1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2020
  4. 9月6日「わたしたちはキリストの体の一部」

2020.9.6「わたしたちはキリストの体の一部」

エフェソの信徒への手紙5章21〜33節(新P.358)

21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。

24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、

27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」

32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。


1.神聖な結婚関係

①この箇所を結婚式で読むのは止めて欲しい

 今日、皆さんと学ぶエフェソの信徒への手紙の箇所は、通常キリスト教結婚式で読まれる聖書箇所として有名です。改革派教会の式文の中にも、結婚する男女に向かって聖書の教えを語る際に、他の聖書の箇所と共にこのエフェソの信徒への手紙の言葉を読むようになっています。

 もう20年以上前に私が牧師になって初めて結婚式を司式することになったときのことでした。このような場合には教会では結婚式を挙げる新郎新婦候補と何度か面接して、結婚式について相談する時間を持ちます。その際、牧師は結婚についての聖書の教えを予め新郎新婦候補者にお話することになっていす。そのときのこと、これから新郎になろうとする男性が「こんな男女差別を肯定するような聖書箇所を読まれたら、結婚式に出席する友人たちをつまずかせてしまうから、やめてほしい!」と言われたことがあります。さすがにそれ以後、このような言葉を結婚式の準備会で私は直接言われたことはありませんが、このときは本当に悩みました。そう言われても牧師が勝手に聖書の言葉を変えることはできないからです。ですからこのときもそうでしたが、私は結婚式でお話する奨めの中で、聖書は決して男女差別を肯定しているのではないと言うことを必ずお話することにしています。そのような意味で、今日の箇所は牧師である私にも色々と影響を与えた箇所であると言えるのです。


②新しい原理に立つ結婚関係の教え

 今回この箇所を説教の準備のために読み返してみて、私が思ったことは、本当にパウロは男女の結婚関係のことをここで語ろうとしているのだろうかと言う疑問です。パウロはもっと違うことをここで取り上げているのではないかと思えてならなかったのです。たとえばパウロは32節のところでこんなことを語っています。

「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」

 パウロはこの前の31節で旧約聖書の創世記2章24節に記された言葉を引用しています。ここには神が人間を創造されたときから結婚と言う制度は、神が人間のために定められた神聖なものであることが教えられています。だから、この結婚制度は人間の都合で簡単に変えられてしまうようなものではなくて、むしろすべての人間がこの制度を重んじなければならないことを教えているのです。しかし、パウロはここで「自分は結婚のことを言っているのではない、キリストと教会のことを述べているのだ」とわざわざ言っているのです。つまりパウロにとってこの創世記の言葉は新郎であるキリストとその新婦であるキリスト教会との密接な関係を表すものだと言っているのです。つまり、パウロがここで言いたいのは男女の結婚関係の教えについてではなく、キリストと教会の関係だと言うのです。そう考えて見ると、この箇所では確かに妻になる者に対して、あるいは夫になる者に対して勧めの言葉が語られているように読めるのですが、そのどの箇所でもむしろキリストの御業が最大限に強調されていることが分かります。つまりパウロは新郎新婦のことではなくて、キリストがどんなに素晴らしい方であるかをこの手紙の読者たちに語ろうとしているとも考えることもできるのです。

 前回まで学んだようにパウロはエフェソの信徒たちに「神を信じないこの世の人々と同じような生活をしてはいけない」と教えています。なぜなら、神を信じない人々の生き方の背後には神を信じずに、それ以外のものを神としようとする彼らの偶像崇拝の生活原理が隠されているからです。だから、信仰者はまず神の御心を知り、その御心に従って生きることが大切であることをパウロは教えたのです。

 今日の箇所で語られている夫と妻の結婚関係の教えはパウロの生きていた時代にキリスト者でない人々も同じように語っていたような言葉が記録されていると言う人がいます。「いつでも妻は夫に従うべきであり、夫は妻を愛すべきだ」と言う教えは当時の一般の人々にも通じるごく当たり前の教えであったと考えられるのです。しかし、パウロはこの教えに全く別の原理を当てはめて解説しようとしています。つまりキリストは私たちを救うために何をしてくださったのか…?それを考えるときに、私たちが結婚関係についての正しい教えが分かって来ると教えているのです。


2.妻は夫に仕えなさい

①日本語聖書で補われた言葉

 今日の箇所で、まずパウロは妻に対して「自分の夫に仕えなさい」と教えます。別の聖書の翻訳では「夫に従いなさい」と述べられています(22、24節)。ここの箇所を日本語で読むと、妻に対して「夫に仕える」ことが厳しく命じられていると理解することができますが。実は原文の聖書には妻に対する命令の言葉は一切記されていません。たとえば、22節では「仕える」と言う重要な言葉が日本語聖書には登場しますが、実は原文のギリシャ語聖書にはこの「仕える」と言う言葉さえ記されていないのです。この22節で記されている「仕える」と言う言葉は日本語の翻訳聖書を作った人々が補ったもので、その理由はこの前の21節の言葉と関係して来ると考えられています。なぜならパウロは21節でこう語っているからです。

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」

 おそらくこの聖句はこの後の22節から始まる妻と夫についての教え、さらに6章に記される「子と親」について、さらに「奴隷と主人」との関係のすべてにおいての中心的なテーマとなる言葉であると言えます。つまり、聖書が「仕えなさい」と命じているのは妻に対してだけでないのです。「仕え合う」のは夫も同様であり、また親と子でも、さらには奴隷と主人の関係でも同じなのです。つまりキリストを信じて生きる者は互いに仕え合うことが大切だとパウロは教えるのです。そして、日本語の聖書翻訳者たちは、この21節の言葉を受けて妻は夫に仕えるべきだと言う言葉をここに付けくわえて、パウロの言葉を解説しているのです。


②夫に仕えることは主に仕えることになる

 この妻に対する教えてで興味深いのは、パウロは妻が夫に「仕えること」には特別な意味があると教えている点です。私たちは普通、自分は「誰に仕えるのか」と言うことを考えます。仕える相手を間違えてしまえば、せっかくの努力は水の泡になってしまうからです。だからある人は「自分の夫に仕えても無意味だ」と言うのです。

 しかしパウロはここで妻たちに「夫に仕えることは、主に仕えることと同じだ」と教えるのです。つまり、彼女たちは夫に仕えることを通して主に仕えることになると教えているのです。だから、ある説教者は夫に忠実に仕える妻に「その報いを与えるのはその夫ではなく、主イエスご自身だ」と教えています。ぼうっと生きている夫は、妻がどんなに苦労していても、それを正しく理解することもできないかも知れません。しかし、主は夫に仕える妻の行いを正しく見ておられるのです。そしてその主はその妻の行いを自分にしたかのように評価してくださり、必ず正しい報いを与えてくださると言うのです。だからむしろ、妻は夫に従うと言う行為を通して信仰者として成長する機会を得るとも言えるのです。


3.どのように夫は妻を愛すべきなのか

①妻の頭は夫だから

 ところで、ここでよく問題になるのは23節で語られているパウロの言葉です。

「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」

 ここに「妻は夫の頭だからです」と言う言葉が記されています。ところがここには「夫は妻の頭だから」と言う言葉が正しいと言える、その理由が一切説明されていません。ですからある聖書注解者はこの部分の言葉は当時の社会で当然とされていた常識をそのまま使って語っていると説明しています。この言葉は男女同権が当然とされる現代人の思考では問題となりますが、当時の社会では当然と言えるものだったのです。

 しかし、私たちにとって大切なのは「どうして夫が妻の頭となるのか」と言う理由ではなくて、聖書が「頭」と言う場合、この言葉は何を言い表しているのかという問題です。当時の社会が夫に対して専制君主のように家庭で振る舞うことを認めていたとしても、聖書はこの「頭」と言う言葉を使って夫に全く違ったことを要求しているのです。そこでパウロは「頭」である夫の役目がどのようなものであるかを説明するために、25節以下の夫についての教えを語っていると考えることができるのです。


②キリストが教会を愛したように、妻を愛せ

 パウロが語った妻に対する教えは22節と24節だけで本当に短い言葉になっているのに対して、夫に対しては23節の「妻は夫の頭だから」と言う言葉を含めて、大変詳しくことを教えています。この言葉を読む男性は「聖書では女性の立場が不当に取り扱われている」と言うことを心配するよりも、むしろ夫となる自分に対して聖書はきわめて厳しい言葉を語っていることに注意すべきです。なぜなら、パウロは妻の頭となる夫に対して、徹底した愛を求めているからです。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(25節)

 イエス・キリストのご自身の命を十字架で献げることによって罪と死に支配されていた私たち人間を救い出してくださいました。パウロはここでそのキリストが示された愛と同じように夫は妻を愛するべきだと教えています。これほど厳しい命令が他にあるでしょうか。そもそも人間である夫がその妻を本当に「キリストのように愛する」ことは可能なのでしょうか。おそらく、この質問にすぐ「はい」と言える人は、本当の意味でキリストの愛の素晴らしさを理解し切れていないと言ってもよいのかも知れません。その人は自分の力を過大評価しているか、あるいはキリストの愛を過少評価していなければ、とてもそのように答えることはできないからです。私たちが「キリストのように」人を愛することはできません。だからこそ、私たちには信仰が必要なのだと言うことできます。なぜなら、私たちはキリストの助けがなければ、人を本当に愛することはできないからです。

 そう考えて見ると「頭」であるべき夫は、その夫婦関係において、そしてその家族の関係の中にキリストの助けが絶対に必要であることを知っている人でなければなりません。いえ、むしろ「頭」である夫は、キリストこそが家庭においてもまことの「頭」であることを知っていなければならないと言えるのです。


③自分を愛するように妻を愛せ

 パウロはさらに夫の妻に対する愛について次のように語っています。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」(28節)

 先日の礼拝ではキリスト教会はギリシャの哲学者のように「人間の身体は魂を閉じ込める牢獄」とは信じていないことを学びました。なぜなら、人間の魂も肉体もすべて神の創造によって造られたものだからです。ですから、人間は神が造ってくださったものを正しく用いることで、幸せに生きることができるのです。これは結婚関係も同じです。結婚は私たち人間が幸せに生きるために神が造ってくださった制度なのです。そしてパウロはそのために夫は妻を「自分の体」のように愛するべきだと教えています。そして妻を愛することは、結果的に自分自身を愛することにもなるとも教えているのです。

 このパウロの言葉によれば自分自身を愛することが出来ない人は、他人を愛することができないと言うことになります。アメリカ映画界で伝説のような女優となったマリリン・モンローは実生活の中で何度も結婚と離婚を繰り返すと言う経験をしています。彼女の結婚生活がいつも失敗に終わってしまうのは、彼女は「自分は人に本当に愛される資格を持っていない」と考えていたからだと言われています。映画を通してたくさんの人々に愛された彼女は自分を愛することができない人間だったのです。そして彼女がそうなってしまったのは、彼女が子どものときに味わった不幸な体験だったと考えられています。なぜなら、彼女はその不幸な体験を通して「自分は誰にも愛されない」と言う確信を深めることになったからです。

 しかし、パウロは「私たちはマリリン・モンローとは違う」とここで言っています。なぜなら私たちは、「自分は愛される価値を持っている」と考えることできるからです。それはどうしてでしょうか。なぜなら、私たちは私たちのために命までささげてくださったキリストの愛を知っているからです。だからこのキリストの愛を知る者は自分を大切にします。そして自分を愛する者は、自分と同じようにその妻を愛することができるとパウロは教えているのです。


4.キリストの身体である教会を構成する夫婦関係

 エフェソの信徒への手紙でパウロはキリストの身体である教会について繰り返し私たちに語っています。キリストに救われた私たちはその教会の一員とされているからです。今は天におられるキリストはそこから私たちに聖霊を送ることで、この教会の「頭」である務めを今も果たされています。そしてキリストはこの教会を通して神の御業をこの地上に実現させてくださるのです。今日の部分で取り上げられている夫と妻の関係、そして次に取り上げられる親と子供の関係、さらには奴隷と主人の関係もすべて、このキリストの身体である教会を構成する人々だと言うことができます。そしてパウロは教会を構成する人々に最も大切なことは「お互いに仕え合うことだ」と教えているのです。そのような意味で、今日の箇所で取り上げられた夫と妻の関係はキリストの御業をこの世に実現していくための教会にとってとても大切なことだと言えるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 あなたは私たち人間を創造され、私たちの人生を祝福されるための手段の一つとして結婚関係を定めてくださいました。そしてキリストは人間の罪の結果、本来の働きができなくなってしまったこの関係に本来の力を回復させるために働いてくださる方であることに感謝します。どうか私たちに聖霊を送って、私たちの信仰を励まし、夫と妻との関係においても、親と子供の関係においても、またその他の様々な関係を通して私たちの人生を祝福していください。そしてその私たちも自分の生活を通して神の素晴らしさをほめたたえて生きることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.今日の箇所でパウロは妻たちに結婚関係でどのようなことを求めていますか(22〜24節)。

2.それではパウロは夫にはどのようなことを求めていますか(25〜33節)。

3.パウロは「キリストが教会のためにご自分をお与えになった」のは何のためだったと教えていますか(26〜27節)。

4.パウロは創世記2章24節の言葉を引用して、何を私たちに教えようしていますか(31〜32節)。

2020.9.6「わたしたちはキリストの体の一部」