2021.10.24「命の川の流れ」 YouTube
ヨハネの黙示録22章1〜5節
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
1.人生の下り坂をどう考えるか
私はテレビで放送されている俳優の火野正平さんが自転車に乗って全国を旅する「日本縦断こころ旅」と言う番組を見るのが好きです。視聴者の思い出にまつわる場所に火野さんが代わりに自転車に乗って赴く旅が毎回放送されています。そんな旅の中で私は火野さんがときどき自転車に乗り下り坂を下りながら「人生、下り坂最高!」と叫ぶシーンがあります。自転車に乗って旅をする火野さんが下り坂をペダルも踏むことなく全速力で風を切りながら下っていくとき、火野さんはよくこの言葉を語ります。
私はこの言葉を聞きながら、自転車の旅ではなくて、自分の人生の旅で「人生、下り坂最高!」と言えたらどんなに素晴らしいだろうと思うことがあります。私たちは自分の人生である年齢に達すると誰もが「どうやら自分の人生も下り坂に入ったようだ…」と感じることがあるのではないでしょうか。特に老年期に入って様々な肉体の衰えを感じるときに私たちはそれを自覚します。しかし、そんなときに「人生、下り坂最高!」とは簡単に言うことができないのが私たちの人生でもあると言えます。むしろ、私たちは自分の人生の下り坂を意識するとき「これからどうなってしまうのだろうか」と不安を感じることが多いのではないでしょうか。
火野さんがこんな風に気持ちよく叫べるのは、その坂道に至るまで険しい登り道を自転車のペダルを踏んで懸命に上って来たからだと思います。その努力があったからこそ、坂道を下る喜びが生まれるのだと思います。そのような意味で自分の人生で険しし山を登り終えたと言う実感を持つことができる人は、その山から下るときにも満足を覚えながら進むことができるのかも知れません。しかし、その実感をつかめないまま、自分の人生は失敗の連続だったと感じている場合には、これからも自分の人生は同じような失敗が続くのではないかと思って、不安感を抱かざるを得なくなるのです。
また、私たちの人生では下り道を下ることはそれ自体が目的ではないことも忘れてはならないと思います。この下り道の最後は死しか待っていないと感じるなら、残された地上の生涯には希望がないとしか言えません。しかし、聖書は私たちにそのように自分の人生を見ることが間違いであることを教えています。そして聖書は何よりも私たちの人生を正しく理解するために私たちの救い主イエス・キリストとの関係からその人生を見るようにと勧めているのです。
ヨハネの黙示録は終末論、終わりの出来事を取り上げ、私たちに教える書物であると言えます。しかしこの書物を読む私たちにとって終わりがいつ、どのような形でやって来るのかを考えることはあまり重要なことではありません。むしろ、そのような心配はすべて私たちの主イエスにお任せすることが大切であると言えます。私たちがこの黙示録から学ぶ必要があるのは、この世の終わりが、また私たちの人生の終わりが、私たちの人生にとってどのような意味があるのかと言うことを知ることだと言えるのです。なぜなら、私たちはその意味を知るときにたとえ自分が人生の下り坂を行くことになっても不安に支配されることなく、希望を持って生きていくことができるようになるからです。
2.永遠の命が本当に祝福となるために
①神と羊の玉座
今日のヨハネの黙示録の箇所では世の終わりによって実現する新天新地の姿が記されています。そして特に、この記事から分かって来るのはそのとき私たちと神との関係、イエス・キリストとの関係がどうなるのかと言うことです。そしてその関係から私たちに新天新地で与えられる祝福がどのようなものであるかも分かって来るのです。
「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。」(1節)。
天の玉座に座る方は神お一人しかおられません。しかし、黙示録はその玉座に座る方を「神と子羊」と言う二つの名前を併記して紹介しています。黙示録は小羊であるキリストが「神の御子」としてこの玉座に座るにふさわしい方であることを表すとともに、この真の神と私たち人間との関係を語る際に、イエス・キリストの存在が絶対に必要であることをここで教えています。
かつて、「死んだらこうなる…」と自分がその世界をあたかも見て来たかのように語った俳優がいました。そしてその俳優の語ったことが映画にまで描かれたりもしたのです。終わりの出来事について人が様々な想像を膨らませることは自由なことです。しかし、それはあくまでも人間の考え出した想像の産物でしかなく、決して私たちが信じるに足る内容ではありません。
聖書は私たちに終わりの出来事を語る際にその出来事に対する私たちの関心に比べるとわずかなことしか語っていないことが分かります。しかし、聖書が私たちにはっきり教えていることは、たとえ私たちの世界がそして私たちの人生が終わったとしても、私たちと私たちを愛し、私たちのために命まで捨ててくださったイエス・キリストと私たちとの関係は変わらないと言うことです。
ですから私たちが新天新地で受ける新しい命においても、このイエス・キリストと関係がまず語られているのです。なぜなら、黙示録が語るようにこのイエス・キリストが座る玉座から流れ出た命の水の川が、私たちの新しい命の源となるからです。
②命の木の実
「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」(2節)
この命の水の川は新しいエルサレム、栄光の教会の真ん中を流れ、その両岸には命の木が植えられていると語られています。皆さんの中にはこの「命の木」と言う言葉を聞いて、「どこかで聞いたことがある」と感じた方もおられるかも知れません。実はこの「命の木」は旧約聖書の創世記の天地創造の物語の中ですでに登場しています。命の木の存在はこの物語で人間が悪魔の誘惑を受け、エデンの園から追放される際に語られています。その際、創世記は命の木について次のように私たちに教えているのです。
「主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章22〜24節)
エデンの園の中央には皆さんもご存知のように神からその実をとって食べてはいけないと言われた木(善悪の知識を知る木)がありました。最初の人間はこの木以外の木の実から自由に食べることが許されていました。つまり、最初の人間はこのエデンの園にあった命の木の食べることができたのです。しかし、罪を犯した後に人間はこの命の木の実を食べることを神から禁じられます。その理由を語る神の言葉から考えると、罪を犯した人間がその木の実を食べて永遠の命を得たとしても、それは決してその人間にとって祝福とはならず、むしろ呪いとなる可能性があるからです。だから神は人間がこの命の木から実を取って食べることができないようにされたのです。
人間はその歴史を通じて自分たちの能力でこの命の木の実を作り出し、永遠の命を得ようと考えて来ました。現代の科学は永遠の命を獲得することはできませんが、人間の寿命をわずかでも長くすることを追求し続けています。しかし、人間の科学がもたらす延命は、私たちに本当に祝福を与えているのかと言えば、そうではないと言えるような気がします。
アメリカのディズニーが作った娯楽映画の中にパイレーツオブカリビアンと言う有名な作品があります。海賊ジャック・スパロウが活躍する冒険映画です。この映画は何本も続編が作られて来たのですが、その作品の中に「命の泉」と言う物語があります。永遠の命を受けることができると言う命の泉を登場人物たちは探し求めて行く物語です。この映画の最後のシーンで多分、スペインの王子だと思いますが見つけ出された命の泉を兵士たちに命じて破壊しようとするところがあります。そのときその王子は「永遠の命は信仰によってのみ与えられるものだ」というようなセリフを語っていたと思います。この王子の行動は映画の中では狂信的な人間の行動のように描かれていますが、私はこのセリフを聞いたときには思わず「アーメン」と心の中に答えてしまいました。なぜなら、魔術や科学の力を使って人間が永遠の命を手に入れても、それが私たちにとって祝福とはなるとは考えられないと思ったからです。
命の木の実を食べることが私たちにとって本当の祝福となるためには、まず最初の人間によって壊されてしまった私たちと神との関係が回復されなければならないのです。救い主イエスはこの人間が壊してしまった関係をその御業によって回復してくださったのです。だから、このイエス・キリストによって実現した新天新地において私たちは命の木の実を食べることができるようなるのです。ここでは私たちに与えられる永遠の命が私たちにとって本当の祝福となることができるからです
3.神の僕たちの統治
黙示録の解説書を読んでいて、この部分に登場する言葉に次のような疑問が出ていることを知りました。それはこの2節で「そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」と言われているところがあるからです。すでに新手新地が現れたときに黙示録は「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21章3〜4節)と語っています。また、今日の箇所でも続けて「もはや、呪われるものは何一つない」(3節)と語られています。
聖書は人間の死や病を人間にとって当たり前のこととして教えていません。むしろ死や病は人間が罪を犯して神から離れてしまうことによって起こった呪いの結果であると言うのです。ですから、新天新地で神との関係が回復されたとき人間はこのすべての呪いから解き放たれて、死や病からも解放されるのです。ところがここではこの新天新地に生きる者が命の水の川のほとりに立つ命の木の実を食べることで「病が癒される」と言われています。ですから聖書学者たちはここに登場する「病」とは何かということを問題にしているのです。呪いから解放された人間が、その上で癒されるべき病とは何なのかと言うのです。
私はこういう疑問はへそ曲りの考える難癖のように思えてなりません。だから素直に聖書の言葉を信じる人は聖書学者にはなれないのかも知れません。ただ私がこの議論を読んで考えたことは、私たちにとっての「救い」の目的とは何かということです。おそらく、多くの人は人間を苦しめている様々な問題、たとえば死や病、貧困や争いなどから私たちが解放されることが「救い」と考えているのではないでしょうか。しかし、聖書の語る救いは私たちの抱える問題が解決することで終わるとは言っていないのです。むしろ聖書が教える救いとは神に造られた人間が新天新地で本当の人生を生きること、神の創造された世界の中で、人間に新しい使命が与えられて、その使命に携わることで生きている価値を誰もが味わうことができるようになることを言っているのです。
今日の箇所の最後では次のような言葉が語られています。
「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(5節)。
新しい世界では夜がありません。主なる神が私たちの人生をその光で照らし出してくださるからです。だから私たちはもはや闇を恐れて生きる必要はありません。そして、私たちは主なる神の照らして下さる光の中で「世々限りなく統治する」者とされると語られています。新天新地での私たちの存在はそこで何もしないで、ただ生きていると言うものではありません。そこでは私たち一人一人に神からふさわしい使命が与えられて、誰もが自分の人生の価値を十分に理解し、喜びを持って生きることができるようになるのです。
黙示録はこのような祝福が私たちの人生の行く手で待っていることを私たちに教えています。またこの新天新地の祝福を考えるときに、私たちが今、神から使命を与えられ、信仰を通して神の光に照らされて生きる信仰生活を送ることができることが祝福であることが分かります。なぜなら、私たちはこの信仰生活でやがて与えられる新天新地の祝福の一部をすでに地上の人生で味わうことが許されていると言えるからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ヨハネは天使によって見せられたまぼろしはどのようなものでしたか(1節)。
2.都の大通りを流れる川はどのようなものでしたか。またその川の両岸には何がありましたか。人々はそれによってどのような祝福を受けることができましたか(2節)。
3.神を礼拝する者たちの額にはどのような名が記されていましたか(4節)。
4.この新天新地において太陽や火の光がいらない理由はどこにありました(5節)。
5.神が私たちの人生をみ言葉の光で照らしてくださり、私たちの人生に大切な使命を与えてくださることは私たちの人生にどのような祝福だと言えますか。