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2021.11.28「あなたがたの解放の時が近い」 YouTube

ルカによる福音書21章25~28、34~36節(新P.152)

25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。

35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」


1.自分の心に主イエスをお迎えする

 今週から礼拝堂の中もクリスマスの飾りつけがされて、いつもの雰囲気とは変わりました。今日の日曜日はアドベント、待降節第一主日の礼拝です。このアドベントは24日のクリスマスの日まで続き、私たちが救い主イエスの誕生を心から喜ぶことができるように準備する期間となっています。この準備ために私たちは聖書の言葉から、救い主イエスの誕生が私たちにとってどんなに素晴らしい出来事であるかについて学ぶことになります。この準備をおろそかにすれば私たちはクリスマスを毎年やって来る単なるお祭りのひとつと考えてしまい、慌ただしい生活のままにこの年末を過ごすことになるかも知れません。

 イエスの降誕劇では身重のマリアと夫のヨセフがベツレヘムの町を訪れたとき、彼らには泊まる場所がなく、結局二人は家畜小屋の中で一夜を過ごすことになります。私も、毎年幼稚園のクリスマス会でお話の奉仕をしていて、幼い子供たちが演じる降誕劇を見る機会があります。ある幼稚園で行われた降誕劇にまつわるこんなお話を聞いたことがあります。この降誕劇で一人の園児がベツレヘムの宿屋の主人の役を演じることになりました。この子に与えられたセリフは簡単なもので、「宿屋は満員でもう泊るところはありません」とマリアとヨセフを冷たくあしらうものでした。短いセリフですけれどもその子は本番で間違えないように何度も何度も練習を繰り返しました。そして生誕劇の当日になり、その子が準備したセリフを語る場面になりました。その子は「宿屋は満員でもう泊るところはありません」と上手に語ることできました。そこでその子の演じる場面は終わるはずでした。ところがそうならなかったのです。なぜなら、その子は覚えていたセリフを語ったあと、「どうか、僕の家に泊まってください」と劇の台本にはない言葉を付け加えてしまったからです。このセリフはその幼稚園の降誕劇にとっては余計な言葉だったかもしれません。しかし、クリスマスを本当にお祝いしたいと考える者にとっては大切な言葉であると言えるのではないでしょうか。

 私たちも主イエスの誕生の出来事を自分の喜びとするために、自分の心に主イエスをお迎えすることができるようにこのアドベントの期間を準備していきたいと思います。


2.解放の時が近い

①待つ

 さて、クリスマスを準備するために教会暦がこの待降節の第一主日に私たちに読むようにと指示しているのは、なんとクリスマスに関する出来事ではなく、終末、世の終わりに関する出来事です。教会暦を解説する文章を読むと、このアドベントは「待つ」と主題をもとに礼拝をささげるようになっています。ですから、クリスマスを待つと言う意味と同時に主イエス・キリストの再臨のときを待つと言う二つの意味がアドベントにはあると言うのです。なるほど、神は私たちに対する約束の通りにこの地上に御子イエスを送ってくださいました。そして、聖書はこのクリスマスの約束以上に、御子イエスが再びこの地上に来られると言う約束をたくさんの個所で語っています。ですから、このクリスマスの出来事を信じる者は、同時に主イエスの再臨のとき、終末の時を、喜びを持って待つ者とされていると言えるのです。

 さて、今日の聖書の個所は主イエスが語られた終末の出来事についてのお話の一部です。主イエスはこの言葉を通して、終末の時を私たちがどのような態度で待つべきかを教えています。なぜなら、この終末の出来事の本当の意味を理解できないで、むしろ恐怖にとらわれる人が多いと言う現実があるからです。


②神の裁きが実現するとき

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」(25~26節)

 ここには終末の出来事の前に地上に訪れる様々なしるしによって人々が不安に陥り、また「恐ろしさのあまり気を失うだろう」と言うことが語られています。確かにこれらの現象を経験すれば、だれもがこのような状態に陥るのかも知れません。しかし、人々の不安や恐れの根本的な原因は終末の出来事に伴う天変地異や様々な災害などではなく、もっと違うところにあると言うことを主イエスは続けて語っています。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(27節)

 人々の不安と恐れの本当の原因は「人の子」の到来、つまりイエス・キリストの再臨にあると語られています。それではなぜ人々はイエス・キリストの再臨をそれほどまでに恐れるのでしょうか。なぜなら、主イエスの再臨はすべての人間に対する公平な神の裁きが実現されるときだからです。創世記の最初に記されている記事によれば神によって造られた人間は元々、その神との親しい関係の中で生きることができていました。しかし、人間が神の命令に反して罪を犯したとき、人間の様子が全く変わってしまいます。なぜなら罪を犯した人間はこの時から神の声を聞くだけで恐れを抱き、神の前から隠れようとするようになったからです。この人間の変化はやがてすべての人間の姿に引き継がれるものとなりました。本来、私たちにとって最も親しく、もっとも頼るべき方である神を私たちが恐れるようになったからです。そしてその原因は人間の抱える「罪」の問題にあると言えるのです。この罪を自らの力では解決できない私たち人間は、神の裁きを恐れ、不安を感じながら生きなければならないのです。

 しかし、主イエスは私たちに対して「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と言われいます。そして私たちが逃げることなく、この終末の出来事に向き合うようにと求めておられるのです。なぜなら、終末のときは私たちに対する神の裁きの時ではなく、「解放の時」だからです。その理由は主イエスが私たちの罪を十字架の出来事を通して解決してくださったからです。だからこそ、終末のときは私たちにとって「裁き」の時ではなく、「解放」の時、私たちの救いが完全に実現する日となったとイエスはここで私たちに教えておられるのです。


3.注意しなさい

①鈍くなる心

 イエスの語られた言葉で25から28節では「人々」と言う言葉が語られていて、終末の出来事の本当の意味を知らない人々が不安や恐れに襲われる姿が語られています。しかし34節以下の文章では一転して、「人々」と言う言葉ではなく「あなたがた」と言う言葉が使われています。つまり、34節以下は聖書の語る福音を受け入れて、終末のときが「解放の時」であることを知らされ、信じている私たち信仰者に対して語られる主イエスの勧めの言葉となっているのです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)。

 コロナウイルスのパンデミックが続き心を病む人が増えています。「コロナウイルスに感染して死ぬような重篤な状態に陥るかも知れない」と言う不安は誰もが抱く当たり前の心配です。また、経済の悪化によって生活苦に陥る人々も多く存在するようになりました。さらには社会や私たちの生活の身近でもあらゆる活動が制限されて人々の通常の交わりが希薄となり、孤独を抱えて苦しむ人も多く現れています。

 主イエスは私たちに「心が鈍くならないように注意しなさい」と教えています。つまり、主イエスが再び来られる日が訪れることを忘れてしまったり、忘れていなかったとしても、関心を失くしてしまうことのないようにと教えているのです。

 これは私たちがヨハネの黙示録の学びの中で何度も確認したことですが、私たちが心から終末の出来事が忘れられてしまうとどうなるのでしょうか。それは目的地を失った旅人と同じ状態となるはずです。私たちは一体、自分がどこに行ってよいのか、何をしてよいのかが分からなくなってしまうのです。私たちの人生が抱える不安の多くはここに原因があります。


②終末の出来事に心を向ける

 聖書が教える終末の出来事に目を向けるということは、私たちの人生の本当の目的地にいつも目を向けて生きると言うことを意味しています。そしてこの終末の出来事に心をむけるとき私たちは今、自分が何をして生きればよいのかも理解することできるのです。

 カウンセリングのワークショップではよく参加者たちに「あなたの人生が明日終わるとしたら、あなたは今日何をしますか」と言う質問がなされると言います。この質問に大半の人は「家族と最後の時を過ごしたい」とか「両親や自分にとって大切な人に心から「ありがとう」と言いたい」と言うような返事をするそうです。私たちが今、必死で追い求めているもの、また私たちの思い煩いの大きな原因になっているものは、もし私たちの人生が明日終わってしまうとしたら、本当に自分の人生にとって必要なことなのでしょうか。私たちが人生の目的地を見失うことは、私たちの人生にとって大切なことが何かが分からなくなってしまう悲劇を生むのです。だから主イエスは「心が鈍くならないように」と語り、私たちが聖書の教える終末の出来事、私たちの人生の本当の目的地に心を向けて生きるようにと教えているのです。


4.目を覚まして祈りなさい

①逃げなさい

 さらに、主イエスは私たちが終末の出来事に心を向けながら生きることについて次のような注意を語っています。

「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(35~36節)。

 主イエスが語るように地上では終末にともなう様々しるしとして厳しい災いが起こります。この災いは地上のすべての地域に起こるもので、誰もこの災いから逃れることはできないのです。この地上には災いから逃れる場所はどこにも残されていないからです。しかし、主イエスは「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れなさい」と教えています。これはちょっと矛盾した言葉のように聞こえます。地上のすべての地域に災いが起これば、どこにも逃れる場所はないはずです。ですから、これは私たちが物理的に災いから逃れる場所を探し出して、そこに行きなさいと言うことを教えているのではありません。そうではなく、この終末の出来事の本当の意味を知らない人が「不安に陥り」、「恐ろしさのあまり気を失う」と言うようなパニックの状態になりますが、「あなたたちはここから逃れるように」、「福音によって終末の本当の意味を知ることでこの混乱から逃れて、神に信頼を置くように」と勧めていると言うことができます。だから主イエスはここで続けて私たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と教えています。つまり、私たちが不安と恐れから解放される方法は、「いつも目を覚まして祈る」ことだと言うのです。


②神にその出来事の本当の意味を教えていただく

 ここで語られている「祈り」とは自分の人生を自分の思った通りになるようにする魔法の呪文ではありません。祈りは神と私達との会話です。ですから、私たちは祈ることによって私たちの人生の意味を教える神の答えを知ることができるようにされるのです。このところ、リビングライフ誌を通して私はヨブ記をずっと読み続けてきました。そこで思ったことは、この書物に記されているヨブの叫びは神に対する祈りの言葉なのだと言うことです。なぜならヨブは自分の人生に起こった出来事の本当の意味を知りたくて、神にその答えを求めているからです。神を信じていても私たちの人生には様々なことが起こります。信仰者だけが災いから逃れることができるということは決してありません。私たちは病からも死からも逃れることは決してできないのです。しかし、神に祈るものは、その災いの本当の意味を知ることできると言えるのです。

 このクリスマスに私は一人の姉妹がキリスト教の雑誌に記した証しの文書を読みました。この教会に少なからぬご縁のある姉妹で、私のところにわざわざその雑誌を送ってくださったのです。その文書を読んだとき、その姉妹が子どもの時から病苦を抱えて苦しみ続けたことが分かりました。「どうしてこんな苦労が続くのだろうか」と思われるような人生をその姉妹が今までたどってきたことがわかりました。しかし、その文章の最後は「これまで、自分を生まれた時からずっと愛してくださっていた神様に感謝したい」と言う姉妹の言葉で結ばれているのです。つまり、この姉妹は自分の人生に起こった病気や様々な苦労が「神様の自分に対する愛の業」と理解していることが分かるのです。

 ポール・トゥルニエというキリスト教信仰を持った精神科医は人間が癒されるということは、直接にその病気が医学の力によって治療されることだけではないと語っています。そして本当の癒しはその病気が自分の人生とってどんな意味があるのかを理解することで実現すると語っています。つまり、このトゥルニエの言葉から考えれば、たとえその病気が医学的に癒されることがなかったとしても、その病気が自分の人生に何のために起こったのかと言う意味を知れるなら、その人はやはり癒されたと言うことになると言えるはずです。「目を覚まして祈る」と言うことは私たちが神と向き合うことによって、すべての出来事が自分の人生に何のために起こったのかと言う神の答えを知ることができます。そして私たちはこの祈りを通して、神からの本当の癒しを体験することができようになるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.人の子が来られる時、地上ではどのような現象が起こりますか。またその現象に遭遇した人々はどのような状態に陥ると語られていますか(25~26節)。

2.この時、人々は「人の子」がどのような姿で来られことを目撃しますか。また、なぜ人々は「人の子」の来臨に不安を抱き、恐れにとらわれてしまうのでしょうか(27節)。

3.わたしたちがこの出来事から目を離さないで、「身を起こして頭をあげ」必要があるのは何のためですか(28節)。

4.人々が「放縦や深酒や生活の煩い」で明け暮れてしまう理由はどこにあると思いますか(34節)。

5.これらの出来事が私たちを襲う時、私たちは何から逃れねばならいないのでしょうか。そして、私たちが人々の混乱に巻き込まれずに生きるためには、何が大切であると言えますか(36節)。

2021.11.28「あなたがたの解放の時が近い」