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2020.9.27「キリストに従うように」

エフェソの信徒への手紙6章5〜9節(新P.359)

5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。

6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、

7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。


1.奴隷制度とキリスト教

①ローマ社会と奴隷

 今日も皆さんとともに使徒パウロの記したエフェソの信徒への手紙から続けて学びたいと思います。今日の箇所には今まで学んできた、「妻と夫」(5章21〜33節)、「子と親」(6章1〜4節)の関係とはちょっと違った特殊な関係が取り上げられています。それは「奴隷と主人」の関係です。もっとも、私たちが「特殊」と考えるのは公には奴隷制度が否定されている現代社会に生きているからかも知れません。現代と違ってこの手紙の書かれた時代、ローマ帝国が地中海一帯を支配した時代には奴隷の存在はごく当たり前のことであったと考えることができます。ただ、私たちは奴隷と言うとどちらかと言うと近代まで存在していたアメリカの奴隷制度を連想しがちです。アフリカから強制的に連れてこられた人々がアメリカの農場で過酷な労働を強いられました。今でもアメリカではこの歴史的な事情が原因となって、アフリカ人差別の問題が続いています。先にアメリカにやってきたヨーロッパ人たちはアフリカ人を文化の遅れた野蛮な民族と考え、自分たちの奴隷として使うのは当たり前だと考えました。そしてその差別意識は奴隷制度が廃止された現代でも色濃くアメリカ社会に残されているのです。

 この点でローマの社会に存在した奴隷たちは近代のアフリカ人奴隷とは少し事情が違っています。まず彼らが奴隷となる一番の理由は戦争です。もちろん貧困のために奴隷となった人々もいましたが、その大半の原因は戦争であったと言えるのです。この戦争によって勝利した国が負けた国の人々を自分たちの奴隷にしたことによってローマにはたくさんの奴隷が存在することになりました。この点で当時は、むしろ文化の進んだ国がそうでない国の軍隊に敗れるということが多く起こりました。ですから奴隷と言っても中には主人となった人たちよりも教養を身に着けた人たちもいたようです。そのためにローマの時代には奴隷が、自分の使える主人の家の子どもたちの家庭教師をすることもよくあったようです。またストア派の有名な哲学者エピクテトスのように奴隷でありながらも素晴らしい功績を残した人物も存在したのです。この点では聖書を読む私たちは注意が必要になるかもしれません。しかし、そうは言っても「奴隷」は主人の所有物であるということには違いがありません。彼らは人間としての権利を奪われて、物や家畜と同じように当時の社会でも取り扱われていて過酷な立場に置かれていたのです。


②パウロは奴隷制をどう考えていたのか…

 それでは人間を「もの」のように取り扱う当時の奴隷制度に対してパウロのようにキリスト教信仰に立つ人々はどのように考えていたのでしょうか。この点を理解するためにも聖書の記述を私たちが正しく理解することは大切であると言えます。彼らは奴隷制度を当時の社会制度の一つとしてそのまま受け入れています。だから今日の部分でもパウロは奴隷である人々に「主人に従うように」と勧めているのです。

 有名なお話では近代のアメリカ南部の農場の主人たちは自分たちが奴隷を使うことをこの聖書の記述によって正当したと言われています。彼らはアフリカ人奴隷に対して聖書の教えを根拠に主人に対して服従するようにと教えたのです。しかし、聖書は当時のローマの社会制度としての奴隷制度を受け入れているのは確かですが、その制度を積極的に評価しているとは言えません。

 今日の部分のお話を読んでもパウロは奴隷たちが神の前ではその主人と全く同じ一人の人間であることを語り、奴隷の人権を認めようとしていることが分かるのです(9節)。特に、先の「妻と夫」の関係や「子と親」の関係についてパウロが語るとき、彼は妻や夫が、また子や親が互いに使え合うべき聖書的根拠を教えています。たとえばそれはキリストと教会の関係であったり、また聖書の十戒の第五戒を根拠にして語られています。そう説明することでこれらの関係が神の創造に基づくものであることを強調して教えているのです。しかし、この奴隷と主人の関係ではその聖書的根拠が一切述べられていません。確かに彼らがどう仕えたらよいかという点では、キリストや神の御心という言葉が何度も登場します。しかし、パウロは奴隷と主人の関係ではこの説明をしないのです。ここから考えるとわかることは、パウロは確かに奴隷制度を人間の作り出さした制度としては受け入れているですが、神が造られた制度とは認めていないと言うことです。この点で、現代の私たちは奴隷制度を神の創造の秩序に反する制度として反対するのです。


2.真心を込めて従う

①奴隷であっても心は自由

 パウロはまず奴隷である信者たちに対して次のように語っています。

「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」(5節)。

 パウロの勧めの特徴は奴隷である人々に対して彼らに自分の意志で主人に従うようにと勧めているところにあります。しかも、その服従の仕方も、「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて」従うようにと語っています。私たちがキリストに従うのも「仕方がないから、そうする」と言うことではありません。私たちは脅迫されて、無理強いされて仕方がなく神に従うのではないのです。イエス・キリストが私を愛し、私のために命をささげてくださったのですから私たちは自分の意志で、主に仕える決心をして、従うのです。マインドコントロールのように全く自分の意志をすべて捨てて、従ったとしてもそれは信仰に基づく正しい神への応答と言うことはできません。それは恐怖に縛られた者が行う心まで奴隷にされた者の服従の仕方です。

 パウロは奴隷が主人に対して服従するときも、彼らの持っている自由な意志を大切にしようとしていることが分かります。なぜなら、たとえ彼らの身は奴隷として取り扱われていたとしても、彼らの意志の自由は神によって守られているからです。だからその意志を使って、自らの意志で主人に従うようにとパウロは奴隷となった信者たちに語っているのです。


②うわべだけの服従ではなく

 そしてこれとは対照的な誤った服従の仕方が次に記されています。

「人にへつらおうとして、うわべだけで仕える」(2節)

 奴隷が主人の命令に従わないなら厳しい罰を受けなければなりません。だから、その罰を避けるために仕方なく従う態度がここでパウロが言っている「人にへつらおうとして、うわべだけで仕える」というものです。罰を受けないために主人の目を適当にかなうことを要領よく行えばよいと言う働き方をパウロはここで否定しているのです。

 私は短い期間ですが神学生の時代に道路工事のアルバイトをしたことがあります。「土方」として西成地区に住んでいた「おっちゃんたち」と一緒に仕事をするという貴重な経験をしたのです。そのときおっちゃんたちから学んだことは、土方として働くためには「どうしたら要領よくさぼることができるかということをまず身に着けること」それが大切だと言うことです。なぜなら、そうしなければ自分の体力が続かず、すぐつぶれてしまうからです。もちろん、パウロはここで奴隷たちに「体が壊れてもよいから、熱心に働け」と言っている訳ではありません。そうではなく、パウロは彼らが従事している働きがどんなに大切なものであるかをここで教えようとしているのです。なぜならたとえ彼らの身分が奴隷であったとしても、彼らは主人に仕えることを通して、神に仕えることができるからです。確かに彼らの日々の労働は過酷であるかも知れません、あるいは人から見れば卑しい仕事かも知れません。しかし、パウロはそれがどんな仕事であっても彼らはその仕事を通して神に仕えることができると教えているのです。


3.人は何のために働くのか

①労働の意義

 現代ではたとえ奴隷制度は廃止されても、人から労働の意味を奪う仕組みは存在しています。高度に機械化された現代の産業社会の中では、人間はあたかもその機械の一部として見なされ、働くことを求められているからです。そのような社会ではその労働の価値、またその労働を行う人間の価値は賃金、つまり支払われる給料で判断されています。そして給料の安い仕事やそれに従事する人間は卑しく、またその反対に給料の高い仕事に従事する人間は社会のエリートともてはやされるのです。このような社会の中で私たちは自分がもらっている給料に見合った仕事をすればよいのだと考えてしまうのです。そしてもらっている給料以上に働くことは損だとも考えるのです。これがパウロの言う「人にへつらおうとして、うわべだけで仕える」働きの仕方です。

 しかし、聖書の人間の労働についてそうは教えていません。労働は神が人間のために与えてくださった賜物です。人間は働くことを通して自分が生きている素晴らしさを実感し、喜びを覚えることができるようにされるのです。そして労働が人間にとって過酷なものになったのは、人間が罪を犯した結果だとも説明するのです。ですからキリストに救われて、神のために生きる者とれた私たちは労働の本来の意味が回復され、神のために働くことによって、自分の価値を発見し、喜びを見出すことができるようにされるのです。


②神の栄光をあらわし、神を喜ぶために

 中世のカトリック教会ではこの世の働きに従事する者は卑しく、修道院に入って祈りと黙想に励む人々は高貴な人々だと考えられていました。しかし、宗教改革者たちはこの誤りを正し、私たちは自分に与えられた様々な仕事を通して神に仕えることができるという聖書の正しい教えを回復されました。だから彼らは私たち人間の人生の目標である「神の栄光を表し、神の永遠に喜ぶ」ことを、私たちは自分に与えられた仕事を通して実現することができると考えたのです。

「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」(6〜7節)。

 たとえこの世では奴隷として地上の主人に従っているように見えても、実はその働きを通して彼らは神に仕えることができているのです。だから、奴隷は主人の顔色を伺うことだけを考えるのではなく、むしろ神が今の自分に何を求めているのかという御心を求めて生きることが大切であるとパウロは教えているのです。

 そしてもし、奴隷が主人に仕えることを通して主なる神に仕えることができるとしたら、どうなるでしょうか。パウロはその結果を次のようにも説明しています。

「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」(8節)

 奴隷が神に仕えることができていたとしたら、彼らが神の御心に従って「善いことを行う」なら、彼らは神ご自身から「報いを受ける」ことができると言うのです。この点に関しては、前回学んだ「子と親」の関係で語られたことと同じことが教えられています。子が親に正しくしたがえば、その報いは神から与えられるのです。そしてここでもたとえ地上の主人が正しい報いを奴隷たちに与えなかったとしても、それでがっかりして従うことやめてしまうのではなく、主から報いを期待して、自分に与えられた勤めを忠実に全うすることが大切であることが語られているのです。


4.同じように奴隷を扱え=ともにキリストに使える者として

 パウロはそのように奴隷である信者に対して語る一方で、その奴隷を使っている主人の立場を持つ人たちにも次のような助言を語っています。

「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。」(9節)

 ここで興味深いのはパウロは奴隷を持つ主人に対して「同じように」という言葉を使って語っていることです。主人と奴隷は立場的に見ても、またその実際の働き方についても全く違った者たちであると言えます。しかしパウロはそれでもここで「同じように」と言う言葉を語るのです。それでは彼らはどんなところで「同じだ」と言えるのでしょうか。そのことについてパウロは続けてこう語っています。

「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」

 奴隷も、そしてその奴隷を使う主人も同じように天におられる神が本当の「主人」なのです。そしてその神にとっては奴隷も主人も全く同じ人間として見なされているのです。だから、パウロはここで主人たちに奴隷が主人たちを通して神に仕えるように、彼らにも奴隷との関係を通して神に仕えることを求めているのです。そのためにはたとえ奴隷を持つ主人であっても神の御心を求めて善を行っていくことが大切となります。そうすれば主人である彼らも天の神から正しい報いを受けることができるからです。

 前にも触れましたが、これまで学んで来た「妻と夫」、「子と親」そして今日の「奴隷と主人」の関係はそれぞれの人間関係を営む一般的な知恵や知識を教えているのはありません。ここにはキリストの体である教会の一員とされた者たちが、どのようにしたら神から与えられた使命を自分たちがその人生で全うすることができるかが教えられているのです。つまり、ここに登場しているそれぞれの人間関係に属する者たちが聖書の教えに従って仕え合っていくならば、教会も神から与えられた大切な使命を果たすことができます。しかし、もし私たちが互いにその関係の中で争い合い、分裂しているならば、教会もその使命を全うすることができないのです。

 仏教やその他の宗教では「出家」と言って、自分が属していた人間関係を捨てて、もっぱらその教えに従って生きる方法が教えられています。しかし、パウロはここで私たちが与えられた人間関係とそこで自分に与えられている立場を通して、神に仕える道を教えているのです。私たちは神に仕えるために特別なことをする必要はありません。それぞれに与えられたこの世の生活を通して、私たちも神に仕えることができることをパウロは教えているからです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちがこの地上で生きるために、私たちに様々な賜物を与えてくださったことに心から感謝します。特に私たちが特別な人間でなくても、私たちに与えられた日常の生活を通してあなたに仕えることができる道を開いてくださったことを心から感謝します。どうか私たちが神様の御心を知り、私たちに与えられた様々な人間関係を正しく営むことができるようにしてください。私たちにともに仕え合い、励まし合うことで、キリストの体である教会の使命を果たすことができるように助けてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはここで奴隷たちがどのように主人に従うことが大切だと教えていますか(5〜7節)。

2.神はどのような人に報いを与えてくださいますか(8節)。

3.9節で主人たちは「同じように奴隷を扱いなさい」と教えられています。ここでパウロは彼らに何と「同じように」しなさいと教えているのですか。

4.神は人間をどのようにご覧になられますか(9節)

2020.9.27「キリストに従うように」