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2021.1.24「主イエスによって開かれた門」

ヨハネの黙示録3章7〜13節

7 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。

8 「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。

9 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。

10 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。

11 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

12 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。

13 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』


1.なぜフィラデルフィアの教会は褒められたのか

①力の弱いフィラデルフィア教会

 伝道者パウロは自分が生きる望みさえ失ってしまうような深刻な苦難に出会ったときのことをコリントの信徒への手紙二の冒頭で語っています。パウロはここで自分の人生にその苦難を通してある変化が起こったと説明しています。

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(8〜9節)。

 私たちは普段の生活の中で自分でも知らず知らずの内に色々なものを頼りにして生きています。そして私たちの人生に起こって来る苦難は自分が今まで頼りにしていたものが本当に頼りになるものなのかどうかを私たちに教える大切な機会となるのです。キリストの福音を伝道するために命を懸けて活動したパウロでさえこの時点ではまだ自分を頼りにすることがあったのでしょう。だからパウロはここで改めて「自分を頼りにすることをやめた」と語っているのです。つまり、パウロもまたこのとき苦難に対して自分の力が頼りにならないと言うことを知ったのです。そして自分を頼るのをやめて、主イエスを信頼して生きることを彼は再決断したのです。パウロが出会った苦難はこのために用いられたと言うのです。

 今日はヨハネの黙示録の最初の部分に記される主イエスから七つの教会に宛てられた手紙の6番目であるフィラデルフィアの教会に宛てられた手紙から学びたいと思います。この手紙の特徴は、他の教会に宛てられた手紙と違って主イエスがこの教会の人々の行いの誤りを指摘している言葉が登場しません。このフィラデルフィア教会はむしろ主イエスからお褒めの言葉をいただいています。その理由は彼らが「わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(8節)からだと言うのです。しかし、この言葉の前に少し興味深い言葉が記されています。なぜならここで主イエスはフィラデルフィアの教会の人々に対して「あなたがたは力が弱かったが」と語っているからです。これは不思議な言葉です。なぜなら私たちは普段自分の力の弱さを知らされるたびに悲しんだり、落ち込んだりしているからです。しかし、今日の聖書箇所の主イエスの言葉を読むとむしろフィラデルフィア教会の人々の「力の弱さ」が彼らの信仰のために大切であったと言われているように聞こえるのです。今日はそこのことを中心に皆さんと聖書の言葉を学んで行きたいと思います。


②フィラデルフィア

 「フィラデルフィア」と言う都市の名前を聞くと私たちはすぐにアメリカのペンシルバニア州に存在する大都市を思いうかべるかも知れません。もともとこのアメリカにあるフィラデルフィアはウイリアム・ペンと言う人物に導かれたクエーカー教徒によって作られた町だと言われています。クエーカーの人々は独特な教義を持っていて、特に「絶対平和主義」を主張したことで有名です。そしてそのためにクエーカーの信徒たちは国からの徴兵を拒否したことで有名です。フィラデルフィアはギリシャ語で「兄弟愛」と言う意味があります。もしかしたらこの町を作ったクエーカー教徒は「兄弟愛」に満ちた理想都市をここに作ろうとしたのかも知れません。しかし、このフィラデルフィアと言う町の名前は元々この聖書の黙示録に登場する町の名から由来しているのです。それではどうしてこの町は「兄弟愛」と言う名前で呼ばれるようになったのでしょうか。それはこの国に兄弟を愛したことで有名になった一人の人物が実際にいて、その人のあだ名がこの町の名前として採用されたと言うことが歴史書に報告されています。

 しかし、この町は紀元17年に起こった大地震によって壊滅的被害を受け、一時は廃墟のような場所になってしまいます。そしてその町を再建したのが当時この地方一帯を植民地にして治めていたローマ帝国の皇帝だったのです。ですからこの町の人々は町の再建の立役者となったローマ皇帝に大変な恩義を感じていました。だから彼らは自ら進んでローマ皇帝を祭る神殿を町の中心に立てて、皇帝崇拝を町に住む人々に奨励したのです。今日の聖書の箇所でもこの教会にこれから大きな試練が襲ってくると言うような言葉も語られています。おそらく、それはフィラデルフィアの教会が遭遇した皇帝崇拝との戦いであったと考えることできるのです。


2.ダビデの鍵

 さてヨハネの黙示録はまずこの手紙の差出人である主イエスについて次のような言葉を使って紹介しています。

『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。』(7節)

 ここに語られている言葉は旧約聖書のイザヤ書22章22節の言葉を引用したものです。イザヤ書ではダビデの家の管理を行う人物のシェブナと言う人が不忠実だったために、神は代わりにヒルキヤの子エリヤキムを任命して、シェブナの持っていた鍵を取り上げてエリヤキムに渡すようにと語られています。ダビデの鍵を持つ者はダビデ家のすべての宝を管理する任務と権限を持っていることを表します。この言葉から主イエスは神がダビデに約束された救いの約束を実現し、その祝福を人々に分け与える権限を持っておられる方であると言うことが分かります。つまり、その人が救われるかどうかを決める権限はすべて「ダビデの鍵を持つ方」である主イエスにゆだねられていることが表現されています。そしてイエスは続けてこう語っています。

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」(8節)

 ユダヤ人の律法主義者たちは自分の善き行いが自分の救いを決定させるものだと主張しました。だから彼らはイエスを自分たちの救い主として認めることができなかったのです。このユダヤ人の考えでは門を開けるのは自分自身の善き行いとなってしまいます。そうなるともし、その人が今まで通りの善き行いができなくなるとその門は再び閉ざされることになります。しかし主イエスはご自身の開いた門を誰か他の人が再び閉めることは決してないと語られているのです。

 これは私たちの信仰にとってとても大切なことです。なぜなら門を開けるのは私達ではなく、主イエスであるからです。だから主イエスはこの門を私たちのために開くためにこの地上に来てくださり、十字架にかかってくださったのです。そして、この主の御業を阻むことのできるものは誰もいないと語られています。たとえローマ皇帝であってもそれはできないのです。また、信じる私たちの側に何らかの変化が起こったとしても、それによってこの門が閉じられることもありません。なぜならば私たちの救いはダビデの鍵を持つ主イエス・キリストに100パーセントかかっているからです。


3.力が弱かった

 さて、主イエスはフィラデルフィアの教会の人々のために救いの門、祝福の門を開いてくださったということを語った後に、このフィラデルフィア教会について次のようなことを知っていると語ります。

「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(8節)。

 ここでは主イエスはフィラデルフィアの教会の人々が主イエスの言葉を守り、主イエスの名を知らないと言わなかったことを評価されています。日本でもキリスト教が禁教とされた江戸時代に「踏み絵」と言う道具があったことが知られています。もしその人が「踏み絵」を踏むなら、「私はキリシタンではありません。私はイエスなど知りません」と言っていることになります。フィラデルフィアの教会の人々はこの江戸時代のキリシタンと同じような苦難に会っていたのです。そして彼らは厳しい迫害の中でも自分の信仰を捨てることがなかったと言うことがここで主イエスによって評価されています。それではどうして彼らは厳しい迫害の中でも自分たちの信仰を守りぬくことができたのでしょうか。それは彼らの「力が弱かった」からだと言われているのです。ある説教者はこの言葉を「彼らは力が弱かったから、頑張った」と言う意味ではない繰り返し語っています。だからむしろこの言葉はこう考えたらよいでしょう。彼らは自分では頑張ることができないほどに「力が弱かった」のです。

 私たちが前回学んだサルディス教会はこの教会と対照的であったと言えます。彼らは全く問題を感じていませんでした。つまり、サルディス教会は「力が強かった」のです。だから、彼らにはこの世で頼れるものがたくさんありました。それで彼らは肝心の主イエスに信頼するということを忘れてしまったのです。そのためサルディス教会の人々は主イエスから「あなたがたの信仰は生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と言われてしまったのです。

 フィラデルフィアの教会の人々は彼らと違ってこの世には頼りにできるものを何も持っていませんでした。しかしだからこそ彼らの信仰は生きたものとなったのです。なぜなら彼らは主イエスの言葉を守り、主イエスの御名を信じ続けたからです。フィラデルフィアの教会の人々には他に頼るべきものが何一つなかったからです。だから彼らは主イエスにのみ希望を置いて生きることができたのです。これは先ほど取り上げたパウロの場合と同じであると言えます。パウロは厳しい苦難の中で今まで自分が頼りにしていたものをすべて奪われてしまうと言う経験をしました。そればかりではありません。彼は苦難の中で自分の無力を痛感して、自分自身も頼ることもできなくなってしまったのです。しかしだからこそパウロはここで神を頼りにすること、キリストを頼りとすることの素晴らしさを知ったと言っているのです。


4.神殿の柱

 このように厳しい試練の中で力が弱かったフィラデルフィアの教会の人々はそのため主イエスだけを頼りにする他ありませんでした。彼らに残さえている選択肢はそれしかなかったからです。しかし、その選択こそが正しかったことを主イエス自身が次のように証明しています。

「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(10節)

 このイエスの答えを見ると「彼らの信仰生活から苦難がなくなる」とは言われていないことが分かります。いえ、もっと深刻な試練が彼らの行く手に待っているとイエスはここで語るのです。しかし、その試練から彼らを守るのはイエスご自身であることがここで約束されているのです。フィラデルフィアの教会の人々にとってこれほど確かで、希望に満ちた約束はありません。私たちは明日、自分の人生がどうなっているのかを理解することはできません。だからその不安を利用する「占い」と言う商売が現代でも成り立っているのです。しかし、私たちには占いは必要ありません。なぜなら、主イエスが私たちの明日を守ってくださるからです。そして私たちを信仰の勝利へと導いてくださるのです。主イエスはフィラデルフィア教会の人々に対して続けてこう語っています。

「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。」(12節)。

 家を支えるのが柱の重要な役割です。もしその柱をとってしまったら家はたちどころに揺らいで、崩壊してしまう可能性があります。家の中にあるタンスや他の荷物はいらなくなれば捨てることができます。しかし柱は捨てられることはできません。主イエスを信じる者は「神の神殿の柱」とされると言われているのはです。

 改革派教会の大切な教理の中に「聖徒の堅忍」と言うものがあります。神によって救いに選ばれた者の信仰は神が守ってくださるので、必ずその人は信仰の勝利に至ることができると言う教えです。たとえその人が他の人の目からは神から捨てられた者と見なされても、また一時的に深刻な試練のためにその人自身が信仰の確信を失ってしまったとしても、神はからならずその人の信仰を回復させてくださるのです。それではなぜ私たちはこの「聖徒の堅忍」の教理を信じるのでしょうか。それは私たちに向けられた神の愛が決して変わることも、主イエスの愛が変わることもないからです。世界も私自身も状況の変化によって絶えず変わってしまいます。しかし、神とその愛は変わることがありません。そして私たちの救いの根拠はこの変わらない神の愛の上に置かれているのです。

 苦難の中でパウロはこの変わることのないキリストの愛に信頼し、希望を置きました。また力を持っていなかったフィラデルフィアの教会の人々も、キリストを信頼し続けたのです。だから、彼らは主の言葉に従い、その主の名を決して知らないとは言わなかったのです。私たちも改めて、この主に信頼し、主の言葉を守り、主を信じる信仰生活を続けて行きたいと思います。主は必ず私たちを試練の中でも守り導いてくださるからです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスはフィラデルフィアの教会に宛てられた手紙の中でご自身をどのように紹介されていますか(7節)

2.この手紙の言葉からフィラデルフィアの教会の人々についてどのようなことが分かりますか(8、10節)

3.自分はユダヤ人だと言ってキリストの福音を受け入れず、フィラデルフィア教会の人々に敵対する活動を続けている人たちに対して主イエスは何をされると言っていますか(9節)

4.やがて起こる全世界的な試練の時も、フィラデルフィアの教会の人々が安心できるように主イエスはどのような約束を彼らにしていますか(10〜12節)。

5.すべてが変わってしまうようなこの世の中で生きる私たちが信仰の確信を持って生きるためには何が大切だとあなたは思いますか。

2021.1.24「主イエスによって開かれた門」