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2021.1.3「今持っているものを固く守れ」

ヨハネの黙示録2章18〜29節

18 ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。

19 「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。

20 しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。

21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。

22 見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。

23 また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。

24 ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。

25 ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。

26 勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、/わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。

27 彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように。

28 同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。

29 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』


1.ティアティラ教会について

①パウロの協力者リディアの出身地

 新年あけましておめでとうございます。今年も皆さんと共にヨハネによる黙示録の学びを続けて行きたいと思います。今日は黙示録の最初に登場する栄光の主イエスから七つの教会に宛てて書かれた手紙の中の四番目、ティアティラと言う町にあった教会に宛てられた手紙から学びます。

 このティアティアラはトルコの西部にあった町で、今まで取り上げて来た町の中では最も小さな町であったと言われています。この手紙は小さな町ティアティラにあった小さな教会に宛てられた手紙です。しかし実はこの七つの教会の手紙の中ではこのティアティラ教会のために書かれた手紙の文章が一番長いものとなっています。

 私たち人間の目は大きなものにすぐ目が行く傾向があります。しかし、その反面では小さな存在を忘れてしまったり、見逃してしまう傾向があるようです。しかし、主イエスの目はそうではないことが分かります。なぜなら人の目からは忘れされてしまうような小さな教会にもいつも目を注いでくださることがこの手紙からも分かるからです。そして主イエスは「わたしはあなたたちのことをよく知っている」と言ってくださるのです。このことはティアティラの町の教会と同じように小さな教会である私たちの群れにとっても大きな慰めであると言えます。また同時に、いつも私たちの上に主の目が注がれていると言う事実は、私たちの心に主への聖なる畏れを抱かせるものともなるはずです。

 ティアティラは小さな町でしたが、聖書を読む私たちにとってはこの町の名はある人物の名前を通してよく知られていると言えます。その人物はリディアと言う一人の女性です。使徒言行録16章にはこのリディアと伝道者パウロとの出会いが報告されています。パウロがフィリピと言う町の祈りの場に行ったとき、このリディアと言う女性が登場します。彼女はそこでパウロの伝える福音のメッセージに耳を傾け、すぐに自分も自分の家族も主イエスを信じる決心をし、パウロから洗礼を受けています。この後、リディアはパウロの伝道を助ける重要な働きをしたようです(使徒16章11〜15節、40節)。このリディアと言う女性について使徒言行録は「ティアティラ市出身の紫布を商う人」と紹介しています。実はこのリディアの商売からもわかるようにティアティラの町は当時、織物や染色業と言った工業が盛んなところであったようです。そしてこの町で作られた商品はリディアたちのような商人の手を通して広くローマの各地に広がることになったのです。


②成長する教会

 このティアティラの教会は小さな教会でしたが、主イエスによってこのような評価を受けています。

「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」(19節)

 最初に学んだエフェソの教会の手紙では主イエスがこの教会の人々に「初めのころの愛から離れてしまった」(2章4節)というお叱りの言葉を語っています。エフェソの教会は異端の教えに対しては徹底的に戦い、その魔の手から教会を守ることができました。しかし、彼らはその代償として信仰者にとって最も大切な愛を失ってしまったと言われているのです。

 このティアティラの教会はエフェソ教会とは対照的な集団でした。なぜなら、彼らの信仰に伴う行い、つまり「愛、信仰、奉仕、忍耐」は「最初のころにまさっている」と主イエスから評価されているからです。このように彼らの信仰生活は日々、着実に成長していました。しかし、この教会にも大きな問題点があったことが続けて語られるイエスの言葉から分かります。そしてこの問題もある意味でエフェソの教会とは対照的な問題であったと言えます。なぜなら、この教会には当時、誤った教えを語る女預言者がいたからです。


2.女預言者イゼベルによる危機

①悪女イゼベル

 そのことについて栄光の主イエスは続けて次のようにティアティラの教会の人々に語りかけています。

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。」(20節)

 ここにイゼベルと言う名前の女性が登場しています。しかし、この名前はおそらく彼女の本名ではなく、黙示録がよく使う暗号のようなものであったと考えることができます。旧約聖書を読んでおられる方はこのイゼベルという名前のついた女性をよくご存じであるかも知れません(列王記上16章29〜33節、18章3〜4節、列王記下9章7、22節)。このイゼベルは北イスラエル王国のアハブと言う王の妻であり、特に聖書の中ではあの有名な預言者エリアと対立し、苦しめ続けた恐ろしい人物でした。彼女は元々シドン人の王の娘で自分の国から「バアル」と呼ばれる偶像を持ち込み、夫アハブやイスラエルの人々にこのバアルへの信仰を強制しました。そのため、彼女はまことの神に仕える預言者たちを次々と殺害し、最後にはエリアをも殺害しようとしたのです。このような意味でイゼベルと言う名前は旧約聖書の中に登場する「悪女」を代表するものとなっているのです。


②偶像崇拝を容認する偽預言者

 おそらくこのヨハネの黙示録を受け取ったティアティラの人々はこの「イゼベル」と言う暗号で呼ばれる女性の存在をよく理解していたと思われます。なぜなら、彼女は「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え(ている)」とここで語られているからです。この女性は教会の中で人々に教えを説く預言者、つまり教師のような役割を果たしていたようです。そしてここで問題されているのは彼女が人々に教えていた内容です。

「この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」。

 この言葉には解説を加えたほうがいいと思います。先ほども取り上げましたように、この町は当時織物や染色業で栄えた町でした。おそらく、教会に所属する人々も同じような職業に携わって生計を立てていたと考えられています。そしてこのような町では必ず同業者の組合、コミュニティーが組織されています。同じ仕事をしているものはこの組織に加わって、お互いに助け合いながら商売をすることが必要だからです。ところが、当時、このようなコミュニティーはその町に古くから伝わる宗教と深いつながりを持っていました。現代の日本でも、近代的な会社の敷地の中に神社を作ったり、建物の中に神棚を作って、社員一同にそれを拝ませるようなところがありますが、ティアティラの組合もこれと同じようなものであったと考えることができます。

 このイゼベルと言う女性はティアティラの教会員に対して、このような集まりに参加して、偶像礼拝をしても問題ないと教えたと考えられています。なぜなら、そのほうが組合に参加して商売をしようとする人にとっては都合がよいからです。彼らと衝突して組合から追放されてしまえば、商売を続けることもできなくなる恐れも生じます。ですから、この女預言者に従う人々が多数現れたのです。


3.主イエスからの警告の言葉

①イゼベルと彼女に従う者に与えられる報い

 しかし、主イエスはこのイゼベルと言う女性に対して、また彼女の教えに従う者たちに対して厳しい言葉をここで語っています。

「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。」(22〜23節)

 イゼベルや彼女の教えに従う者たちは、その行為の報いを必ず受けなければならないと主イエスは警告の言葉が語られています。彼らの罪の報いは「死」に価するものだと語られているのです。なぜなら、彼女たちは自らの行いによって命の源である神を拒むことで、自らに死と滅びを招いてしまっているからです。

 主イエスはここで悔い改めることのなかったイゼベルの死を語るとともに、彼女に従う人々も悔い改めなかったら同じようになると警告されているのです。


②悔い改めによって与えられる命

 この「悔い改め」は私たちの信仰生活にとって最も大切なことだと言えます。宗教改革者のマルチン・ルターはキリスト者の生涯は毎日、悔い改めの連続だと教えました(九十五カ条の提題)。悔い改めることを止めてしまったら、私たちの信仰から命が失われてしまいます。それではこの「悔い改め」とはいったいどのような意味を持つのでしょうか。それは、神以外のものに向けられていた私たちの思いを正して、再び神の方にその心を向けると言うことです。

 実は聖書が絶えずその誤りを指摘する「偶像礼拝」においてはこの「悔い改め」と言う信仰の要素が全く抜け落ちてしまいます。先ほど、シドン人の王の娘イゼベルがイスラエルにもたらしたと語った「バアル」と言う偶像の神は、もともと農民の豊作をもたらす神と考えられていました。また、ティアティラ市の人々が礼拝していた神々はおそらく商売繁盛のご利益をもたらすものだったと考えられています。

 「商売繁盛、家内安全、病気平癒」。私たちの住む日本においてもこのようなご利益をもたらすとされる神々や神社仏閣が無数に存在しています。そして人間はおのおの、自分の願望を実現させる神を選んでそれを礼拝することになります。しかし、これらの信仰の目的はあくまでもその人間が持つ願望の実現にあって、その人間自身を変える者ではありません。だからもしその人間自身が間違った願望を持っていたとしても、その人を変えることはできないのです。だからどんなに自分の願いがかなったとしても、本当の幸せを手に入れることができない、偶像崇拝ではこんな問題が生まれるのです。しかし、私たちの信じる主イエスもその父なる神も私たちのことをよく知ってくださっています。そして私たちがもし誤った願望を持っていたならそのままにしておかれることはありません。真の神は私たちの持つ誤りを正し、私たちを正しい生き方に導き、私たちの人生に本当の祝福を与えてくださるのです。だから「悔い改め」は神が私たちの人生を真の祝福に導くために必要なことなのです。


4.神の怒り=愛を持って叱ってくださる神

 先日インターネットの記事を見ていて、こんな話を読みました。あるパン屋に近頃有名なアイドルグループのメンバーがテレビの番組のために一日修行にやって来ました。ところが、そのアイドルはパン屋の主人がパンの作り方を丁寧に説明しても、返事をしないでただ立っているだけなのです。そこでたまりかねたパン屋の主人が大きな声で「お前たち、何で挨拶一つできないのか」とどなったのです。この様子がそのままテレビで放映されて、ネットが炎上するという騒ぎが起こりました。おそらくそのアイドルのファンである若者たちが「大声を張り上げて怒るなど、ひどい」とその主人にかみついたからです。

 ネットの記事はその騒動の後だいぶたって、そのパン屋の主人にインタビューした内容が書かれていました。その記事によれば当の主人はインターネットを使わないので炎上のことをほとんど知らないと言うことでした。その上でその主人はこう語っています。「わたしは彼女たちを怒ったつもりはない。ただ、叱っただけだ」と…。その主人によると「怒る」と言う行為はこちらの感情を相手にぶつけるものだが、「叱る」というのはその相手が間違っていることを指摘して、正すためにあるもので「怒る」と「叱る」とは全く違うと言うのです。つまり「叱る」と言う行為には個人的な怒りの感情は決して伴っていないと言うのです。

 私はこの記事を読んで気づいたことは「怒り」は自分のためにすることで、それとは違って「叱る」とは相手のためにすることだと言うことです。だから私たちが本当に相手を叱るためには、自分の側に怒りの感情があってはいけないのです。相手を本当に思うなら、まず自分が抱いている怒りを自分で解決した上で、相手を叱らなければならないのです。

 聖書は神の怒りについて度々語ります。しかしこの神の「怒り」は私たち人間が抱くような「怒り」とは全く違います。なぜなら神の怒りには私たちが相手に抱くような不快な感情は伴っていないからです。それよりもこの神の怒りには、罪を犯した者が「悔い改めて」、命の道に戻ることを願う、神の愛が隠されているのです。そしてこの神の怒りに正しく答えることが「悔い改め」であると言えるのです。

 主イエスはティアティラの教会の人々を愛して、彼らを命の道に戻すためにその「怒り」をここで表現されました。だから、この言葉を聞く者たちは、そのイエスの愛に答えて「悔い改め」を表すことが大切だったのです。

 イエスはティアティラの人々がこれまで養ってきた「愛、信仰、奉仕、忍耐」という行いをこれからも固く守っていくならば、必ず彼らを勝利に導くと語られています。今はどんなに彼らの状況が暗闇であっても、主イエスは必ず「悔い改めて」生きる者たちに「明けの明星」を与えて、希望の朝を与えてくださると約束してくださっているからです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ティアティラの教会に宛てられた手紙の内容からイエスがこの教会の人々を評価している点は何であることが分かりますか(19節)。

2.それでは逆にイエスがこの教会の抱える問題として指摘しているものは何ですか(20〜21節)。

3.主からの警告を無視して悔い改めない者はどうなると主イエスはここで語っていますか(22〜23節)。

4.主からの重荷を負うことがない人はどのような人ですか(24節)。また、その人たちはこれからどうしていけばよいと教えられていますか(25節)。

5.イエスは自分の信仰を守りぬいて勝利を得る者に何を与えると約束されていますか(28節)。

2021.1.3「今持っているものを固く守れ」