1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2021
  4. 11月21日「イエスの王国」

2021.11.21「イエスの王国」 YouTube

ヨハネによる福音書18章33~37節(新P.205)

33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


1.イエスは王

①ピラトの問い

 しばらくこの礼拝で続けて来たヨハネの黙示録の学びが終わりました。そこで、今回からは世界の教会が使っている教会暦、教会のカレンダーに従って、イエス・キリストの生涯とその教えを福音書の記事を読みながら学んで行きたいと思います。実はこの教会暦というのは普通のカレンダーのように1月から始まるものではなく、クリスマスを準備する待降節から新しい一年が始められるようになっています。今年は次週から待降節に入りますので、今日は教会暦で言えば一年の最後の主日となります。教会暦はこの日にヨハネによる福音書の記す物語からイエス・キリストが真の王であると言うことを考えるようにと私たちを促しています。

 現在の日本は民主主義国家ですから「王」と言う言葉を聞いてもあまり私たちとしては身近に思えないかも知れません。ただ、韓国の報道機関のニュースなどを読んでいると日本の天皇を「日王」と記しているのを目にすることがあります。おそらく日本の社会以外では天皇は日本の王として紹介されているのかも知れません。ただ、日本国憲法ではその天皇の地位も国民の総意に基づくと記されていますから、厳密な意味で「王」と呼ぶことはできないような気がします。なぜなら、聖書の中で「王」と呼ばれている人物はその国の最高権力者を意味しており、この王の意志がその国を動かして行くと考えられているからです。

 今日の聖書ではローマの役人であった総督ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」とイエスに問う場面から始まっています。最も、このピラトの言葉は正確には問いと言うよりは彼のこのときの気持ちを表していると言えるかも知れません。なぜなら、このピラトのこの言葉は「お前がユダヤ人の王なのか。ちかうだろう…」と言うニュアンスで聞こえて来るからです。今、ピラトの前に立たされているイエスには「王」にふさわしい条件を何も持っていないとピラトには思えたからです。彼はローマの最高権力者であるローマ皇帝よく知っていました。そのローマ帝国の皇帝の姿に比べて、このイエスは何の権威も持たない、ただの人間にしか思えなかったのです。


②ユダヤ独立運動の指導者

 ピラトがここで「ユダヤ人の王」と語っています。かつてアレキサンダー大王の後継者によって作られたセレウコス王朝がユダヤの国を支配していた時代にユダヤ人が反旗を翻して独立戦争が起こしたことがありました。「ユダヤ人の王」と言う言葉はこの独立戦争の時代に使われた言葉だと言われています。つまり、この「ユダヤ人の王」と言う名称は、ユダヤ独立戦争を導くリーダーにつけられるべき名称だったのです。ピラトがイエスに持っていた関心もこのことに繋がっています。なぜなら、イエスをピラトの法廷に訴え出たユダヤ人の指導者たちはイエスをローマ帝国の支配を覆そうとする反乱分子として告発していたからです。ところが実はイエスを訴えたユダヤ人でさえ、イエスを「ユダヤ人の王」とは考えていませんでした。なぜなら、彼らが問題にしたイエスの罪は「神を冒涜した」と言うものだったからです。しかし、彼らはイエスをローマの法廷に立たせ、そこで死刑判決を受けさせるために「イエスは自分をユダヤ人の王と言っている」と言う勝手な罪状をでっち上げたのです。

 今日のこの物語で明らかになることはイエスが真の王であるという真実です。しかもそのイエスは「ユダヤ人の王」ではなく、この世界と宇宙すべてを支配する真の王であると言われているのです。


2.イエスの王国の根拠

 この質問をイエスに投げかけたピラトはイエスが自分の前に連れてこられた事情をよく知っていたと思います。つまり、イエ スはユダヤ人たちの内輪での争いの当事者の一人としてここに連れた来られことをです。イエスがローマ帝国に反旗を翻す独立運動の指導者などと言うことをピラトは信じることができませんでした。むしろ、彼は自分がユダヤ人同士の争いに巻き込まれたくないと考え、イエスに質問をしたと考えることができます。ですから、もしイエスが「自分はユダヤ人の王などではない」とはっきりと言ってくれれば、「この問題はユダヤ人同士で解決するように」とイエスをユダヤ人たちの元に送り返すつもりでいたのです。しかし、イエスの答えはピラトの期待したようなものではありませんでした。

「わたしの国は、この世には属していない」(36節)。

 イエスはこの自分の発言を証明するように続けて「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」とも語ります。彼がもし、ユダヤ独立運動の指導者であったとしたら、今頃、彼をリーダーと仰ぐ人々がここに押し寄せて来て、イエスを奪おうとしたはずです。しかし実際にはそのような人は誰もいなかったのです。今までイエスに従って来たはずの弟子たちも「自分たちも逮捕されては大変」と逃亡してしまっていたからです。

 ここでイエスが語った「わたしの国は、この世には属していない」と言う言葉を新しく出版された聖書協会共同訳では「わたしの国は、この世のものではない」と訳しています。世界の歴史の中では今まで様々な国が誕生し、また消えて行きました。これらの国を生み出したものは人間の力であると言ってよいと思います。強大な力を獲得した権力者が弱体化した古い国やその権力者を力によって滅ぼして新しい国を作るからです。しかし、イエスの国はこのような方法で実現する国ではありません。それではイエスの国はどのように実現するのでしょうか。その実現過程を福音書はここで私たちに教えています。それは真の王であるイエスが逮捕され、裁きを受けて十字架につけられ、殺されて行く過程です。イエスの十字架は偶発的な出来事ではありません。イエスの十字架はイエスの国を実現させるために神の計画に従って起こった大切な出来事であると言えるからです。


3.イエスの王国の国民

 それではイエスが十字架の死を通して実現させた「国」とは一体どのようなものなのでしょうか。また、どのような国にもそこに住む国民が存在します。国民のいない国は国ではないからです。それではこのイエスの国の国民とは一体誰なのでしょうか。

 まず、イエスの国とは何かということを考えるときに大切なのは、聖書の中に何度も語られている「神の国」と言う言葉です。なぜなら、福音書はイエスがこの「神の国」を実現させるために神の元から遣わされた救い主であることを語っているからです。もちろん、聖書はこの世界が神によって造られたことを最初から語っていますから、元々この世界すべてが神に属する「神の国」であると言ってよいのかも知れません。しかし、ここで問題なのは私たちがこの「神の国」の国民となる資格です。

 現在、世界の国の多くは「出生地主義」と言ってその子供が生まれた場所が国籍を取得するために大切な条件となっています。アメリカでは、その子供の親がどこの国の出身の人であっても、アメリカで生まれたならアメリカ国籍を取得する権利を持っています。ところが日本のように戸籍制度がある国ではこの条件は違って来ます。つまり、日本はその子供がどこの国で生まれたとしてもその子供の両親が日本人であれば日本国籍を得る権利があるのです。それでは、私たちが神の国の国籍を得るためにはどうしたらよいのでしょうか。ここで大切になるのが私たちの罪が赦されて神の子となると言う条件です。

 聖書は私たち人間がそのままではこの神の国の住人になることができないと教えます。なぜなら、私たちの持っている罪が問題となるからです。そこで大切になるのがイエスの十字架です。なぜなら、聖書はイエスの十字架によってのみ私たちの罪が赦され、私たちが神の子となることができると教えているからです。だから、使徒パウロはイエス・キリストによって救われた自分たちについて「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と大胆に告白しているのです。

 東川口教会の墓地があるラザロ霊園の敷地内にある私の母教会の墓石には、私たちの教会の講壇の後ろにかかっている掛け軸の字と同じ人が書いた「私たちの国籍は天にある」(口語訳)と言う文字が刻まれています。つまり、私たちの地上の死と言う出来事は、私たちが本当の国籍がある場所に呼び戻されることなのだと言う意味を示しているのです。イエスを救い主して信じる私たちにはすでにこのイエスの国、「神の国」の国籍が与えられているのです。そしてイエスの十字架の死は私たちをこの「神の国」の国民とするために行われた神の御業であると言えるのです。


4.真理に属するために

 さてこのイエスの言葉を聞いた総督ピラトは再び、イエスに「それでは、やはり王なのか」と問い返しています。確かにイエスは私たちのために「神の国」を実現させるためにやって来た救い主、まことの王と言うことができます。しかし、ピラトはこのことが理解できません。なぜなら、ピラトは世の常識の範囲でのみ、「王」とは誰か、またその王国とはどのようなものかと言うことを考えているからです。この常識から言えば、無力な姿で自分の前に立つイエスを「王」と考えることはできません。自分のために戦ってくれる手下が一人もいない人物によって「王国」が実現するとは考えられないのです。だから、イエスはそのようなピラトにイエスの王国は世の常識ではなく、真理に従わなければ理解できないことを語ります。

「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(37節)

 古代より哲学者たちは「誰もが認める確かな真理とは何か」ということを問い、その答えを求めて来ました。また、その哲学者 の中でも異色と呼べるドイツのフリードリッヒ・ニーチェは「真理は力だ」と語りました。なぜなら、人間の歴史の中でいつの時代にも力を持つ権力者たちの語る論理がその時代の「真理」とされ、逆に力のない者たちの語る言葉はすべて退けられてきたと考えられるからです。

 しかし、ここでイエスが語る「真理」は哲学者たちが語るようなものではありませんでした。ましてや、この真理は力を持った権力者が語る論理でもありません。なぜなら、イエスの語る真理はイエスの生き方を通して明らかになった神についての真理だからです。その真理についてヨハネの福音書は私たちにこう教えています。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3章16節)

 救い主イエスはこの真理を私たちに教えるために来られた方です。そしてイエスはこの神の愛を十字架の死を通して私たちにはっきりと示してくださったのです。なぜなら、神の前で罪を犯して、その罪を自分の力では償うこともできず、さらに罪を犯し続ける私たちは本来神の裁きの座で有罪判決を受けて、永遠の滅びの刑罰を受けてるべき存在であったからです。イソップ童話の中に「アリとキリギリス」と言うお話があります。夏の間、アリは休むことなく毎日働き続けて食糧を備蓄します。しかし、キリギリスは毎日働きもしないで、歌を歌って暮らします。やがて、冬がやって来た時、アリは夏の間備蓄した食料を食べて厳しい冬を乗り越えることができました。しかし、キリギリスは何も食べるものがなく、飢えて死んでいきます。この話を聞く私たちはキリギリスの死を「自業自得」と当然のように考えます。しかし、神はそのようには思われないのです。なぜなら神はこの地上で神を忘れ、勝手な生き方をして一生を送る私たちに人間に対して、「何とか救い出してやりたい」と考えらえたのです。それではどうして神は「自業自得」と呼ばれてよいような私たちを救うためにイエスを遣わしてくださったのでしょうか。それは私たちを愛してくださっているからです。たとえ私たちが神を忘れて生きていたとしても、神は私たちを忘れることができません。そして私たちに対する神の愛は決して変わらないのです。

 イエス・キリストはこの真理である、神の愛を私たちに証しするためにやって来てくださった方です。そして、イエスが実現してくださった「神の国」はこの神の愛によって立てられる国なのです。そして今や、このイエスの十字架の死によって私たちすべてに神の国の国民となる権利が与えられました。だから私たちに必要なことはこの真理に従って生きることです。たとえ私たちの人生に何があったとしても、私たちに対する神の愛が変わらないことを信じ続けることです。この神の愛が確かであるからこそ私たちは自分の生き方や自分の持っている資格ではなく、この神の愛を根拠にして「私たちの本国は天にあります」と大胆に告白することできるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.総督ピラトはユダヤ人の指導者によって総督官邸に連れて来られたイエスにどのような質問をしましたか(33節)。この質問からイエスがどのような容疑で裁かれていることが分かりますか。

2.この質問にイエスは何と答えられましたか(34節)。

3.35節に記されているピラトの答を読むと彼はイエスがユダヤ人たちから訴えられている原因をどこにあると理解していたことが分かりますか。

4.36節でイエスは自分の国はどのようなものだと説明していますか。この答えをピラトが理解できなかった原因はどこにあったと思いますか。

5.37節のイエスの言葉を読むと彼がどのような使命のためにこの世に来てくださったことが分かりますか。

2021.11.21「イエスの王国」