2021.10.31「神を礼拝せよ」 YouTube
ヨハネの黙示録22章6〜15節(新P.479)
6 そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。
7 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」
10 また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
11 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
14 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
1.神から伝えられた預言の言葉
①他人の説教を自分の説教として語れるか?
いよいよこの礼拝での黙示録の学びも今日と次回で最後となります。今まで牧師をしていて「せめて一度はこの黙示録を礼拝の説教で取り上げたい」と考え、もうだいぶ前から参考書などを集めて準備してきました。今回、このような形で黙示録の説教を続けることができたことを心より感謝しています。
今まで学んで来てお分かりのように、この黙示録は新約聖書の他の書物と性質が大きく違っています。そのため、かなり慣れた説教者であったとしても、この書物から神のメッセージを伝えることは難しいと言えるかも知れません。その点で私が参考にしたのは他の説教者たちがこの黙示録をどのように説教で語っているのかを伝える説教集でした。私は特にこの黙示録の説教では鎌倉雪の下教会で牧師をされていた加藤常昭先生の本を参考にしました。もちろん、私は加藤先生の本を読んでそのメッセージをそのままで皆さんに伝えた訳ではありません。他人が語った説教というのはどれもそうですが、その語った人の人格なり経験、あるいはその人の信仰が背景に隠されています。ですから別の人間にはその人が語った通りにメッセージを語ることができないのです。
私の知人は教会の礼拝で加藤先生の説教集の言葉をそのまま語ったと言うことで問題になり牧師を辞めざるを得ませんでした。もっとも、彼の場合はそれが一度や二度の説教ではなく、恒常的に、しかも説教集に書かれていた通りに自分の説教として語ったというのですから深刻でした。私はその問題を後で聞いて「他人の説教をその通りに語ることができることはある意味で大変な才能だな」と感心してしまいました。そしてむしろ、彼は正直に「ここでは加藤先生の説教をご紹介します」と語れば、問題にはならなかったのではなかと私には思えたのです。
②預言者たちの霊感の神
実は私も加藤先生の説教集から学んだことですが、今日の箇所でヨハネは「この黙示録のメッセージは私ヨハネが神から受け取り、皆さんに語るものです」と説明しているところがあります。それは8節の言葉の中にあります。
「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。」
ヨハネはこう語っていますが、私たちが黙示録をここまで学んで来て分かったことは、ヨハネはかなりの多くの点で旧約聖書の内容に影響されていて、旧約聖書の預言者たちの文章をこの黙示録の中で引用していると言うことです。たとえばヨハネは旧約聖書のエゼキエル書の表現をそのまま借りてこの黙示録を記しているところがいくつもあります。それなのにヨハネは「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである」と言っているのはどうしてなのでしょうか。ヨハネは他人の文章を無断で借りておきながら、あたかも自分がそれを見たかのように語っているのでしょうか。つまりヨハネは盗作をしてこの黙示録を書いたのでしょうか。私たちはそのことを理解するために「霊感」と言う言葉の意味を知る必要があると言えます。今日の箇所の部分でも次のような天使の語った言葉が記されています。
「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。」(6節)
ここに預言者と言う言葉が記されています。「預言者」とは世間でもてはやされる「予言者」という種類の人たちではありません。多くの人々は黙示録を記したヨハネを将来起こるできごとを予言した「予言者」と考えているかも知れません。しかし、ヨハネは神からメッセージを預かった「預言者」であって、世間が考えるような「予言者」ではありません。それでは神はどのようにして預言者たちにご自身のメッセージを伝えたと言うのでしょうか。そこで重要なのは「預言者たちの霊感の神」と言う表現です。この霊感と言う言葉に関連して使徒パウロはテモテへの手紙二で次のような言葉を使って説明しています。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(3章16節)
この文章は聖書が私たちの人生を導くことのできる信頼できる書物であることを私たちに教えています。ここで「聖書は神の霊の導きの下に書かれた」と語られています。これが「霊感の神」の働きの意味であると言えます。聖書の著者は神ご自身であり、聖書の言葉は聖霊なる神が預言者たちに働いて神のメッセージを書かせたものなのです。これは黙示録の場合も同じです。黙示録はヨハネが見た幻を記したと言う形式を持っていますが、その際、神はこのヨハネの全人格をも用いています。つまり彼の知識や経験などすべてを使ってこの黙示録を記させたのです。つまり、ヨハネは旧約聖書の言葉を勝手に盗用したのではなく、神が旧約聖書の預言者の言葉を使って書くようにヨハネを導いたのです。もちろん、旧約聖書の預言者たちのメッセージのすべてももとは神から与えられたものですから、どの言葉も神の言葉として私たちは信じることができるものと言えるのです。
2.なぜ預言の言葉を守る者たちは幸いなのか
①預言の言葉を守って生きるものへの「ご利益」
このように黙示録のメッセージは神がヨハネを使って私たちに与えられたものです。だからこそ、この言葉は人間の作り出した他の言葉とは違う性格を持っています。私たちはそのことを自分の信仰生活の中で覚える必要があります。なぜなら黙示録はその神からのメッセージを信じることについて次のように私たちに教えているからです。
「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」(7節)
ここでは黙示録の言葉を信じて、その言葉を生活の中で守るものは「幸いである」と語られています。ここにはこの黙示録の言葉がどような「ご利益」を私たちの信仰生活に与えてくれるかが語られていると言えます。
それではなぜ黙示録の預言の言葉を守る者は幸いなのでしょうか。第一にこの黙示録の言葉を知れば私たちはこれから、どのように自分は生きればよいのかが分かるようになります。私たちの人生は目的地の分からない旅ではありません。なぜなら、黙示録はその人生の最終的な目的地を私たちに教えているからです。この旅の目的地を知るものは、どこをどのように行けばその目的地に着けるのかを考えるようになります。そこでさらにこの黙示録は私たちにその人生の目的地に私たちが迷うことなく進むためには、どこをどのように行ったらよいについても教えてくれる書物と言えるのです。だから、この黙示録の言葉を守るものは神の新天新地の祝福を目指して自分の人生の歩み進めて行くことができるのです。これはどんなに私たちにとって幸いなことでしょう。
さらに第二に、この「幸い」はもっと別の角度からも理解できます。なぜなら、そもそもこの黙示録言葉を私たちが神の言葉として、神からの誤りなき真理の言葉として信じることができると言うこと自体が私たちにとって祝福であると言えるからです。実際にこの黙示録の言葉を読んで、その言葉を受け入れて従うことのできる人は必ずしも多くではないのです。それではなぜ、私たちはこの言葉を信じることができたのでしょうか。それは私たちが神からの働きかけを受けたからです。人は自分がどんなに豊かな知識を持っていても、それだけでは神の言葉を信じることはできません。むしろかえって、その豊かな知識が信じるために邪魔をすることもあります。ですから私たちが神の言葉を信じることができるのは、聖霊なる神が私たちの心に直接働いてくださるからなのです。つまり、「この黙示録の言葉を守って生きたい」と思う人はすでに聖霊なる神の働きを体験することができた幸いな人であると言えるのです。
②信仰は悟りではない
その上でもう一つ、この黙示録の言葉がもたらす幸いについて考えてみる必要があります。それはこの黙示録を守る人の人生に神が介入して働いてくださると言うことです。すでに学びましたようにこの黙示録を最初に受け取った人々はローマ帝国の激しい迫害の中で信仰を持ち続ける戦いを続けていました。その戦いの中で命を失う者は決して少なくなかったのです。その彼らが最後まで信仰を持ち続けることができたのはなぜでしょうか。彼らが人一倍勇敢であったからでしょうか。それとも彼らは人よりも並外れた才能のようなものを持っていたからでしょうか。そうではありません。彼らもまた私たちと同じ弱い人間であり、誤りのある人間だったのです。しかし、神はその人たちを人生に介入してくださり、助けを与えてくださったのです。つまり、彼らが殉教者となったのは神の助けがあったからだと言えるのです。
少し前に突然、私は電話である方から相談を受けました。電話の相手は私のことを知っているようなのですが、私はその方がどこのだれかを最後まで知ることができませんでした。その方は最近家庭で起こった厳しい試練をどのように受け止めたらよいのかを悩んでおられました。お話を聞いていてその方が教会の役員として働いていることが分かりました。役員として教会の人たちに「信仰があれば神様が守ってくださるから大丈夫」と言うようなことを今まで語って来たのに、今は自分自身がそのような確信を持てないと語っておられたからです。私はその方から「神様は本当に試練に会う人に逃れの道を準備してくださるのでしょうか」と尋ねられて、どう答えてよいのか悩みました。私は結局「聖書にはそのように書いてありますね…」としか答えることができなかったのです。
私たちの信仰は「一度、悟ったら、それから人生に何が起こっても大丈夫」と言うものではないと言えます。私たちは信仰を持った後も相変わらず、この世では弱い人間であり、迷い続けて生きているような存在なのです。つまり、信仰者であっても激しい試練に会えば、どうしてよいのかわからなくなってしまうのが私たちはなのです。しかし、そんな私たちが聖書の言葉を信じるときに、神は私たちの人生に働いてくださり助けを与えてくださるのです。
黙示録の読者たちもその最後まで、「自分は本当に信仰を守り続けることができるのだろうか」と迷うような人たちであったに違いありません。だから神は彼らに黙示録の言葉を与えてくださったのです。そしてその彼らを神が助けてくださったのです。なぜなら、神の言葉を信じ、それを守る者には神が豊かに働いてくださるのです。だから預言の言葉を守る者は幸いであると言われていると言えるのです。
3.神を礼拝せよ
この箇所の中でヨハネは自分に神の言葉を伝えた天使を礼拝しようとして、それをその天使にとがめられて改めて「神を礼拝しなさい」と教えられているところがあります(9節)。なぜなら、天使は「自分もあなたたちと同じく神に仕える者でしかないからだ」と語ったからです。紀元4世紀ごろにキリスト教会で起こった事件で「ドナティスト論争」と言う出来事があります。当時、ローマの厳しい迫害が教会に向けられていて、その中で残念ながら信仰を捨てて、教会から離れて行く人々も現れました。このような中で「ドナトゥス派」と呼ばれる人々は信仰を捨てた人がかつて教会で行った儀式は無効であると主張したのです。
これはたとえばこの教会で私が洗礼式の司式をして洗礼を授けた人がいるとします。ところその後になって、私がキリスト教信仰を捨てて無神論者になってしまうと言うことが起こります。すると、かつて私からこの教会で洗礼を受けた人たちは、その洗礼の効力は無効になってしまい、彼らはもう一度、新たに洗礼を受けなおす必要があると考えるのです。「ドナトゥス派」はこのような主張をした人たちなのです。この「ドナティスト論争」に対して当時の教会はたとえ人が誰から洗礼を受けたとしても、その洗礼が正しい教会の手続きを経ていれば有効であって、洗礼を受けなおす必要はないと判断したのです。
「ドナトゥス派」の誤りは、洗礼の効力はそれを司式した人の信仰に基づくと考えたところにあります。しかし、教会は洗礼の根拠は人にではなく、神に基づくものであると考えたのです。この論争の原因も「神ではなく、神に仕える人」に信頼を寄せること、神に仕える者を礼拝しようとする考えから生まれたと言うことができます。
神の言葉の権威はその言葉を語る者の信仰に左右されるのでは決してありません。私たち人間はこの地上では「悟った人」には決してなりえません。だから私たちにはいつも神の助けが必要なのです。私は説教者として自分が「悟りを得たから、あなたたちも同じようにしなさい」と神の言葉を語っているのではありません。聖書の言葉はそれを伝える人の信仰に基づくのではなく、その聖書の言葉を信じて守る者に神が助けを与えてくださるからこそ素晴らしいのです。ですから私たちは人ではなく神を礼拝し、その神の言葉を守って生きる必要があります。ヨハネの記したこの黙示録の言葉を信じる者は、この地上の生活で神の助けを受けて生きることができます。だからこの言葉を守るものは幸いであると言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.天使はこれまでヨハネが記した黙示録の内容について何と語っていますか(6〜7節)。
2.この天使からこのメッセージを聞いたヨハネは、そこで何をしようとしました(8節)。このヨハネに対して天使はどんなことを語りましたか(9節)。
3.この書物に記された預言の言葉を秘密にしてはいけない理由について天使はどんなことを語りましたか(10〜11節)。
4.私たちに対して「見よ、わたしはすぐに来る」と言われる再臨のイエスはそのとき私たちに対して何をしてくださると約束してくださいましたか(12〜13節)
5.そのイエスは「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように」、私たちに何をしなさいと教えていますか(14節)