2020.8.9「不正な裁判官の話」
ルカによる福音書18章1〜8節(新P.143)
1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
1.このたとえ話は何を教えているのか
①このお話の主人公は誰か
今日は主イエスの語られたたとえ話の中から普通は「不正な裁判官の話」と言う題名で取り上げられるお話を学びます。ただ、このお話の語り出しが「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と言う言葉で始まっていますから、このお話は裁判官が主人公であると勘違いして読んでしまいがちですが、よくこのお話を読んでみるとそうではないことが分かります。
このお話の最初の部分でなぜイエスがこのようなたとえ話を語るのか、その目的についてこう語っています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)。つまりこのお話は諦めないで祈り続けることを弟子たちに教えるためにイエスが語られたものなのです。そしてこのお話の中で決してあきらめずに願い続けた人物は「不正な裁判官」ではなく、このお話の中でもう一人の登場人物する「やもめ」の方だと言うことが分かります。つまり、イエスはこのたとえ話を語ることで、読者である私たちにも、この「やもめ」のように諦めないで最後まで祈り続けなさいと教えているのです。ですからこのお話の主人公はむしろ「やもめ」の方であることが分かります。ですからこのたとえ話の題名も「諦めなかったやもめ」と付けた方がよいかもしれないのです。
②神は「不正な裁判官」のような方ではない
しかし、私たちはやはりどこかでこのたとえ話を読み間違えてしまう可能性があります。なぜなら、私たちはこのお話に登場する「不正な裁判官」は神をたとえていると勘違いしてしまうところがあるからです。私たちはこの「不正な裁判官」と同じように私たちが一生懸命に祈っても、神は私たちの祈りになかなか答えてくださらないと考えるのです。そしてまるで私たちの信仰を試すように私たちに向かって首を振りながら、「まだだ、まだだ」と言っているような方だと神を想像してしまうことが起こり得るのです。
こうなると私たちの信仰は我慢比べのようなものになってしまいます。私たちが音を上げて祈ることをやめてしまうか、それとも神の方が私たちの祈りの執拗さに負けて、私たちの祈りに耳を傾けるか、そんな我慢比べこそが私たちの信仰であると考えてしまうのです。しかし、このような読み方が明らかに間違いであることは、このお話の中に語られている次のようなイエスの言葉からも明らか分かるのです。
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(9〜8節)。
ここではっきりとイエスは私たちの神はこの「不正な裁判官」とは全く違う方だと語られています。神は私たちの献げる祈りを聞いても聞こえないようなふりをするような方ではありません。そして真の神はその神に助けを求める人々の祈りに速やかに答えて、その御手を指し伸ばしてくださる方だとイエスは教えているのです。
それではなぜ、私たちはこのたとえ話の主人公のように、最後まであきらめることなく祈り続けることができないのでしょうか。どうして、自分の方から祈ることをやめてしまいがちなのでしょうか。私たちは今日、このたとえ話からその理由を学んでみたいのです。
2.不正な裁判官
①このたとえ話を生み出した資料
聖書学者たちはこのイエスのたとえ話の土台となる言葉が旧約聖書の外典の一つシラ書に記されていると考えています。旧約聖書外典は私たちにとっての信仰を養う聖書のような書物ではありません。しかし、外典は旧約聖書が書かれた時代と新約聖書が成立した時代の間に書かれたことから、その当時のイスラエルの歴史を理解する上で貴重な資料であると言えるのです。外典は旧約聖書のヘブル語原典には収録されていませんが、そのギリシャ語訳である七〇人訳聖書の一部に収められています。おそらく主イエスやその弟子たち、また新約聖書を記した人たちもこの外典の内容を読んで、よく知っていたということが分かっています。だから、新約聖書の内容を理解するためにもこの外典の内容を私たちが理解しておくことは大切だと言えるのです。その旧約聖書外典のシラ書35章17から21節には次のような言葉が記されています。
「主は孤児の願いをないがしろにされず、やもめの打ち明ける嘆きを聞き届けられる。やもめの涙が頬を流れているではないか。彼女の叫びは、涙を流させた者を責めているではないか。み旨のままに仕える者は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。謙遜な人の祈りは雲を貫く、彼はその祈りがみもとに届くまで、慰められることはない。彼は祈りをやめることがない。」(フランシスコ会訳聖書)。
ここには神が「やもめ」のような虐げられた人々の祈りに必ず耳を傾けてくださること、そしてそのことを知っている人は決して祈りをやめることがないと言うことが記されています。イエスのたとえ話はこの外典の言葉を物語として伝えてくれているものだとも言えるのです。
②不正な裁判官の裁きの基準
さて主イエスの語るたとえ話は次のように始まります。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」(2節)。
この世の裁判官は何に基づいて人を裁くのでしょうか。それは言うまでもなく法律です。そしてこの物語の舞台であるユダヤ人社会では、この法律は神の戒め、つまり律法と言うことになります。ですからユダヤの裁判官はこの律法に従って人を裁き、そして最終的には神が望まれる社会を実現させる使命を負って働くのです。ところが、この物語に登場する裁判官はそうではありませんでした。彼は神を畏れてはいません。つまり律法に従って人を裁くというようなことはしないのです。ましてや神が望まれる公正な社会を実現させるというようなことに彼は全く関心を持っていません。この裁判官にとって人を裁く基準は自分自身の考えであり、その裁判の結果が自分にどのように有利に働くのかが大切になって来るのです。つまり、この裁判官に向かって正義の実現を求めることなど意味がないと言うことが最初に明らかにされているのです。おそらく、この裁判官を動かすために最も有効な手段は袖の下、つまりわいろを贈ることだと言えるのです。しかし、今日の物語のもう一方の登場人物である「やもめ」にはそれができないのです。
3.やもめと彼女の訴え
①「やもめ」の立場
「やもめ」とはユダヤでは自分を保護する家族を持っていない孤独な女性を指す言葉です。夫に先立たれ、その夫に代わって生計を支える息子のような存在がいない女性を「やもめ」と呼びました。あるいは両親を失って独りぼっちになってしまった女性なども「やもめ」と呼ぶことができます。いずれにしろ、男性中心の当時の社会ではこのような「やもめ」が一人で生きていくのは非常に困難だったのです。ですから、聖書にはこの「やもめ」を社会全体が支えるようにと教える律法が記されていました(申命10章18節など)。なぜならば、神が「やもめ」のような存在を大切にされているからです。だから、その神のみ旨に従って、人々にも「やもめ」を大切にすることが求められたのです。
しかし、だからと言っても「やもめ」の立場が全く変わる訳ではありません。だから「やもめ」はその弱さのゆえに苦しむことが度々あったと考えることができます。このお話でもやもめは不正な裁判官に対して「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)と訴えています。彼女の生活が何らかの形で他人から脅かされようとされていたのです。もしかしたら、彼女に残されたわずかな財産を横取りしようとする人が彼女の前に現れたのかもしれません。
ところがこの「やもめ」の必死な訴えにも関わらず「不正な裁判官」は少しも動こうとはしません。それは当たり前であるかもしれません。彼女のために働いても彼には何の得にもないからです。もしかしたら、裁判官は彼女の裁判の相手からすでにいくらかのわいろを受け取っていたのかもしれません。だからこの時「やもめ」は危機的な状況に立たされていたのです。
②「不正な裁判官」を動かした「やもめ」
しかし、やがてこの「不正な裁判官」の気持ちが変わることが起こりました。そのことについて聖書はこう記しています。
「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」(4〜5節)
自分に得とならないことのためには絶対に動かない「不正な裁判官」の態度を見て、多くの人はあきらめてしまいます。しかしこの「やもめ」だけは違っていたと言うのです。「やもめ」は毎日毎日裁判官の元にやって来て、いえ、一日に何度も裁判官のところに押しかけて、訴えを繰り返し、叫び続けたのです。だからこの「やもめ」の態度に恐怖を感じた裁判官は「わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と語っています。この言葉は直訳すると「人になぐられて、自分の目にあざができる」と言う意味を持っています。「やもめ」にそんな力があったのかは疑問ですが、ひっきりなしに押しかけてくる「やもめ」の行為は、裁判官にとっては暴力と同じように恐怖を感じるものであったのです。だから裁判官は態度を変えて、この「やもめ」の訴えを取り上げ、おそらくこの「やもめ」に有利な判決をしてこの問題に決着をつけようとしたのです。
4.なぜ、祈ることを途中でやめてしまうのか
①問題は私たちの側にある
イエスはこのたとえ話を次のような言葉で結ぼうとしました。
「それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」」(6〜8節)
この不正な裁判官の言葉からあきらになったことは何でしょうか。それはうるさいほど訴え続けた「やもめ」の行動がこの「不正な裁判官」を動かすことになったことです。それではイエスは私たちに「だからあなたたちも、神が恐怖感を感ずるほどにしつこく祈り続けるべきだ…」と教えているのでしょうか。うっかりすると私たちはこの物語を読むとこのような結論を導き出そうとします。しかし、イエスがここで言っていることは全く違うのです。なぜなら神は、イエス・キリストによって救いに選ばれた私たちを決して放っておかれる方ではないからです。神は必ず私たちの上に完全な救いを実現してくださる方なのです。だから問題は神の側にあるのではありません。イエスはだから最後に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と語られたのです。
②なぜ「やもめ」は願い続けることができたのか
この物語からわかることは、「やもめ」があきらめずに不正な裁判官に訴え続けた理由です。彼女には他の手段がなかったのです。彼女を助けることができるのはこの裁判官だけだったからこそ、彼女はあきらめることなく訴え続けたと言えます。彼女がもし自分を救うためにたくさんの選択肢を持っていたとしたらこんなことは起こらなかったはずです。そのような意味では他に誰も頼るべきものがいないと言う彼女の立場こそが、彼女の信仰を強く育てたと考えることもできます。私たちの人生にも彼女と同じようなことが起こるかも知れません。神に頼るしかどうにもならない…、そんな現実にぶつかるかも知れません。しかし、もしかしたらそれこそが私たちを真の信仰に導こうとされる神の御業なのかもしれません。なぜなら、私たちの信仰はそのような試練の中でこそ確かなものとされるからです。
この物語の中でもう一つ、わたしたちに気づかされることがあります。それは最後にイエスが「人の子が来るとき」と終末の裁きについて語られたことから分かります。神は宇宙万物を裁き、新しい世界を創るために御子イエスを再びこの地上に遣わしてくださいます。神は確かに私たちに聖書の中で「人の子が来られるとき」を約束してくださっているのです。イエスはこのたとえ話の不正な裁判官とは違います。神のみ旨に基づいてすべてのことを正しく裁いてくださる方です。そして、私たちはこのイエスの公正な裁きによって、完全な救いをいただくことができるのです。
しかし、私たちはこのイエスの裁きを忘れて、自分や他人を裁いてしまうことはないでしょうか。特に私たちは日常の信仰生活の中で自分を裁くことを繰り返します。「もうだめだ」。「これはどうにもならない」。実は私たちが祈りを途中で投げ出してしまう最大の原因は、自分自身をすぐに裁いてしまうことにあると言えるのです。
それでは「人の子が来るとき」を待つ信仰とは何でしょうか。それは人の子の正しい裁きに信頼して、決して自分自身を裁くことなく、イエスに従うことです。そしてイエスの正しい裁きに自分のすべてをゆだねることです。なぜなら、イエスは既に私たちの罪のために十字架につかれて裁きを受けてくださった方だからです。私たちの犯す過去の罪、現在の罪、未来の罪がすべてこの十字架によって赦されているのです。だから私たちは自分を裁くことなく、諦めないで神に祈り続けることができるのです。このように私たちは今日のたとえ話から諦めることなく祈り続ける根拠が、イエスの救いの御業にあることを学ぶことができるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
自分の信仰の歩みを省みるとき、自分で自分に絶望してしまうような私たちです。しかし、私たちの主イエスはそのような私たちの罪を担って十字架にかかり、私たちのために命をささげてくださいました。私たちがそのイエスに自分のすべてをゆだねて生きることができるようにしてください。私たちの聖霊を遣わして、私たちがあきらめることなく祈り続けることができるようにしてください。願わくは今、試練の中にある人々が、必ずその祈りに耳を傾けてくださる神を見出し、そこから希望を受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.今日のイエスのたとえ話に登場する「不正な裁判官」はどのような人でしたか(2節)。彼が最初、「やもめ」の訴えに耳を傾けなった理由は何だと思いますか。
2.結局、この「不正な裁判官」が「やもめ」の訴えを受け入れることになった理由はどこにありましたか(4〜5節)。
3.主イエスはこのたとえ話から私たちに何を学ぶべきだと言っていますか(6〜8節)。