神に造られた人間が神のような存在になれるとは決して考えることができなかったのです。これはたくさんの神々が存在し、人間や動物、そして自然の現象まで神になれると信じている私たち日本人の祖先とは全く違った考え方だと言えます。
ですからこの聖書のアドバイスの部分は少し注意して読む必要があります。なぜなら、時に人間は神のような力を得たいと言う誤った考えを持つことがあるからです。自分が神のような存在になれれば、すべてのことを自分の思うままに進めて、支配することができると考える人がいるのです。しかし、パウロこの言葉は私たちにそのようなことを勧めているのではありません。
本来、私たちに人間は「神にかたどって創造された」存在だと聖書は語っています(創世記1章27節)。だからもともと人間は神に倣う存在であったと言うことできるのです。私たちが神に倣う者になると言うことは、私たち人間が神に創造されたときと同じように、神を愛し、人を愛して生きて行くことを教えていると言えるのです。残念ながら私たち人間は罪の力によって、最初に神に造られた状況から堕落してしまいました。元々、もっていた機能を奪われてしまい、私たちは神に倣うことができなくなったのです。
しかし、神は私たちのために第二のアダムであるイエス・キリストをこの世に住む私たちのために遣わしてくださいました。ですからこの方だけは第一のアダムの罪の影響を受けておられず、神にかたどって創造された本来の人間の生き方を私たちに示すことができたのです。ですからパウロはそのイエス・キリストの生き方に従うことこそが、私たちが神に倣う者になることだと教えているのです。
「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(2節)。
イエス・キリストの十字架に至るその生涯はすべて彼がわたしたち人間を徹底的に愛してくださったことを示しています。私たちを滅びから救い出し、永遠の命に生きることができるようにするために、彼はご自身を「いけにえ」として献げてくださったからです。だからパウロは私たちがこのキリストの愛を世に伝えることができるように、私たち自身も愛に生きることが大切であると勧めているのです。キリストと言う模範に従って、神に倣う者となりなさいと私たちに教えているのです。
3.私たちはどんな言葉を語るべきなのか
①この世の習慣に倣ってはいけない
今は引退されて、アメリカで暮らしているジョージ・ヤング先生と私は30年以上の付き合いになります。その点ではたちは誰よりも気心を知ることができる関係だと思っているのです。しかし、そんな私でもヤング先生の発言でいつでも理解に苦しむものがありました。それはヤング先生が時々、私たちに話すジョークです。残念ながら私はヤング先生の語るジョークを笑うことができないで、「それどんな意味なの…」、「そこが何で可笑しいのかな…」と考え込んでしまうことが多かったのです。今考えて見ると、これはヤング先生の側の問題と言うよりは、ジョークと言う気の利いた文化を持たない日本で育った私の側に原因があったのとも言えるのです。人が語る言葉や習慣はそれを生み出した文化的背景と深い関りを持っています。今日の聖書の箇所でパウロが問題にするのはこの文化的背景についてです。
「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」(3〜4節)
私たちはここでパウロが信仰者たちに禁じているものは、特別に下品な人たちの言葉や行為を取り上げているように思うのですが、実はそうではありません。ここでパウロが取り上げているものは当時の社会では当たり前のように人々の間で交わされていた言葉や習慣だと言えるのです。当時の人々が当たり前のように語り、むしろ、それらの言葉を通して人間関係を保つというようなことが行われていました。しかしパウロはこの世の人々とは違い、神の子どもとされた者がそのような言葉を語ることはふさわしくないとここで教えているのです。
②「優しい言葉」を語る
私たちは人間関係を保つ上で、世の常識と言うものを重んじることを子どもの頃から教えられてきました。その常識を無視して生きようとすれば、人から反感を買い、その社会で生きることが困難となってしまうからです。様々な人々が移り住み、お互いの人間関係が希薄な都会では多少、常識を外れた人も生きていくことができるかもしれません。しかし今でも田舎のようなところに行くと、この常識の問題はさらに深刻で、人とは違う考え方や生き方をすれば、すぐに「村八分」になると言うことが起こるのです。
パウロはここで私たちに世間の常識を無視して生きなさいと教えているのではありません。しかし、いくら世間では常識と言われていてもそれを無批判に受け入れてはならないと言っているのです。なぜなら、私たち信仰者はこの世の人々と違った原理を持って生きているからです。だから、パウロはその信仰者の原理に基づいて、それに反するこの世の常識や習慣に従わないようにと警告するのです。
興味深いのはこの世の常識に対して考える次のようなパウロの言葉です。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は…」。パウロはここでこの世の常識が私たち信仰者の原理と違う原理を持っていると説明しています。そしてそれを「偶像崇拝者」の原理だと教えているのです。この「偶像崇拝」とは神以外の者に仕える行為を指しています。つまり神以外のものを自分の人生の中心に据えて生きる者はすべて「偶像崇拝者」と言えるのです。それでは世の人々はどんな偶像を崇拝しながら生きているのでしょうか。その答えは、自分自身と言うことができます。人間は自分の人生の中心に神をお迎えし、その神に従って生きて行く必要があります。なぜなら、最初に造られた人間はそのように神によって創造されたからです。ところが人間はその自分の人生から神を追い出して、自分自身が神となると言う過ちを犯しています。だからパウロはこのような偶像崇拝の問題が現代の文化、そして常識と呼ばれる者の中に生きていることを見破り、神を信じる者はそのような生き方をしてはならないと教えるのです。
パウロはこの世の人々が自分の都合のいいように考え、言葉を語ることに反して、神を礼拝する信仰者はむしろ「感謝を表して」生きなさいとここで勧めています。この感謝は神に対する感謝と言うよりは、むしろ私たちがお互いの人間関係の中で「感謝を表す」と言うことを勧めています。だから宗教改革者のジャン・カルヴァンはここのところをわざわざ「優しい言葉」と読み替えて説明しているのです。もちろんこの「優しい言葉」は人を甘やかす言葉と言う意味ではありません。むしろ前回、学んだように本当の「優しい言葉」とは「人を造り上げるのに役立つ言葉」(4章29節)だと言えるのです。
人は自分の都合に合う人間には優しい言葉を使い、そうでない人を厳しく批判します。しかし、ここで語られる「優しい言葉」は、人を愛し、その人を救おうとされる神の御心に沿った言葉を表しています。ですから私たちが「優しい言葉」を語るとき、私たちは神の愛の証人として人々に神の愛を伝えることができるのです。
4.神の愛を証しする者として生きる
最後にもう渡した位置は一度、パウロの言葉の意味を確認したいと思うのです。パウロは私たちに「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神の倣う者となりなさい」と勧めています。そしてそのためにキリストの生き方に学ぶべきだとも教えています。しかし、多くの人はこのような勧めを読むと、「自分はこの勧め通りに生きていない」と考える傾向があります。そしてそれができない自分を裁き、「これでも自分は神の子とされているのだろうか」と疑いさえ抱くことになるのです。しかし、本当に神は私たちにそのように考えることを求めておられるのでしょうか。
誤解してはならないことは、パウロは私たちが神に倣うことで神の子とされるのだとは教えていないと言うことです。むしろパウロはここで「あなた方はすでに神の子供とされている」と教えているのです。そして、この救いの事実は決して揺るぐことは無いのです。それなのに私たちはなぜ、その事実を疑おうとするのでしょうか。そこには私が神に代わって自分を裁くと言うこの世の原理が入り込んでいます。私たちはこの世の原理に従って、勝手に自分に絶望してしまっているのです。だからパウロの教えはこのような過ちを犯す私たちへの警告であるとも言えるのです。そしてパウロは私たちが自分を裁くのを止め、神に自分をゆだねて行くことを勧めているのです。
私が信仰を持ち始めた頃、ある人からこんな話を聞いたことがあります。人が足を踏み入れることのない山の中に、一本の花が咲いています。その花は誰かに見られるためにそこに咲いているのではありません。その花はその場所で自分に与えられた命を使って、その命を与えてくださった神のために精一杯咲いているのです。
私たちは人から評価されるために誰かを愛するのではありません。自分が満足するために誰かを愛するのでもありません。神に生かされているからこそ、神に人を愛する力を与えられているからこそ、それを私たちはするのです。たとえ誰からも評価されなくても、もし私たちが神に与えられた人生を使って、神に倣う者として一生懸命に生きようとするなら、神は必ず私たちを愛の証人として用いてくださることを私たちは覚えて生きたいと思います。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちに命を与え、私たちをイエス・キリストの救いによって神に倣う者としてくださるあなたの恵みに心から感謝します。私たちはあなたの恵みの中に生かされていながらも、すぐそのことを忘れて、自分自身を見つめては絶望してしまう者たちです。聖霊を送って私たちをこの過ちから救い出し、あなたの愛に生きる者として、あなたに信頼し、あなたに自分の人生をゆだねることができるようにしてください。そしてあなたに愛されている子供として、あなたを見つめながら生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロは「神に愛されている子供」である私たちがどのように生きることをここで求めていますか(1節)。
2.私たちが「愛によって歩む」ためには、誰のどのような生き方を模範にする必要があると思いますか(2節)。
3.聖なる者(神に選ばれて、その子供とされた者たち)はどのような言葉を口にすることを慎むべきですか。そして、どのような気持を言葉で人に対して表すべきですか(3節)。
4.パウロはここで「偶像崇拝者」たちをどのような人々だと表現していますか(5節)。
5.あなたは神に愛されている子供として生きるために、何を今神に願い求めたいと思いますか。