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2021.1.31「苦難の中でも希望に生きる教会」

ローマの信徒への手紙5章3〜4節(新P.456)

3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。


1.コロナウイルスのパンデミックよる「苦難」

①「苦難の中で」ではなく「苦難の中でも」

 今朝の礼拝では会員総会のために提案されている私たちの教会の今年の年間テーマと年間聖句を取り上げてお話したいと思います。今年の東川口教会の年間テーマは「苦難の中でも希望に生きる教会」です。このテーマを最初に取り上げたときにこの文章は「苦難の中で希望に生きる教会」の誤りではないかと指摘されたことがありました。つまり「も」と言う字は余計だと言うのです。しかし、私はこの「も」と言う言葉にはとても重要な意味があると思っています。なぜなら、私たちの一年間、365日の生活がすべて苦難に満ちていると言うことはまずないと言えるからです。今は確かに苦しい状況に置かれていたとしても、それでも私たちの生活には苦難だけではなく、感謝すべきことがたくさんあると言えるからです。それなのに私たち人間は自分が置かれている状況を正しく判断できていないところがあります。本当は神の助けの中に生かされているのに、それに気づかずに目の前にある「苦難」だけに目を向けて、落胆してしまったりすることがよくあるのです。ですからこの「も」と言う言葉はそのような意味で私たちが目の前の「苦難」だけに関心を向けることなく、もっと広い目で現実を見つめる必要があるためにも必要な文字と言えるのです。


②世界も教会も苦難の中に置かれている

 確かに私たちが最近置かれている現実を一言で表現するなら「苦難」と言う言葉で表すことができると思います。2020年度は世界的に起こったコロナウイルスによるパンデミックにより、私たちの毎日の生活を大変な苦難が襲うことになりました。現在では世界の各地で新たに作られたワクチンの投与が始まっていますが、いまだにこのパンデミックが完全に解決するときがいつなのかはまだはっきりとわからない状況が続いています。私たちの住む日本においても政府は今年に入って二度目の緊急事態宣言を出しました。そしてその宣言がいつ解除されるのかさえ今の時点でははっきり分かっていないのです。この宣言下の中で日々、私たちの生活には様々な制限が加えられています。その結果、人間も社会は疲弊し、たくさんの人々が生きる希望さえ失いかけているのです。

 教会の年報をご覧になられても分かるように、このパンデミックの影響は教会の活動自体にも大きな影響をもたらしました。昨年の総会で決議された教会の伝道計画のほとんどが実行できないような状況が生まれたからです。教会は人々に福音を伝え、その人々を教会の礼拝に招き、その人たちとともに信仰生活を送ることこそ大切な伝道活動であると考えて来ました。しかし、このコロナウイルスのために私たちはかろうじて日曜日の礼拝を守り続けることができていますが、今でも積極的に新しい人々を礼拝や教会の様々な集会に招くということができなくなってしまっています。このような意味でも、私たちは今、間違いなく「苦難」の中に置かれていると言ってよいのかも知れません。


③改革派神学の三つの強調点

 ところでこのようなコロナウイルスによって起こった「苦難」について考えていたとき、私は偶然にアメリカの長老教会の神学者ドナルド・K・マッキム氏が記した「パンデミックの中で思いをめぐらすこと」と言う小さなパンフレットを見つけました。このマッキム氏の本は東川口教会でも夜の教理学習教室のテキストとしてよく使わせていただきました。マッキム氏の本を読むと彼が伝統的な改革派神学を私たちの日常の生活に結び付けて語ることのできる貴重な賜物を持っていることが分かります。そのマッキム氏はパンフレットの中で私たちがこのパンデミックの苦難の中で思いを巡らすことが大切であると思う改革派教会の三つの神学的強調点を上げています。その第一は「神が主権者であると言うこと」です。ですから、すべての出来事はこの神の御心なしには何一つ起こりえないと言えます。第二は、「神は悪からも益を持たすことができる方だ」と言うことです。たとえ今は私たちにとって不都合な現実が起こっていたとしても、神はその出来事を用いて私たちのためによいことをしてくださるのです。また第三は「わたしたちは神が与えてくださった手段を用いることができる」と言うことです。この第三は少し説明が必要かもしれません。なぜならここに改革派教会の信仰の優れた視点が隠されているからです。なぜならこの点で誤解をする信仰理解がキリスト教会内部にも存在しているからです。たとえばその中には「信仰と科学は対立する」と考える人がいます。つまり、本当の信仰者には科学の助けなど必要としないと主張するのです。しかし、改革派教会はこの世の科学もまた神が私たち人類に与えて下さったものと考えます。ですからそれを私たちが用いることは私たちの信仰と何も矛盾もしないのです。世が提供するコロナウイルスに関する医学的な正しいアドバイスに私たちが従うことは私たちの信仰と全く矛盾しないのです。ですから私たちは神に信頼する一方で、神が私たちに与えてくださったものを使って問題の解決に努める必要があるのです。このように神が与えてくださったものを用いることは信仰者の務めであると言えるのです。


2.苦難も神からの恵み

①私たちはキリストによって義とされた

 私たちもこの苦難に対して、マッキム氏が取り上げた改革派神学の三つの強調点を心に思いめぐらしながら信仰生活を送ることが大切であると思います。私たちの経験している苦難は神とは全く無関係なく起こっているのではありません。神の救いの計画は私たちの経験している苦難を通しても必ず実現されていくからです。ところで、この苦難に対して、ローマの信徒への手紙を記したパウロは私たちに興味深いことを教えています。そしてパウロがそこで明らかにているのは信仰者の人生に起こる苦難についての信仰的理解です。このパウロの言葉がそのまま今年の私たちの教会の年間聖句となっているのです。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(3〜4節)。

 誰も悪いものを自分の誇りにする人はいないでしょう。ですからパウロが「苦難をも誇りとします」と言っているのは「苦難は私にとってすばらしいことだ」と言っていることになります。それではどうしてパウロは「苦難をも誇りとします」と言えたのでしょうか。そこには大きな理由があります。パウロはこのローマの信徒への手紙の中で、私たちがキリストを信じることによって神の前で義とされたことを教えています。神はご自身が義なる方ですから、義でないものを受け入れることはできません。ところが私たち人間は罪人であって、そのままでは決して神に受け入れらえることのできない「不義」な者たちなのです。だからキリストは私たちのために十字架にかかり、私たちの罪を贖い、私たちを義なる者としてくださったのです。つまりキリストが私たちを神に受け入れられることのできる者と変えてくださったのです。これがパウロの強調した「信仰義認」の教理です。


②義とされた者に与えられる神の祝福

 そしてパウロはこの5章に入ってキリストによって義と認められた者たちの人生に与えられる神からの祝福を二つ取り上げて語っています。その神からの祝福の第一は「神との平和」です。先ほどの改革派神学の三つの強調点では神が主権者であると言う教えが語られていました。しかし、どんなに神が主権を持っていても、その神と自分との関係が分からなければ、この教えは私たちを励ますものとはなりません。これだけでは運命論と全く同じになってしまうからです。すべては私に関係しないところで決められてしまっている…、それが運命論の正体です。しかし、「神との平和」はこの主権者である神と私たちのとの間の密接な関係を語るのです。だから、ここから先ほどの改革派神学の第二の強調点が生まれてくるのです。それは神がすべてのことを私たちの益のために用いてくださると言う教えです。だからこの「神との平和」を与えられた者は神が私たちを罰したり、滅ぼすために何かをすることはないと信じるのです。たとえそれが自分たちのとっては当面は悪いものに見えても、やがては私たちのための益となると言うことを信じることができるのです。

 さてパウロはその「神との平和」とともにキリストによって義とされた者に与えられる神の祝福をもう一つ上げています。それがここで取り上げられている「苦難」です。パウロによれ苦難もまた私たちのために神が与えてくださる祝福だと言えるのです。だからパウロはここで「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語っているのです。

 私たちは聖書が語る「忍耐」を世間でよく言われる「我慢」と同じものと勘違いしやすいのですが、それは違います。以前、植木の専門家の方に植物を育てる極意は「水をぎりぎりまで与えないこと」と言うことを聞いたことがあります。そうすると植物は自分の力で地中から自分に必要な養分を見つけ出すことができるからだと言うのです。聖書が語る忍耐とは私たちが苦難の中で神に真剣に助けを求める姿勢を語るのです。決して何もしないでじっと待つと言うことではないのです。そして次の「練達」は私たちの持っている信仰から余分なものが取り去られる過程だと言えます。なぜなら、私たちにはまだ神以外の本当は頼ることのできないものを頼ろうとする性格が残されているからです。「練達」とは私たちの信仰生活からその余計なものがなくなって、私たちが神にのみ信頼を置くことができるようになることを言います。この世は私たちに様々な希望を提供します。しかし、私たちを頼るべき神は私たちにこの世の提供する偽りの希望ではなく、本当の希望を与えてくださるのです。

 だからパウロは次の6節で「希望はわたしたちを欺くことがありません」と語っています。ここの部分は別の翻訳では「希望は私たちに恥をかかせることがない」となっているものがあります。偽りの希望を信じたために「はじをかく」と言うことが起こります。しかし、神に希望を置く者は決して「はじをかくことがありません」。なぜなら神は私たちを「欺くことがないからです」。このようにキリストによって義とされ、救われた者にとっては「苦難」も神から与えられた恵みであると言えるのです。私たちはこの苦難の中でも神が与えてくださる確かな希望を持って生きて行くことができるからです。


3.教会はキリストの体として福音を伝え続ける

 コロナウイルスによって引き起こされたパンデミックの危機の中で私たちがつくづく感じることができたことがあります。それは私たちが今まで当たり前のように思っていたものが決して当たり前のことではなかったということです。私たちは毎年、会員総会で今年一年の計画を立てます。そのとき私たちが参考にするのは、昨年や一昨年に行われてきた過去の教会の活動です。私たちはそれを参考にしながら、新たな計画を立てて行くのです。しかし、そのように私たちが計画を立てるのは「今年も、前の年と同じようなことができる」と言う確信があるからです。しかし、コロナウイルスはこの私たちの確信が誤っていたことを明らかにしたとも言えるのです。ですから私たちが今までできてきたことは当たり前のことではありません。神がそれをゆるし、それを実現することができるように助けてくださったからこそ、私たちの教会もこれまでの歩みを続けることができたのです。そしてコロナウイルスによって起こったパンデミックはこの信仰的な事実を私たちに気づかせるきっかけとなったと言えるのかも知れません。

 ところで私はこの説教を準備する中で改めてローマの信徒への手紙を解説する本を読みました。その中に竹森満佐一と言う有名な牧師が残した説教集があります。この竹森氏は改革派の神学に立ち宗教改革者カルヴァンの研究でも有名であり、その説教もカルヴァンの残したスタイルを踏襲するものだと言われています。竹森先生の語ったローマの信徒への手紙が文章として残されたきっかけがあることを、私は以前この本のあとがきかどこかで読んだ記憶があります。実はこの竹森先生が語った説教を教会の誰かが筆記して残したものが獄中にいる死刑囚の手に渡り、その獄中の死刑囚の生活を支えるものとなったことでこの説教集ができるようになったと言うのです。いつ自分の処刑が執行されるかもわからない死刑囚の生活は過酷で不安定です。ですからその獄中生活で精神に異常をきたす者も多いと聞きます。しかし、竹森先生が語ったローマの信徒への手紙のメッセージは獄中に持ち込まれ、死刑囚の心を支えることができたと言うのです。確かにローマの信徒への手紙は、私たちがよく知っているような世の希望や喜びを語るものではありません。この手紙は私たちのこの世の命が尽きてたとしても決してなくならない命を語っています。また、私たちの人生にたとえどのようなことが起こっても私たちが神の子として生きることのできる喜びを語っています。そして、私たちがたとえ苦難の中にあったとしても、決してなくなることのない希望を語っているのです。これはローマの信徒への手紙だけではなく、聖書全体が教える福音の真理であると言えます。ですからこのように聖書が語る福音はパンデミックの中でまるで死刑囚のように拘束され、制限されて生きなければならない私たちの生活に喜びと希望を与えるものであると言えるのです。

 教会はキリストの体としてこの地上に立てられています。そして今も生きて天におられるキリストはそこから聖霊を教会に送り、その教会を用いてご自身の働きをこの地上で継続されています。ですから教会に集められた私たちの使命はこのキリストの手足のとなって、キリストの御業をこの地上で行っていくことであると言えます。キリストは病に苦しむ人を癒し、重荷をもって苦しむ者を慰めました。その御業はキリストの体である私たちの教会を通してこれからも実現していくのです。

 「苦難の中でも希望に生きる教会」はこの苦難の中で神を信頼し、神に希望を置こうとする私たちの教会のことを語っています。そして私たちの教会は今まで確かだと思ってきたものがそうではないことに気づき始めた人々に、聖書が伝える確かな希望、キリストの福音を伝える使命を果たすために活動します。私たちの教会がこの使命を誠実に果たそうとするとき、神が私たちの活動を守り導いてくれることを信じて、新しい一年の活動にはじめて行きたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはローマの信徒への手紙5章3節で「苦難」についてどう思っていると語っていますか。パウロが「苦難」についてそう思える理由を考えて見ましょう。

2.パウロは苦難によって私たちの信仰生活にどのような変化が起こると語っていますか(4節)。

3.あなたは「忍耐」と言う言葉を聞くとどのようなことを思い浮かべますか。聖書の語る「忍耐」はあなたがいつも考えている「忍耐」と同じものですか。それとも違うものですか。

4.それでは「練達」によって私たちの信仰生活はどのなると言えますか。

5.どうしてパウロが語る「希望」は決して私たちを欺くことがないと言えるのでしょうか(4節)。

6.最後にパウロの記したコリントの信徒への手紙一12章9節の言葉を読んでみましょう。この言葉によってあなたはあなた自身に与えられている神のどのような恵みに気づくことができますか。

2021.1.31「苦難の中でも希望に生きる教会」