2021.10.10「種まきの譬え」 YouTube
マタイによる福音書13章1〜23節
1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
9 耳のある者は聞きなさい。」
10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに・でお話しになるのですか」。
11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13 だから、彼らには譬えで語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
1.イエスの話を聞くたくさんの人々
①効率の悪い農作業
今日はイエスの語られた「種まきの譬え」と言うお話から学びたいと思います。今日の聖書箇所の最初の部分ではこのお話がどのような場面でイエスによって語れたのかという説明が記されています。このときイエスの周りにはたくさんの人々が集まっていました。場所は聖書に何度も登場するガリラヤ湖の岸辺です。イエスはこのガリラヤ湖に浮かぶ舟の上から岸辺に集まる大群衆に向かってお話をされていたのです。ルカによる福音書5章には同じようにガリラヤ湖に浮か舟の上からイエスが岸辺に佇む人々にお話をされたことが記されています。このときイエスの乗られた舟がシモン・ペトロのものであったことが語られています。実はこれをきっかけにペトロはイエスから「あなたたちは人間をとる漁師になる」と言われて、弟子の一人に加えられていきます。おそらく、イエスはこのガリラヤ湖で舟を使って岸辺に集まるたくさんの人々に福音を語るということを繰り返していたのかもしれません。
イエスがこのとき語られたお話は畑で種を蒔く人のお話です。おそらく、ここで語られている種まきの情景は当時どこででも見ることができるものであったのだと思います。だからイエスはわざわざ誰もが知っているこの話を選んで、ご自身の語るたとえ話の材料にしたと考えることができるのです。ですからむしろ、今まで種まきのような農作業をしたことがない人、あるいは近代的な農作業の方法をよく知っている人にはこのお話はかえって分かりづらいものとなってしまう恐れがあります。
お話の中では種を蒔く人がまず、いろいろなところに種を蒔くことがから始まっています。実はこの方法自身がもう現在の農業のやり方とはだいぶ違っているのです。当時の人々はまず種を蒔き、その後で畑を耕すと言う方法を取っていたようです。しかしこの方法ではちゃんと芽を出して、実を結ぶまで成長できる種が生き残る確立はかなり低くなります。だからこそ、今日のたとえ話の内容が成立すると言えるのです。つまり、たくさん種を蒔いても、ちゃんと収穫できるように育つものは蒔かれた種の内のほんの一部と言うのが当時の農業では常識であったと言えるのです。
②どうして実を結ぶことができないのか
それではなぜ、イエスはこのようなたとえ話をここで語ったのでしょうか。実はこのときイエスの目の前では、このお話によく似た出来事が現実に起こっていたと言えるのです。イエスはこのとき多くの人に向かって神の国についての福音を語っていました。ですからたくさんの人がこのときイエスの口から出る同じ福音の言葉を聞いたのです。しかし、その言葉に真剣に耳を傾けて、イエスを信じ、イエスに従うことができた人はその群衆の中でもごくわずかな人々だけだったのです。
そこで問題となるのは「どうしてイエスの語られた言葉によってその人生を変えることができる人は少ないのか」と言うことです。この問いに対してまず、第一に考えられる答えは「イエスが語った福音には多くの人の心をつかむような魅力がない、力がなかった」と言う理由です。つまり、責任はそれを語ったイエスの側にあるのであって、それを聞いた人々の側にはないという説明です。しかし、イエスの語られたこのたとえ話の内容はこの理由に対して真向から反対しています。つまり、蒔かれた種は最初から実をつけることのできない不良品だった訳ではないのです。むしろ、この種はよい土地に落ちれば百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことができる力を持っています。それでは多くの人々にイエスの語られた福音が届かなかったのは、彼らがその人生を変えることができなかった理由はどこにあるのでしょうか。今日のイエスのたとえ話は私たちにその答えを教えます。問題は蒔かれた種にあるのではなく、その種が落ちた場所にあるのです。つまり、イエスのお話をその人がどのように聞いたのかと言うところでその種が実を結ぶか結ばないかと言う結果が分かれてしまうのです。
2.いろいろな聞き方
①道端に落ちた種
それでは多くの人々はどのようにイエスの語られた言葉を聞いたと言うのでしょうか。なぜ、彼らにはたくさんの実を結ぶことのできる種のように人を変える力を持ったイエスの言葉が、十分な効果を表すことができなかったのでしょうか。このたとえ話はそのことについて私たちに教えているのです。
まず「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」(4節)と語られています。そしてこの種についてイエスはこう説明しているのです。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」(19節)。これはイエスの話を確かに自分の耳で聞いたのですが、聞くだけで、実際によく考えて自分の人生に当てはめて考えようとはしなかった人々のことを語っています。聖書の言葉を教養の一つとして身につけようとする人たちがこの部類に入るのかも知れません。私は自分で使わなくなったものを売買することができるインターネットのサイトでたくさんの聖書が売りに出されているのを見かけます。その中の結構多くのものが「新品同様」とか「特に目立ったよごれがありません」などと説明されています。そして売りに出た理由として「学校で授業のために買わされたが、卒業していらなくなったから」と書かれているものが結構多いのです。私は伝道に用いるためにこのような人から破格の価格で聖書を譲ってもらうのですが、考えて見ればこんなにたくさんの人が聖書を読まないでそのまま手放してしまうことはとても残念なことだと言えるのです。
②石だらけの土地に落ちた種
さて、イエスは続けて語っています。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(5〜6節)。そしてこの種についてイエスは「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(20〜21節)と説明しています。
自動販売機にお金を入れて、自分の欲しい商品のボタンを押せばその通りの商品が出てきます。ある人たちは聖書が教える神をこの自動販売機のようなものと勘違いしているようです。神を信じれば自分の思い通りのことがすべて実現すると考えるのです。しかし、神は決して自動販売機のような方ではありません。だから時には、私たちが思ってもいなかったような艱難や迫害が私たちの人生に襲ってくることもあるのです。しかし、聖書はそれもまた私たちを愛してくださっている神の御業であり、私たちの信仰生活を成長させるために起こると教えています。この世の親子関係でも、子どもの言うことをすべて聞く親が子どもにとって本当にいい親ではあるとは言えません。しかし、そのことが分からない自分中心の考え方をする人たちは艱難や試練を経験すると、結局、神の言葉によって生きることはできなくなるのです。
③茨の間に落ちた種
さらにイエスは語ります。「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった」(8節)。
この種についてイエスは次のように説明しています。「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」(22節)。この場合、おそらくいばらは最初から大きかったのではなく、種がまかれていた時点では小さかったのかも知れません。だから種は芽を出し、少し成長することができました。しかし、種よりもいばらの方が成長するスピードが速かったために、その茨が種の成長をふさいでしまうことになります。
これは大量の情報が行きかう私たちの現代人がもっとも陥りやすい問題かも知れません。テレビや新聞、そしてインターネットを通して私たちに伝えられる情報は私たちに「世の思い煩いや富の誘惑」を与えて続けているからです。もちろん、私たちをこの思い煩いから解放し、富の誘惑から自由にさせることができるものは神の福音である聖書の言葉だと言えます。しかし、私たちの関心はいつも間にか「世の思い煩いや富の誘惑」でいっぱいになり、聖書の言葉に耳を傾ける余裕がなくなってしまうのです。私たちはこの一週間の生活でどれだけ聖書の言葉に耳を傾け、またその言葉に思いを巡らすことができたでしょうか。今、私たちの関心はいったいどこに向けられているのでしょうか。
3.聖書の言葉の力
さて、イエスは最後に「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(8節)と語ってくださいました。そしてそれを「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(23節)と言っています。
「よい土地に蒔かれた」種とは「み言葉を聞いて悟る人」だとイエスは教えています。聖書のみ言葉はそのような人の人生に豊かな実を結ばせると言うのです。旧約聖書の詩編はこのような人のことを「流れのほとりに植えられた木」にたとえています。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1編3節)と語っているからです。
しかし、この言葉を読んで神の言葉から豊かに実を結ぶことができるものは「賢いもの」、特別な才能を持ったものと考えるのは間違いであると言えます。なぜなら、パウロはコリントの信徒への手紙一でこう言っているからです。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(1章26〜27節)。パウロはここで私たちが能力ある者ではなく、無学な者だったからこそ神を信じることができたと語っています。なぜなら、私たちが神の言葉を信じて受け入れるこができたのは、自分の力でなく、神がそうしてくださったからです。
イエスもこのたとえ話を語ったところで弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(13章11節)と語り、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(13章16節)と語っているのです。つまり、このイエスの言葉からも私たちが神の言葉を聞くことができるのは神の恵みの御業であることが分かるのです。だから、私たちは誰も神を信じることができているからと言って、自分を誇ることはできません。むしろ、それをしてくださった神に感謝することが大切なのです。
4.このたとえ話から学べること
①み言葉の種を蒔き続ける
それでは私たちは今日のたとえ話から何を学ぶことができるのでしょうか。まず、大切なことは私たちに与えられているみ言葉は、私たちの人生に百倍、六十倍、三十倍の実をもたらすことのできる力を持っていると言う事実です。神の言葉は人間の作り出す力のない空虚な言葉ではありません。だから、私たちはみ言葉の種が結ぶ実りの時を待ちながら聖書の言葉を自分自身に、そして私たちの兄弟姉妹たちの心に蒔き続ける必要があるのです。「いつまでも自分の思ったような効果が表れないから」と言って、み言葉を読むことやめてしまったり、その言葉を人に伝えることはやめてしまってはいけなにのです。蒔かれた神の言葉が実を結ぶときは必ずやって来ます。私たちはそのときのために、今日もみ言葉の種を蒔き続けることが大切なのです。
②よい地に変えてくださる神を信じる
また、このたとえ話は主イエスから伝道の使命をいただいている私たちに特に大きな意味を与えてくれます。私たちは今、非常に困難な状況の中で伝道の活動を続けています。もちろんいつの時代でも伝道が簡単であったと言うときはなかったかも知れません。しかし、この困難な状況の中で、私たちはその責任を自分自身に転嫁して、自分には能力がないと考えて、絶望する必要はありません。なぜなら、み言葉が多くの人に伝わらなかったのは彼らの聞く姿勢に問題があったとイエスは教えているからです。
しかし、だからこそ私たちはここで今日のたとえ話の内容をよく理解すべきです。なぜなら私たちもかつては「道端に落ちた種」、「石だらけの場所に落ちた種」、また「茨の中に落ちた種」であった者たちだったからです。私たちは元々、み言葉を聞くこともそれを受け入れる能力を持っていなかった者たちなのです。しかし、主イエスはその私たちに救いの御手を指し伸ばし、私たちの心に聖霊を送ってくださり、私たちをみ言葉を悟ることができる者としてくださったのです。このように神の御業は悪い土地であった私たちを「よい土地」に変えてくださることができたのです。だからこそ、私たちは今、多くの人がみ言葉に耳を傾けることができなくても、そこで希望を捨てることはありません。なぜなら神はこれからも悪い土地を「よい土地」に変えることができる方だからです。だからこそ、私たちはみ言葉の種、聖書の言葉を自分自身に、そして多くの人々にこれからもあきらめることなく蒔き続ける必要があるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスはこの「種を蒔く人のたとえ」をいつ、どんなところで、誰に向かって語られましたか(1〜2節)。
2.蒔かれた種はそれぞれどんな場所に落ちましたか。その結果、それらの種はどうなりましたか(3〜8節)。
3.イエスは群衆にたとえ話を用いて話される理由を弟子たちにどのように説明されていますか(10〜15節)。
4.多くの預言者たちが見ることができなかったのに、弟子たちが今、見ることができているものとは何だと思いますか(16〜17節)。
5.み言葉を聞いても、豊かに実を結ぶことができなかった人の持っていた問題はなんですか(18〜23節)。