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2020.9.13「いちじくの譬え」

ルカによる福音書13章6〜9節(新P.134)

6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


1.神の怒り

 今日はまず、「神の怒り」と言うことについて考えて見ましょう。聖書には度々、神の怒り、神が怒りを抱かれるというような表現が登場します。現在、改革派教会が出版している聖書日課のテキスト「リジョイス」誌ではしばら旧約聖書の預言書の一つエレミヤ書が取り上げられています。このエレミヤ書の中でも「神の怒り」と言う表現がたびたび登場しています。神に選ばれ、神に保護されて来たはずのイスラエルの民がその神を忘れて、偶像を拝むような罪を犯しました。そこで神の怒りが彼らの上に示されます。具体的には神の怒りは、神の厳しい裁きとしてイスラエルの民の上に下されたのです。イスラエルの民は外国軍の侵入によって国は失い、戦いで生き残った人々は捕虜となって、遠いに異国の地に連れて行かれました。勿論、問題を作ったのはイスラエルの民の側で、神に責任を問うことはできません。しかし、そうは言いながらも、ある人々はこのような聖書の記述を読むと、「神が怒るとは何事か…。人の失敗に目くじらを立てて、いちいち怒りを抱くような者が本当に神と言ってよいのか」と考えるのです。

 私たちの世界でもいつも怒っている人はあまり他人からよい評価を受けることはできません。ましてや大人が大声を上げて怒っている姿は人々のひんしゅくさえ買うことになるはずです。「すぐ怒り出すような人間は忍耐が足りない」。「人間としての感情のコントロールができていない」と非難されることもあります。それでは聖書の示している神は、そんな心の狭い、また忍耐のできない方だと言うのでしょうか。そうではありません。

 私たちがよく知っている人間の怒りから「神の怒り」と言うことを理解しようとすると大きな過ちに陥る可能性があります。なぜなら、神の怒りと人間の怒りは全く違ったものだからです。その中でも、神の怒りを考える上で大切になって来るのは、神の怒りは人間のような感情に支配されているものではないと言うことです。人間は相手の理不尽な行動に対して、感情的フラストレーションを抱くときに、怒りを感じます。そしてそのフラストレーションを爆発されることでたまっていたフラストレーションを放出することこそ、私たち人間が抱く「怒り」の正体とも言えるのです。

 しかし、神の怒りとはこのような感情的反応ではありません。なぜなら、神の怒りはいつも人間の犯す罪と悪に向けられているからです。この罪と悪をそのまま野放しにしておけばどうなるでしょうか。この世界もまた人間も共に自滅して行ってしまいます。神はこの世界と私たち人間に対して責任を持って関わってくださる方です。だから当然、人間の罪や悪に対して正しい反応を示されるのです。この神の正しい反応こそが聖書の語る「神の怒り」であると言えるのです。人間は感情的フラストレーションを解決させるために怒ります。その結果、たまっていたフラストレーションがいくらか解消されるかもしれません。しかし、神の怒りの目的は全く違います。この世界と人間を支配する罪と悪を正しく処理することがその目的です。だから神の怒りは厳しい裁きとして実現して行くのです。

 それでは神の怒りが私たち人間の悪や罪に対する正しい反応であるとしたら、私たちはその神の怒りに対して、どのようにすれば正しく対応できると言えるのでしょうか。その答えを聖書は「悔い改め」だと教えています。だから聖書で神の怒りが語られる場所では、必ず、人々に対する「悔い改め」が求められているのです。人間関係においては最後まで「感情」の問題がしこりのように残ってしまい、問題を完全に解決させることを妨げています。しかし、神の怒りは全く違います。神の怒りにはこのような負の感情は伴っていません。だから人間がその怒りに正しく対応することができるならば、神の怒りも解決されるのです。


2.悔い改めを求めるイエス

 実は私たちが今日学ぶ、イエスのたとえ話にはこの人間の「悔い改め」の問題が深く関わっています。イエスは今日の聖書箇所のお話を語りながら、迫り来る神の怒りに対して私たちが正しい対応することを望んでおられるからです。

 「そして、イエスは次のたとえを話された。」(6節)と言う言葉で今日の物語は始まっています。「そして」とここで語られているように、実はイエスがこのお話を語るきっかけとなった出来事がその直前の聖書箇所(13章1〜9節)に記されています。ここではたとえ話ではなくて、当時エルサレムで起こったある事件が題材となった物語が記されています。当時、不幸にも事故や事件に巻き込まれて命を奪われた人がいました。皆さんは身近で起こったそんな事件のニュースを聞いたときどのように思われるでしょうか。そんな時、当時のイスラエルの人々は「あの人たちはよく分からないけれど、きっと何か悪いことをした報いを受けたに違いない」と考えたのです。そして「ああよかった、自分は神さまに守られている…」と言う安心を抱いたと言うのです。

 しかし、イエスはそのように安心している人に、「あなたたちと事故や事件に巻き込まれた人の間には何の違いもない」、だから「自分はだいじょう」と安心するな」と教えました。そしてその上で、「あなたに残されている時間を使って、あなたは「悔い改める」必要があると語ったのです。

 台風の進路から幸運にも外れた地方の人は「よかった。助かった」と安心するかもしれません。しかし、次に起こる台風はこちらに向かって真っすぐに進んで来るかもしれません。そのために今から十分な備えをするならば、災害の程度を軽くすることができるはずです。迫り来る命の危機から免れることができるかもしれません。だから安心するのでなく、「次は自分の番だ」と考えて、正しく対処することが大切となるはずです。

 聖書は私たちに、残されている今の時間を使って、十分な備えをするべきだと教えています。だからイエスは迫りくる神の怒りにそなえて「あなたたちも、悔い改めて生きる必要がある」と教えられたのです。


3.もう一年待ってほしい

 今日の聖書箇所に登場するたとえ話はそのイエスの話の理解をさらに深めるために語られていると言えます。イエスは私たちに「今」のとき大切にする必要があると教えました。それではその「今」とはどのようなときなのでしょうか。イエスはこのたとえ話を使ってこの大切な「今」の意味を私たちに教えます。本当ならば期限切れで、裁かれてしまってもよい私たちに対して、神はわざわざ、その期間を延ばして私たちが「悔い改める」ことを待っておられる、だから私たちに「今」と言うときが与えられているのだと言うのです。

 今日のたとえ話はぶどう園のいちじくの木を巡るお話です。「なぜ、ぶどう園でいちじくの木か…」と考える方もおられるかもしれません。調べて見ると当時のぶどう園は私たちがみるようなぶどう棚を作ってぶどうを栽培する方法ではなく、いちじくのような別の木にぶどうの枝を絡ませるようなやり方でぶどうを栽培したようです。だからぶどう園にはかならず、いちじくの木のような別の木も植えられていたのです。そうすれば、ぶどうだけではなくて、別の収穫も手にすることができるからです。ところがここに登場するいちじくの木にはその収穫が期待できませんでした。せっかく、実がなることを期待してぶどう園の主人がこのいちじくの木を植えたのに、この木にはまったく実が成らないのです。結局、ぶどう園の主人はいちじくの木が実を結ぶために、三年間も待ち続けました。しかしそれでもいちじくの木は何も実をつけることがありませんでした。そこでぶどう園の主人はぶどう園の園丁を呼んで「このいちじくの木を切り倒して処分するように」と命じたのです。このままでは場所をふさいでいるだけの木を早く処分して、何か別の木を植えようと考えたからです。

 ところがここで園丁がぶどう園の主人に「切り倒すのをもう一年待ってほしい」と願いでます。簡単に切り倒してしまうのはもったいない。もう一年待って、それでだめなら、切り倒してしまいましょう」と主人を説得したのです。

 おそらくイエスはこのお話を当時のユダヤ人たちに向けて語ったのだと考えることができます。なぜならば、彼らは神の裁きを前に、せっかく、神が彼らのために救い主であるイエスを遣わして下さったのに、そのメッセージに耳を傾けず、彼を信じようともしなかったからです。彼らは「自分たちには、そんな救い主など必要がない。自分たちはアブラハムの子孫であり、定められた律法をちゃんと守っているのだから大丈夫」と言い張ったのです。そして彼らは悔い改めることをしないで、せっかく神が残してくださっている「今」と言う大切な時間を無意味に使ってしまったと言えるのです。


4.どのように実を結ぶことができるのか

①「悔い改め」の意味

 キリスト教会ではこのたとえ話について独特の解釈が施されて来ました。それはこのたとえ話の中のぶどう園の主人は父なる神を表していると考え、「いちじくの木を切り倒さないでほしい」と願い出た園丁こそが救い主イエスだという読み方です。たとえ話では「早くいちじくの木を切り倒したい」と願うぶどう園の主人と「切り倒すのを待ってほしい」と願い出た園丁の意見は対立しているように見えます。しかし実際の神にはそのような対立は存在しません。なぜなら、私たちを救うためにこの地上に御子イエスを救い主として遣わされた方こそ父なる神であると言えるからです。

 私たちは今日のお話の最初で「神の怒り」と言うことについて少し考えました。この神の怒りの目的は私たち人間を厳しく裁いて、私たちを滅ぼすためにあるのではありません。むしろこの世界と私たち人間を支配し、破壊しようとする罪と悪を滅ぼして、私たちを救うために神の怒りは下されるのです。だからこそ神は私たち人間を怒るだけではなく、同時にその人間を救うためにご自身の御子イエスを遣わしてくださったのです。その点において「神の怒り」と救い主イエスの存在は矛盾するものではないと言えるのです。なぜなら主イエスは神の怒りがこの地上に正しく実現するために来られた方でもあると言えるのです。

 先ほど、神の怒りに正しく私たちが対処する方法は「悔い改め」であると言うことを語りました。そしてこの「悔い改め」とは私たちの人生を180度方向転換させることを意味していると言えるのです。どんなに頑張って歩いても、歩く方向が間違っていたら目的地に着くことはできません。そうなると今まで懸命に歩いて来たこともすべて無駄になってしまいます。「悔い改め」は私たちの人生を正しい目的地に向かわせるものです。そうすれば、私たちがその人生で払った労苦の一切はすべて報われることにもなるのです。そして悔い改めは私たちが私たちの人生の正しい目的地である神に向きを変えて歩み始めることだとも言えるのです。


②いちじくの木が実を結ぶために働いた園丁

 今日のたとえ話で興味深いのは実を結ばないいちじくの木はせっかく一年待ってもらえることになったのだから、「がんばって実を結びなさい」と言われているのではないと言うことです。不思議なことに、いちじくの木が実を結ぶことができるために何かを求められているということは何も書かれていません。むしろここで何かをすることが求められているのはぶどう園の園丁です。園丁はこう語っているからです。

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」(8節)

 園丁は自分にできることをすべてして見せますから、だから切り倒すのを待ってくださいと主人に願い出ているのです。つまり、次の年にいちじくの木がもし実をつけたとしたら、それは何よりもこの園丁の努力の結果であったと言うことできるのです。

 ここに私たちの救い主イエスの御業が記されていると考えることができます。確かに、迫りくる神の裁きを前にして、私たち人間には「悔い改め」が求められています。しかし、私たちは本当に自分の力で「悔い改める」ことができるのでしょうか。立派な実をつけることで神の裁きを免れることができるのでしょうか。それはできません。だからイエスは私たちのために救い主としてこの地上に来てくださり、ご自身の命を献げることによってその救いの御業を成就されたのです。

 イエスは別の聖書の箇所で、ご自身をぶどうの木の幹だとたとえられ、私たちをその枝だと説明しています(ヨハネによる福音書15章)。ぶどうの木の枝である私たちがもし立派に実をつけることができるとしたら、それはこのぶどうの木の幹となってくださったイエスの力によるものだと教えているのです。だからイエスは自分にいつも繋がっているようにと私たちに教えています。つまりイエスを信じて生きる信仰生活こそ、私たちがぶどうの木の幹であるイエスに繋がって生きることだと言えるのです。

 このようにイエスは今日のお話を通して、私たちに「今」と言う大切な機会を決して無駄にすることなく、「悔い改め」の実を結ぶようにと勧めています。なぜなら、私たちには神の忍耐によって「今」の時が与えられているからです。そして、私たちが「悔い改め」、その人生で正しい実を実らせるためには、救い主イエスを信じる必要があるのです。なぜなら、イエスは私たちが裁かれて滅ぼされてしまわないようにと、すべての力を尽くして、その命までささげてくださったからです。だからこのイエスを信じて生きる者は、かならずその人生を通して豊かな実を実らせることができると言えるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 神の怒りと神の厳しい裁きをご自身の身に受けて、私たちを罪と悪から救い出してくださった救い主イエスの御業に心から感謝いたします。どうか私たちが、私たちに与えられた「今」と言うときを大切に使い、主イエスを信じる信仰生活を深めることができるように助けてください。主イエスのみ言葉に従い、そのみ言葉に留まることでまことのぶどうの木であるイエスにつなげられ、私たちが信仰の実を結ぶことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは今日のこのたとえ話を語る前に、どんな話をされていますか(13章1〜5節)。このお話からイエスは何を人々に教えようとしたのでしょうか。

2.ぶどう園にいちじくの木を植えた人は、実を結ばないいちじくの木を見てどのように思いましたか(7節)。またぶどう園の園丁にどのような命令をしましたか。

3.この主人の命令に対して園丁はどのように答えましたか(8〜9節)。園丁はどうして主人にこのように答えたのでしょうか。

4.このたとえ話に登場する園丁が救い主イエスを表しているとしたら、私たちはこのお話から何を学ぶことができますか。

5.イエスは私たちに与えられている「今」と言う時にはどのような意味があると教えていますか。また、私たちがこの「今」と言う時をどのように用いる必要があると教えていますか。

2020.9.13「いちじくの譬え」