2021.1.17「目を覚ませ」
ヨハネの黙示録3章1〜6節
1 サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
2 目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
3 だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
4 しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。
5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
6 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
1.サルディス教会の問題点
①死んだ信仰
今日も皆さんと共にヨハネの黙示録から学びたいと思います。栄光の主イエスから黙示録の著者であるヨハネを通して七つの教会に宛てられた手紙を私たちは今、続けて学んでいます。この地上に生きている私たち人間は完璧な存在ではありません。ですから、私たち人間はそれぞれ長所と呼ばれる優れた面と、短所と言われる弱点を持って生きています。しかし、この長所と短所は全く違ったものであると言うよりは、ある意味で同じであったり、両者には深い関係があること言うことが多いようです。例えば、物事を迅速に進めるという長所を持っている人は、その反面で気が短いと言う短所を持っていると言うように、長所と短所はお互いに関係していると言えるのです。私たち人間が完全ではないように、その人間が集まる教会も完全ではないと言うことができます。ですから、どのような教会にも長所があり、またその反対に短所と呼ばれるものがあるはずです。今まで私たちが学んで来た四つの教会への手紙の内容を見ても、そこに名前があげられる教会は決して完全ではなく、いろいろな問題点を持っていました。しかし、そのような問題点を持ちながらもそれぞれの教会は苦難に対して忍耐し、信仰を守り抜こうとする姿勢が主イエスからも評価されていたと言えました。ところが今日のサルディス教会への手紙は前の四つの教会に宛てられた手紙と比べると少し異質な傾向の言葉が語られています。
この手紙にはサルディス教会が信仰の試練に対して忍耐している姿勢は全く語られていません。つまり、この教会に宛てられた手紙の中には教会の外部からの迫害や、教会内部で起こった偽教師たちの語る誤った教えに対する戦いは何も語られていないのです。おそらく多くの人がうらやむほどに、この教会には問題と呼ばれるものがなく、信仰の忍耐を求められることはなかったと言えるのです。しかし、その教会に対して語られるイエスの言葉は大変に厳しいものとなっています。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(1節)。
主イエスはサルディスの教会の人々の信仰を「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と指摘しています。おそらく、サルディスの教会の人々は「自分たちは問題のない祝福された信仰生活を送っている」と思っていたかも知れません。しかし、その信仰生活は主イエスからは「死んでいる」と見なされてしまっているのです。いったい「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と言われてしまったサルディス教会の人々の信仰とはどのようなものだったのでしょうか。
②油断によって滅びた町
大変に興味深いのはこの教会が建てられていたサルディスいう町に関する歴史です。このサルディスはトルコ西部にあった町の一つで、交通の要所にあったために商工業によって大変に潤っていた町と言われています。さらにこの町は昔存在したリディアという王国の首都として栄えました。サルディスの町は高い丘の上に立てられており、この町は断崖を登らないと攻め滅ぼすことができない守りの潔癖な難攻不落の場所として知られていました。しかし、この町の人々は返って自分たちが難攻不落の町に住んでいたために「自分たちは大丈夫」と言う過信を持つようになり、外敵の侵入に注意を払うことさえ忘れてしまったのです。ですから、この町は不意を突いて断崖を登ってきた敵の奇襲に合い、歴史上二回の大敗北を経験してしまい、王国も滅んでしまいます。つまり、この町は自分の持っている力に過信するあまり、それによって自らの滅びを招いてしまったと言う経験を持っていたのです。
サルディスの教会の弱点はまさにこの「自分は大丈夫」と言う油断にあったのかもしれません。だからこそ主イエスは彼らに対して「目を覚ましなさい」という警告の言葉をここで語っているのです。
2.死んだ信仰とは何か
①外見上は問題がない
自分が抱えている問題に対して自覚症状がないと言うことは深刻なことだと言えます。それは肉体の病気でも同じです。人間は自分の体に痛みや不調を感じれば、「医者に行って見てもらおう」と考えます。しかし、その痛みや不調が少しも現れず、気づいた時には手の施しようのない病に犯されていたという話もよく聞くことがあります。
サルディスの教会には自分たちが抱えている問題に対する自覚症状がありませんでした。なぜなら、彼らは日常の生活で何の不自由も感じることなく生きることができたからです。彼らは町の人々ともうまく付き合うことができていたのかも知れません。また経済的にも恵まれていたのかも知れません。しかし、主イエスの言葉によれば彼には彼らが感じることのできない深刻な問題があったのです。だからヨハネの黙示録は彼らに次のように語ります。
「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。」(3節)。
神の福音は私たちの心の内側から自然と沸いてくるようなものではありません。むしろ、神の福音は私たちの外側から、誰かによって私たちに伝えられたものなのです。ですから私たちは私たちに伝えられた福音を大切にしなければなりません。いつも私たちが受け継ぐことのできた福音から自分の信仰生活を省み、誤りに気付けば悔い改める必要があるのです。しかし、サルディスの人々はそのことを怠っていました。だから彼らの信仰は使徒から伝えられた正しい信仰ではなく、いつの間にか自己流の信仰になってしまっていたのです。これでは主イエスから「死んでいる」と言われても仕方がありません。
私たちの信仰生活にとって聖書を読むと言うことはとても大切であることは誰もが知っているはずです。聖書を読まない信仰は自己流の「死んだ」信仰になってしまうからです。しかし、いくら熱心に聖書を読んでも、自分の好きな聖書の言葉だけを選び出したり、またその聖書の言葉を自分の都合のいいように解釈しているなら、これも自己流の信仰になってしまいます。私たちの教会が「教理」を大切にする点はここにあります。教会が教える教理は今までの教会が聖書をどのように読み、どのように理解してきたかを伝えるものなのです。だからこの教理を私たちが大切にすることは、「受けたもの、聞いたことを大切にする」と言うことになるのです。だから私たちが自己流の信仰に陥ることなく、生きた信仰生活を送るためには教会の教理を大切に学ぶことが必要であると言えるのです。
②キリストを求めない信仰
自己流の信仰が最も陥りやすい点は「キリストを求めなくなる」と言うところにあります。なぜなら私たちはむしろキリストではなく、自らの生活の安寧だけを求める傾向があるからです。そしてその安寧を実現するために神を利用し、キリストを利用するようなこともするからです。
かつてドイツにブルームハルトと言う有名な牧師がいました。彼を有名にしたのは、彼が癒しの賜物を持っていると言ううわさが国中に広まったからです。そこでブルームハルトの元に国中から病の癒しを求める人々が集まりました。ブルームハルトはそのような人々が宿泊できる療養所をわざわざ作って、その人たちの面倒を丁寧に見たのです。しかし、ブルームハルトはそのような活動をするなかで一つの壁にぶつかります。なぜなら、彼の活動を通して確かに多くの人が癒されたのですが、その人々は自分が癒されたと知ると、ブルームハルトに礼を言って自分の元いた場所に戻って行ったからです。確かに病が癒されて元の生活に戻ることができることはすばらしい祝福です。しかし、ブルームハルトは癒された人々がそれで満足して、それ以上キリストを求めなくなることに強い疑問を感じたのです。多くの人々にとっては信仰やキリストは自分の病を癒すための方法や道具でしかなく、自分の病がなくなれば、信仰もキリストも必要なくなってしまうように見えたからです。
③自分の願望を実現させるための信仰
確かに私たちは自分の願いを神に祈り求めることは大切です。そしてむしろイエスも私たちに対してそのように神に祈り求めることが大切であることを教えてくださいました。しかし、私たちの信仰生活の目的が自分の持っている願望だけを実現させるためのものとなってしまったなら、これはまさに「死んだ」信仰となり、決して「生きた」信仰とは言えないのです。
自分の願望を実現させるためだけの信仰の特徴は、世界を自分の思いのままに変えることに関心が置かれると言うことです。しかし、このような信仰を持つ人は肝心の自分自身が変わることには何の関心も持っていないのです。ですからこのような信仰では神の祝福にあずかることはできないと言えます。なぜなら、聖書は様々な問題の原因は私たち自身の心の内側にあることを教えているからです。罪を犯し、神に背き続けて生きる私たちが変わらなければ、どんなに神がすばらしい賜物を私たちに与えてくださったとしても、それを正しく使うことができません。返って自分たちをますます不幸にしてしまうのです。これが聖書の教える私たち人間、「罪人」の本当の姿なのです。だから、私たちが本当に神に祝福さえた人生を送りたいなら、まずこの私たち自身を神に変えていただくことを祈り求める必要があるのです。
イエス・キリストはこの罪人である私たち自身を変えてくださるために来てくださった方です。ですから生きた信仰生活とは、私たちがこのキリストを追い求め、そのキリストによって自分を変えていただく信仰であると言うことができるのです。
3.白い衣を着たものへの祝福
①神が与えてくださる真の祝福とは
ヨハネによる福音書の9章には生まれつき目の不自由な盲人がキリストに出会ってその目を見えるようにされたと言う物語が記されています。私はこの物語について以前、ある説教者を通してこんなことを聞いたことがあります。現在でも目が不自由な方でイエス・キリストを信じる人はたくさんいます。その牧師はあるときそのような目の見えない信者たちが集まる集会のゲストとして招かれました。そして、そこで彼らの信仰の証を聞いて一つのことに気づいたと言うのです。なぜならそこで証しする多くの人が、このヨハネの福音書の伝えた生まれつき目の見えない人とイエスとの出会いの物語を引用して、「この聖書の物語が自分の人生を変えた」と語っていたからです。そこでこの牧師はこう感じたと言います。「この物語に登場する盲人は実際にイエスに目を開いていただくことで目が見えるようになった。しかし、自分が今話を聞いている人々の目は、今でも見えないままだ。ところがこの人たちは喜びに満ちて自分の信仰生活の証しをしている。彼らは「自分の人生は変えられた、自分は神さまに愛されていることを知った」と語っていると…」。キリストに出会い、キリストに変えられた者の信仰とはこのような人々の信仰だと言えるのではないでしょうか。使徒パウロも自分の信仰生活を振り替えてこう語っているところあります。
「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(コリント二6章8〜10節)。
使徒パウロはこのとき他人から見れば問題だらけ、決してこの人が神から祝福されているようには思えないと言うような信仰生活を送っていました。しかし、パウロは自分が神から最も祝福され、愛されていることを知っていたのです。それは彼がイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを求め続ける生きた信仰生活を送っていたからです。
②私たちの名が命の書に書き記されること
主イエスはかつてご自身の弟子たちにご自身の持っている権威を授けて彼らを宣教旅行に遣わしたことがありました。そのイエスの名を使うことによって弟子たちは各地で驚くべき奇跡を起こします。彼らが自分たちもびっくりするような成果があったと喜びを持って主イエスに宣教報告したとき、主はこう弟子たちに語られました。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10章20節)。
今日の箇所でも白い衣を着る者たちについて「彼の名を決して命の書から消すことはない」(5節)と言うイエスの言葉が記されています。主イエスを信じる者に与えられる本当の祝福は、私たちの名が天に書き記されること、命の書に書き記されることだと言っているのです。それはイエスを救い主と信じ、そのイエスによって罪赦されて、義と認められたすべての信仰者に与えられる真の祝福です。そしてこの祝福にあずかる者はたとえ試練の中で忍耐の生活を続けていたとしても、自分たちが神に祝福されていること、また神に愛されていることを確信し、生きた信仰生活を送ることができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.主イエスはサルディスの教会の人々の行いをご覧になってどのような言葉を語っていますか(1節)。また彼らに何を要求さえていますか(2節)。
2.彼らが自分たちの信仰の過ちを悟り、悔い改めるためには何をする必要があると言われていますか。またもし、彼らがこの警告に従わないならどうなると言われていますか(3節)。
3.正しい信仰を守り抜いて白い衣を着させていただい人々に主イエスはどのような祝福を約束してくださっていますか(4〜5節)。