2020.9.20「約束を伴う最初の掟」
エフェソの信徒への手紙6章1〜4節(新P.359)
1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
1.親に従うのは難しい
①教会を構成するさまざまな人間関係
今日も使徒パウロが記したとされるエフェソの信徒への手紙から皆さんと一緒に学びたいと思います。パウロはこの手紙の5章21節に記した「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言う言葉を皮切りして「妻と夫」(5章21〜33節)、今日取り上げている「子と親」(6章1〜4節)、そして「奴隷と主人」(5〜9節)と言うそれぞれの人間関係を取り上げて語っています。ですから、ここに書かれている文章は「家族や職場の人間関係はどうあるべきか…」と言う一般的な教えと言うようなものではなく、キリスト教会を構成しているそれぞれの人間関係をどのようにしていけば、私たちは神のみ旨を実現することができるのかと言うことを教えていると考えることができます。そのような意味でここに書かれている教えは私たちが知っている最新の教育学や心理学の成果とは違うものかもしれません。しかし、キリストに救われた私たちはどう生きればよいのかと言うことを考えるためには、私たちはこのパウロの教えを無視することはできないと言えます。また、本当に私たちの人間関係が祝福されたものとなるためには、そのすべてを創造された神の観点に立ち戻って、私たちの人間関係を捉え直すと言うことも大切になってくるとも考えることできるのです。私たちがパウロの言葉に耳を傾けることはその意味でも重要になって来ると言えるのです。
②実際に親に従うことは難しい
先日の「夫と妻」の関係でもそうでしたが、今日の「子と親」の関係を聖書から皆さんにお話するとき、私はいつもどこかで後ろめたい気持ちを感じてしまうところがあります。なぜなら、聖書の教えを皆さんに語る私自身が、この聖書の教えに反した生き方をしていると思えて来るからです。もちろん、聖書の教えは神の教えであって、それを取り継ぐ説教者の考え方とは違っていると言うことは当たり前だと言えます。だから説教者は皆さんに先駆けて聖書の語る教えに耳を傾け、悔い改める必要を感じるのです。
以前は「父と母を敬いなさい」と言う十戒の第五戒の教えを語るときに、私は思い出しかのように両親に電話をすることがありました。私は両親に電話で「元気か…」と尋ねることで、少し安心して聖書のこの教えに向き合うことができたからです。そんなとき、両親はおそらく普段の私が語る言葉とは違った言葉を聞いて戸惑っていたかも知れません。しかし今はその両親もこの世を去って、もう私には電話をかけることもできなくなってしまいました。
高校生の時から共産主義に影響されて、大学生時代は新左翼の活動家として毎日を送っていた私を父はいつも心配していました。あるとき、父は私に説教している途中で急に倒れて意識を失ってしまいました。そのときは親戚一族が私の家に集まって来て、私に向かって口々に「親の言うことを聞け」と言い出したことを思い出します。しかし、それでも私は父の言うことに耳を傾けることがありませんでした。
そんな私が、突然教会に行きだしてキリスト教徒になったとき、父は自分自身は仏教徒なのに私の変化を喜んでくれました。そんなわけで、私は父からキリスト教信仰を持つことについて反対されたことはありません。それどころか、親戚の葬儀の際に私が線香をあげなかったときも、父は「息子はクリスチャンだから」と言って私の代わりに親戚に謝ってくれたことを思い出します。
そんな父も私がそれまで働いていた会社を辞めて牧師になるために神学校に行くと言い出したときには、強く反対しました。父はどんなに説得されても決心を変えない私に対して一時は「親子の縁を切る」とまで言い出しました。しかし最後には父の方が折れて「やっぱり親子の縁は切りたくない」と言ってくれました。そして神戸にあった神学校に旅立つ私のためにわざわざ新しい靴を買って、私を神学校に送りだしてくれたことを思い出します。考えて見ると、私は本当に父親に反抗ばかりしていて、父の言葉に耳を傾けることができなかったようです。
2.なぜ親に従うべきなのか
①親に従うことは「正しい」ことです
今日の聖書の箇所でパウロは次のように語っています。
「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」(1節)。
パウロは子どもたちが両親に従うことが大切であることをここで教えます。このパウロの文章は「子供たち」と言う呼びかけの言葉が使われていますが、この言葉は本当に幼い子供たちに向けてだけ使う用語であると言われています。つまり、この教えは大人になった子どもたちにではなく、本当に幼い子供たちに向かって語られているのです。この言葉から当時のエフェソの教会の集まりには親と一緒に、子どもたちも出席していて、彼らも大人たちと同じように福音の教えに耳をむけていたと言うことが分かるのです。当時の教会はそこに集まって来る子どもたちを成人した大人と同じように取り扱っていたのです。これは当時の社会の中では極めて異例なことだったと考えることができます。なぜならば現在のように児童の人権が認められている社会とは違って、当時の社会では子供は親の持ち物のように考えられていたからです。そのような時代でも教会は子どもたちの人権を認め、彼らを大切にしていたのです。なぜなら、子どもは親の持ち物では決してないからです。子どもは神がその両親に預けてくださったものだと考えるのが聖書の教えなのです。なぜなら、すべての命の本当の持ち主は神御自身一人しかおられないからです。ですから、このパウロの「両親に従いなさい」と言う言葉も、この世が子どもたちに求めるような隷属的な命令ではなく、子どもたちが一人の人格として生きていくために「正しいこと」を教えていると言っているのです。
その際この「正しさ」はとは何かということが問題となると思います。なぜなら親にとって正しいことが、必ずしも子供にとっても正しいとは限らないからです。またそれとは逆のことも言えるはずです。子どもにとって「正しい」ことが、親にとっても「正しい」とは言えないのです。だからパウロがここで語る「正しさ」とは立場が変わっても決して変わることのないものだと言えます。誰からも見ても正しいもの、それは神が望まれていることを語っていると言えます。だからパウロはここで「神が子どもたちに両親に従うことを求めている」と教えているのです。なぜなら、神は両親を通して子どもたちに様々なことを教えようとされているからです。最初からすべてを悟って生まれて来る子どもはいません。ですからその子どもが生きていくために必要なことを教えるのが両親の重要な役目であると言えるのです。
②約束を伴った戒め
ところで、この教えの根拠としてパウロはここで十戒の第五戒である「父と母を敬いなさい」と言う言葉を旧約聖書から引用しています。そしてこの言葉は今朝の説教の題名にもしたのですが、この第五戒にはこの戒めを守る者に対しての神様の約束を付け加えられて教えています。出エジプト記の20章12節にはこの戒めが次のように語られています。
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
ここではエジプトを脱出して約束の地であるカナンに向かう民に対してこの約束が語られています。ですからそこでの生活の中で子供たちが「父と母を敬う」ならその者たちは「主が与えてくれる土地で長く生きることができる」と語られているのです。パウロはエフェソの信徒たちに対して「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」と言い換えてこの約束を教えています。なぜなら、キリストを信じて生きる信仰生活こそ、私たち取っては約束の地での生活と言えるからです。ここで大切なのはこの約束は神がこの戒めを守る子どもたちに対してして約束している点です。子どもたちの両親が「わたしたちに従えば、幸せになって、長生きできる」と約束しているのではないと言うことです。つまり、この戒めに従う子どもたちに報いを与えるのは神御自身であって、彼らの両親では決してないという点です。
私たちは両親に従うことで何の益があるのかと考えてしまうことがあります。どう考えても、この両親に従っても駄目だ、自分に利益をもたらさないと思ってしまっているからです。しかし、私たちを幸せにするのは両親ではなく神ご自身なのです。その神が私たちを幸せにするために、両親に従うようにと言っているところにこの戒めに伴う約束の重要な点があるのです。
3.子に対してふさわしい親とは
もちろん、神さまが子どもたちを「幸せにする」のだから、親たちには責任がないということでは決してありません。だから続けてパウロは子供たちが従うべき親たちに対してその責任を語り始めています。
「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(4節)
ここでは両親ではなく「父親」と言う言葉がまず語られています。少し前の日本では父親は会社で働いて給料を得て、子どもの教育は家にいる母親の役目だと考えられていました。しかし、聖書は子どもたちを教育するのは「母親」だけではなく、むしろ「父親」の役目だと教えているのです。その上で、パウロは父親に対して「子供を怒らせてはなりません」と教えています。この「怒らせる」とは「感情的にさせる」と言う意味の言葉です。なぜなら感情的になった状態の子供を「諭す」ことは決してできないからです。つまり、この言葉は親が子供に恐怖を与えてコントロールするのではなく、ちゃんと本人に理解させて、自分で判断し行動できるようにすることが親の務めだと教えているのです。
この点に関しては現代の教育も同じようなことを語っているかもしれませんが、この手紙が書かれた当時の社会では極めて異例なことであったと考えることができます。当時のローマの法律によれば親は子どもを自分の都合で自由に扱うことが許されていたからです。親は自分の子供を奴隷として売ってしまうこともできますし、殺してしまっても重い罪に問われることがありませんでした。だからこの聖書の教えは当時の社会の中で極めて珍しい教えを語ったと言うことできます。それはどうしてでしょうか。聖書が親に対してこれだけ子どもを尊重することを求めているのは、神ご自身が子どもたちを大切にしようとされているからです。だから神は子どもたちを大切に育てるために、その子供たちを両親に預けられたのです。だから両親には神から与えられたこの使命を忠実に果たすことが求められているのです。
4.互いに神に仕える
①どの子供も親の訓練を受けられるように
このように考えると、パウロはここで子と親に対して互いに神が「親子」の関係を通して自分たちに何を望んでおられるのかと言うことを考えるようにと促しているのが分かります。この教えを無視して私たちが自分の気持ちや自分の都合だけを考えて親子関係を維持しようとするなら、必ずその親子関係は破局を迎えてしまうはずです。聖書はそうなれば、この親子関係を通して私に神が約束してくださったものを私たちは受け取ることができなくなってしまうと教えているのです。もちろん、不幸にして生まれたときから実の両親がいないと言う事情を持った子供たちもこの世には存在しています。しかし、そのような子供たちは神の約束された祝福にあずかれないのではありません。なぜなら神は必ずそのような立場に立つ子供たちに両親に代わる存在を与えてくださるからです。また、この教えの大切さを知る者たちは進んで、そのような子供たちが安心して育っていける社会を作っていくことを神から求められていると考えることができるのです。
②親が子供に残していけるものは何か
どの聖書の解説者もこの部分のパウロの教えを取り上げながら、「子どもたちが親から一番学ぶべきことは神に対する信仰であり、親が子どもに対して一番に伝えるべきことも、同じように神への信仰だ」と語っています。この点から言って、子どもは親に単に盲従するのではなく、よく考えて従う必要があります。もし親の命令が神に従うことと反するものならば、子供たちはその命令に従ってはならないからです。そして親は子どもが神に従うことを第一と考えるために教育を施して行かなければならないのです。
私がよく知っている牧師があるとき韓国旅行から帰って来て、私にこんな土産話を話してくださったことがありました。その牧師が韓国人クリスチャンのある家庭を訪問したときに、そこ家の主人が「モクサニム。ここを見てください」とその家の庭に牧師を連れ出して、その庭にあった大きな石を指したというのです。そしてこう言ったのだそうです。「ここです。私の母は、生きているとき、いつもここで神さまに熱心に祈っていました。だからこの場所は私にとっての宝物です」と。他の人には何気ない石ころが庭に転がっているだけの風景でしかありません。しかし、その一家にとってこの庭の石は母親の信仰を伝える証しの場所となっていたと言うのです。
世の親は自分の子どもたちが、「自分がいなくなっても困らないように…」と何かを残したいと考えることがよくあります。そんなとき多くの人は財産を残せばよいと考えるかも知れません。しかし、聖書は親の大切なつとめとして子供たちに信仰を残せと教えています。また、子どもたちに親を通して信仰を学べと教えられているのです。なぜなら、そうすることによって神の約束が私たち親と子の関係の中で実現して行くからです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちが生きるために私たちに親子の関係を与えて下さったことを心から感謝します。どうか私たちがこの親子の関係を通して、神の御心を求めることができるようにしてください。私たちが家庭の一員として互いに助け合うことができるようにしてください。そのためにも、私たちがいつもあなたを大切にする信仰を持って生きることができるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはここで「子供たち」と言う言葉を使って教会に集う幼い子供たちに呼びかけて語っています。このパウロの言葉から当時の教会のどのような状況が想像できますか(1節)。
2.パウロはここで教会に集う子どもたちに向かってどのようなことを求めていますか。ここでパウロが語る「正しい」と言う言葉にはどのような意味があると思いますか(1節)。
3.「父と母を敬いなさい」と言う第五戒の戒めには、神のどのような約束が付け加えられていますか(2〜3節)。 4.それではパウロは子を持つ父親にはどのようなことを求めていますか(4節)。
5.子どもの人権が無視された当時の社会の考え方と違って、どうして聖書は父親に自分の子どもを大切に取り扱うようにと命じているのでしょうか。