2020.8.30「キリストはあなたを照らされる」
エフェソの信徒への手紙5章6〜20節(新P.357)
6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
1.信仰とこの世の生活
①キリスト教は禁欲主義ではない
キリスト教やキリスト教徒について現代人の多くはどのような印象を抱いているのでしょうか。すべての人がそう言う訳ではないのですが、今でも一部の人々はキリスト教信仰について「禁欲主義を教えている」と考える人がいるようです。確かにカトリック教会では今でも修道院と言うものがあって、そこで暮らしている修道士たちはこの世の生活から退いて、ひたすら祈りと瞑想に打ち込む毎日を送っています。この世の生活は神と自分との関係を深めるためには邪魔だと考え、それを捨てて、聖なる生活を送る人たちがいるのです。
しかし、キリスト教の歴史を調べてみるとこのような修道院や修道生活の起源はむしろ、聖書の思想から生まれたものではなく、キリスト教とは違ったギリシャの宗教や思想に影響されて誕生したものであることが分かっています。なぜならギリシャの宗教や思想では物質的なものはすべて悪く、それに反して霊的なものだけがよいと考えるところがあったからです。ですから、昔のギリシャの哲学者たちは「人間の肉体は魂を閉じ込めている牢獄のようなもの」と主張し、人間の救いとはこの肉体の牢獄から魂が解放させることだと教えました。このような考え方から物質的なものをできるだけ遠ざけて生活する「禁欲主義」が生まれと考えられているのです。
一方、聖書は物質についてどう教えているのでしょうか。実は聖書は物質やそれが存在するこの世の世界を100パーセント肯定しています。なぜなら、すべての物質を創造された方こそ、聖書の教える真の神だからです。ですから神がお造りなったもので悪いものなど一切ないと考えるのが本来のキリスト教の教えだと言えるのです。だから、キリスト教においては物質的なものを否定して、禁欲を進めると言う「禁欲主義」の教えは成り立たないと言えるのです。
②神の栄光をあらわすために
私たちはエフェソの信徒への手紙からパウロの語る教えについて学んでいます。神の子とされた私たちは、神に倣う者になるべきだと教えるパウロは、ここでこの世の人々の生き方に倣ってはならないとも私たちに教えます。なぜなら、この世の人々の生き方の背後には神以外のものを神としようとする偶像崇拝の信仰が隠されているからです。そこでパウロは、「何々してはならない」と言う教会員への指示を繰り返し語っています。私たちはこの言葉を聞くと、パウロは「禁欲主義」を教えているのではないかと考えるかも知れません。しかし、実際はそうではないと言えるのです。
むしろ、パウロがここで私たちに教えていることは、神が創造されたすべての物質、またこの世界を正しく用いるための方法です。私たちが信仰者の正しい原理に基づいて、この世の生活を営んで行けば、すべてのものは私たちの人生のために益となるのです。そしてそれらのものを私たちが正しく用いれば、それを造った神の素晴らしさを現わすことにもなるのです。
私たちの人生の目的は「神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと」とウエストミンスター小教理問答書は教えています。私たちがこの神の栄光を私たちの生活を通して現わすためには、「禁欲主義」になるのではなく、すべてのものを正しく使い、そしてそれを造ってくださった神を感謝して生きることが大切なのです。
2.光の子として
パウロは今日の部分でも私たち信仰者がこの世の人々の考え方や習慣を無批判に受け入れてはならないと警告しています。そして私たちに「光の子」として歩みなさいと勧めているのです。イエスは私たちに「世の光」として生きなさいと教えてくださいました(マタイ5章14節)。また、ヨハネの福音書はこのイエスこそ「まことの光」であるとも語っています(ヨハネ1章9章)。ですから私たちが光の子として歩むこと、光の子として生きるということは、真の光であるイエスを信じて、そのイエスの素晴らしさを人々にあらわしていくことだとも言えるのです。ところでパウロはここで私たちが光の子として生きるために興味深いアドバイスを送っています。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。」(10〜12節)。
光の子の使命はイエスの素晴らしさを世の人々に伝えるだけではなく、このイエスが提供する救いを拒否して生きることがどんなに不毛な人生になるかを明らかにすることだと教えています。どんなに一生懸命に生きたとしても神に背を向けて生きる人生は結局、実を結ぶことはできないで終わってしまうからです。だから、光の子はこの世の誤った考え方や習慣に倣うような「暗闇の業」に加わってはならないのです。むしろ光の子は「暗闇の業」の正体を明らかにするように生きなさいと教えるのです。皆さんでも目の前で振込詐欺に騙されて、多額のお金を送金しようとしている人を見れば、何とか説得して、それを止めさせようとするはずです。「暗闇の業」を行う者たちもこの振り込み詐欺の被害者に似ています。悪魔に騙されて一生懸命になっていますが、結果的には自分の人生に取り返しのつかない損害をもたらすことになるからです。
しかし、ある説教者はこのパウロの教えを次に続く言葉と結び付けて面白いことを言っています。なぜならパウロは「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」と語っているからです。だからこの説教者は「どうして「口にすることも恥ずかしいこと」を「明るみにだす」ことがでるのか」とこのパウロの言葉に疑問を挟んでいます。口にするのもはずかしいことを私たちが口にして明るみに出せば、私たちもはずかしくなってしまいます。だからパウロは言う「明るみに出す」という教えは単に「口にすること」つまり、言葉にすることだけを言っているのではないと言うことが分かります。
批評家はたえず、人々やこの世の誤りを指摘して語りたがります。しかし、語るだけでは本当の意味でその誤りを指摘したことになりません。ですから、本当に明るみに出すと言うことは、私たちが進んで正しい行動を取ることによって可能となるのです。この世の人々は神を無視し、神ならぬものの言葉や考え方に従って生きようとします。しかし私たちは「主に喜ばれること」を考えて、行動するのです。そうすれば、私たちは自分の人生を正しく生きることができます。そして私たちは神に祝福された人生を送ることができます。ぜななら、私たちの神だけが私たちが本当に幸せになる秘訣を、私たちが自分の人生で自己実現することができる生き方をご存知だからです。だから、私たちは進んで神の御心に従う生き方をすれば、そうではない生き方が間違っていることを明らかにすることできるのです。
「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」(13〜14節)
興味深いのは私たちが自分の生活を通してこの世の誤りを明るみに出していけば、それによって多くの人々が自分の誤りを悟り、その人たちもまたイエスを信じる「光の子」となることができるとパウロは教えていることです。このように私たちがまず神を信じて、神に祝福された人生を送ることで、私たちは神の福音を信じて生きる人生のすばらしさを人々に証しすることができるのです。
3.御心を悟る
①理性を使って御心を知る
パウロは私たちが光の子として生きること、神に従った人生を送ることで、その人生の素晴らしさを明らかのするためには、まず私たちが「御心を悟って」生きることが重要だと教えています(10、17節)。私たちが光の子として生きるためには「何が主に喜ばれる」ことなのか考え、そのために「主の御心が何であるかを悟る」必要があるからです。
私たちがこの主の御心を悟るためにはまず神の御心が示されている聖書を読むことが大切です。しかし、ここで勘違いしてはならないことは、聖書は決して神の御心を知るためのマニュアルのような書物ではないと言うことです。ご存知のようにマニュアルは私たちが遭遇する様々な生活の場面で、それにどう対処すればよいかを教えてくれます。確かにこのようなマニュアルがあるととても便利だと言えます。客商売を営む大きなチェーン店などでは必ず「接客マニュアル」と言うものが存在し、従業員はそのマニュアルに従ってお客に対応することができるようになっています。
実は聖書をマニュアルのように読んでいた人々がイエスの時代にも存在していました。その人々はイエスと度々対立することになった人々、ファリサイ派の人々や律法学者と呼ばれる人たちです。彼らは人間の生活のいろいろな場面を想定して、律法に従うためにどのような行動をとったらよいのかを考え、人々に教えました。彼らはそのために「律法主義」の膨大なマニュアルを作って人々にそれに従うように求めたのです。しかし、イエスはこのような人々を厳しく非難しました。なぜなら彼らはそのマニュアルを作り、それに従うことで、肝心の神の御心を理解することできなってしまったからです。マニュアルは便利ですが、人はそのマニュアルを守ることだけに熱心になってしまうことがあります。実際に日本のある企業では、マニュアルによって従業員がお客のニードに直接向き合うことができなくなっていると言うことに気づき、マニュアルを廃止したという実話を聞いたことがあります。
ですから私たちが神の御心に従うためには、私たちが聖書を読んで、そこに示されている神の御心に従うために自分はどうしたらよいのかをよく考える必要があるのです。なぜなら、神は私たちが神の御心に従うために私たちに考える力、「理性」を与えてくださっているからです。信仰と理性は決して対立しあうものではありません。むしろ私たちは神が与えてくださった「理性」を使って、神の御心を考え、それに従って行くことが大切なのです。
②機会を見逃すことなく、御心を知る
興味深いのは「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(16節)と語っているパウロの言葉の意味です。ここで使われている「時」と言う言葉はギリシャ語では単なる時間を表す単語ではなく、むしろ「機会」と言うような意味を表す単語が使われています。一度の見逃してしまったら二度と取り返すことができないと言う意味で使われる「機会」と言う言葉です。だから、パウロはこの機会を見逃してはいけないと私たちに教えています。なぜなら、その「機会」こそ私たちが神の御心を理解することができるチャンスだからです。
以前、教会の礼拝に時々、出席されていた青年がいました。丁度、東日本大震災が起こったときのことです。この青年は「どうしてこんなことが起こったのだろうか。神さまはどうしてこんな現実を私たちに与えられたのだろうか」と真剣に悩みました。そして彼はその答えを求めて実際に被害を受けた東北に行ったのです。そして復興のためのボランティアに加わって働きました。彼が東北から帰った後で私は彼に「どうだった。神さまの御心は分かった」と尋ねたことがありました。すると彼はまじめな顔で「結局、わからなった」と答えたのです。しかし、私は彼が東北まで行ったことこそが神の御心だったのではないかとそのとき思いました。彼は神の御心を知る機会を逃すことがなく、東北に行くことができたからです。
私たち一人一人の人生はそれぞれ違います。たとえ同じような出来事に私たちが遭遇しても、それにかかわる人によって出来事の意味は全く違ってくるのです。だから、私の人生に対する神の御心を他人に教えてもらうことはできません。私たちは自分で考え、主の御心を求めていかなければならないのです。だから私たちの人生に起こる出来事を、パウロは私たちが神の御心を知る大切な「機会」だとここで教えているのです。
4.御霊に満たされる
さらにパウロは私たちがそれぞれの人生で主の御心を悟り、その御心に従って行くために大切なことを続けて語っています。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(18〜20節)。
昔、イエスの弟子たちが聖霊に満たされて、今までしゃべったこともない外国語で神の御業を語り出すと言う出来事が起こりました。ところがその理由を理解できない人々は弟子たちが昼間から酒に酔っているのだと勘違いしたのです(使徒2章13節)。私たちが神の御心に従うためには聖霊の助けが必要です。しかし、私たちはこの聖霊なる神の働きを自分でコントロールすることはできません。聖霊の働きは私たちが自由にできるものではないからです。
だから私たちが聖霊の助けを受けるために、私たちが聖霊の働く場所に出て行く必要があるのです。イエスが天から送ってくださる聖霊は私たちの献げる礼拝の中で豊かに働かれます。だから、私たちはこの聖霊の働きを受けて神の御心を悟るために、神を礼拝することが大切なのです。それは日曜日の公的な礼拝だけではありません。私たちが神を賛美し、神に感謝をささげて生きるなら、それが私たちの礼拝となるからです。そしてイエスは神を礼拝する私たちに聖霊を送ってくだいます。イエスはこの聖霊の働きを通して私たちを照らし、私たちがこの世の中で「光の子」として生きることができるようにしてくださるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちが光の子として生きるために御子イエス・キリストが十字架にかかり、復活したくださったことを心より感謝いたします。神が私たちのために造ってくださったものすべてのものを用いて私たちが祝福された人生を送るためには、私たちがまずあなたの御心を知ることが大切であることを覚えます。私たちにその御心を悟らせるために聖霊を送ってください。私たちがその聖霊の働きを受けるために、あなたを賛美し、感謝を献げる礼拝をささげることができるようにしてください。まず私たちが光の子として生きることを通して、多くの人がまことの光であるキリストの元にあつまり、そのキリストの光によって光の子となることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロは私たちがキリストを信じる以前はどのような者であったか、そして信じるようになった今はどのような者にされたと説明していますか(6〜7節)
2.私たちが光の子として生きるためには、私たちは何を吟味し、何を悟る必要があるとパウロは教えていますか(10節、17節)。
3.私たちが自分の信仰生活でこの世の「暗闇の業」に加わらないで、それらのことをむしろ明るみに出すためにはどうしたらよいのでしょうか(11節)。
4.パウロはここで「時をよく用いなさい」と教えています。この言葉を使ってパウロは、私たちにどのような生き方を望んでいると考えることができますか(16節)。
5.それでは私たちが御霊に満たされて生きるために大切なことは何ですか(18〜20節)。