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2021.11.7「わたしはすぐに来る」 YouTube

ヨハネの黙示録22章16〜21節(新P.480)

16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」

17 "霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。

19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。

21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。


1.黙示録は誰のために書かれたものなのか

①神を信じる者のために書かれた黙示録

 今日の礼拝で黙示録の学びが終わりを迎えます。今まで何度も皆さんに語ってきたようにこの黙示録は一般の人にもある意味でよく知られている書物であると言えます。なぜなら、多くの人は黙示録に記されている謎めいた言葉を通してこの書物が、私たちの住む世界にこれから起こる未来の出来事を語り、地球滅亡の出来事さえ語っていると考えているからです。

 テレビでは「都市伝説」と呼ばれるような話題が取り上げられてよく放送されています。その中でもこの黙示録の言葉が何度も取り上げられて、人々に話題を提供して来ました。しかし、これらの人々の黙示録に対する関心の仕方は黙示録の本来の読み方とは大きく違っていると考えることができます。そのことを示すかのように今日の箇所でも改めて次のような言葉が語られています。

「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。」(16節)

 ここではイエス自身がこの黙示録を誰のために与えたのかと言う説明が語られています。この黙示録は「諸教会のため」、つまりキリストを信じて生きる人々のために記されたものだと言っているのです。「信仰など関心はないが黙示録の示す予言には関心がある」と語る人がいるかも知れません。私の古い友人も私の紹介で一時教会に通いましたが、彼は結局、最後まで信仰を持つことができないまま教会を離れて行きました。彼の聖書への関心は昔世間を騒がせた「ノストラダムスの大予言」に対する関心と同じだったのです。このイエスの言葉から考えると黙示録の内容は神やキリストを信じていない者には役に立たないものだと言えます。しかし、イエスを信じる信仰を持って、このイエスの再臨を待ち望む人々にはこの黙示録の内容は大切な役割を果たすことができます。私たちはこの最後の回でも、この黙示録の記事の内容が私たちの信仰とどのように関係して来るのかについて、もう一度考えて見たいと思います。


②ダビデのひこばえ、明けの明星、命の水

 まず、今日の最初の部分では黙示録のメッセージがすべて救い主イエスから出たものであって、人間が考え出したようないい加減な内容が記したものではないと言うことが明らかにされています。その上でイエスはご自分について「ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と語られています。この「ひこばえ」と言うのは切り株から出た新しい芽を示す言葉です。ダビデはかつてユダヤの王として君臨した人物です。そして神はこのダビデの子孫から救い主を与えてくださると言う約束をしてくださったのです。残念ながら歴史上のダビデ王朝は滅びてしまいました。しかし、ダビデに対してなされた神の約束は決してなくなることなく、イエス・キリストを通して実現したのです。「ダビデのひこばえ」と言う言葉はこのダビデとの約束とイエスとの関係を表す言葉であると言えます。

 またこのイエスは「輝く明けの明星」と呼ばれています。明けの明星は明け方に一番輝いて見える星のことです。この星はもうすぐ長い夜が明けることを私たちに示します。イエス・キリストによる救いは私たちにとって夜明けのようなものだと言うことができます。長い間、私たちは罪と死に支配されて闇の世界の中を生きてきました。イエスはこの罪と死の支配を打ち破ってくださった方です。ですからイエスを信じる者には再び罪と死が支配する暗闇が訪れることが決してありません。イエスが私たちの光となって私たちの人生を導いてくださるからです。

 また、このイエスは私たちに対して「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(17節)と招いてくださっています。ヨハネによる福音書4章にはイエスと一人のサマリアの女性との出会いが紹介されています。その中でイエスは「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と語られています。サマリアの女性は自分の心の渇きを癒すために、それまで自分と同じような人間に癒しを求めて来ました。しかし、人間にはこの心の渇きを癒すことはできません。なぜなら、その渇きは神だけが癒すことのできるものだからです。そしてその心の渇きを癒し、私たちに命を与えられるために来られた方がイエス・キリストです。ですから、誰でもこのイエスを信じる者は、このイエスによって無償で命の水を飲むことができるのです。

 このようにイエスはここでもう一度私たちを神との約束に立ち戻らせ、その約束を実現させる方こそがイエスご自身であることを教えています。そして黙示録はこの神から私たちに与えられた約束がどのように実現していくのかを私たちに教える書物であると言えるのです。だからこの約束を信じることもできない人、信仰を持たない人には黙示録の言葉は意味をなさないと言うことができるのです。


2.神の約束を記す黙示録

①契約書を勝手に書き換えてはならない

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(18〜19節)。

 ここでは黙示録の言葉に誰かが何かを付け加えることや、また誰かが勝手にその内容を削ってしまうことが厳しく禁じられています。もしそれを破る者があれば、その人は神から与えられるすべての祝福を失うことになると言えれています。どうしてこのように厳しいことが語られているのでしょうか。それはこの黙示録の言葉が神の約束を記す、契約の書つまり聖書の一部であるからです。つまり、この厳しい警告はこの黙示録だけではなく聖書のすべての部分について適応されるべき大切な教えであると言えるのです。

 私たちの住むこの世の社会でも契約書と言うものは勝手に誰かが書き換えることができなくなっています。契約書の内容を誰かが勝手に書き換えることができるならば、それはもう信頼できる契約関係を表す文書とは言えなくなってしまいます。聖書に記された言葉はすべて私たちに対する神の約束です。神はこの約束通りのことを私たちに必ず実現してくださるのです。だからこそ、私たちはこの約束に信頼して自分たちの信仰生活を送ることができるのです。


②私たちを不自由にしているこの世の価値観と力

 今月号の「信徒の友」と言うキリスト教雑誌の特集は「ユダヤ教を知ろう」と言うものでした。私たちは聖書に登場するファリサイ派やサドカイ派の人々の姿は知っていても、その後、2000年の歴史の中で自分たちの信仰を守り続けてきたユダヤ教の人々の信仰や生活についてはあまりよく知っていません。この雑誌の中には日本人でありながらユダヤ人のコミュニティーとの出会いを通してユダヤ教徒になった人の貴重な証しの文章が載せられています。ユダヤ教徒の生活にとって最も大切なことは聖書に記されている律法を守って生きることです。この信仰生活の要点についてこの日本人のユダヤ教徒は面白いことをこの文章で語っています。彼は「神の律法が自分を自由にさせる」と言うのです。ユダヤ人と聞くと厳しい戒めに縛られた不自由な生活をしていると私たちは思いがちです。しかし実際はそうではないとこの著者は語っています。なぜなら、神を否定するこの世の社会こそが私たちを様々な価値観で縛り付け、不自由にしているからだと言うのです。そしてユダヤ人は律法に従うことでこの世の価値観から自由にされ、守られているのだと語るのです。これはとても面白い見方だなと思いました。この世の人々は信仰と聞くと「自分の生活を何らかの決まりで縛り付け不自由にするものだ」と考える傾向があります。しかし、本当に私たちをがんじがらめに縛りつけて不自由にしているのは信仰ではなく、この世の様々な価値観なのです。

 例えば私たちが生きえる資本主義社会において資本は絶え間なく利潤を生み続けることを求め続けます。そしてこの利潤の追求のために人は機械の一部のようにされ、さらには利潤のためには人の命まで犠牲にすることを惜しみません。このような価値観に対して、聖書は神に創造された人間の尊厳を語り、また人間が豊かに生きる道を教えているのです。つまり、聖書の教えがこの世界から私たち人間の尊厳と命を守る役割を果たしているのです。


③信仰が私たちを守り、私たちを自由にする

 今まで学んで来たように、黙示録はローマ時代に生きたキリスト者たちのため記された書物です。この黙示録が書かれた当時、キリスト教会はローマ帝国からの厳しい迫害を受けていました。なぜなら、キリスト教徒は世の人々とは違い、ローマ皇帝を神とする皇帝崇拝に参加しなかったからです。当時、多くの人が皇帝崇拝に参加することが自分たちの生活に利益をもたらすものと考えていました。しかし黙示録はこの皇帝崇拝の背後に悪魔の力が働いていて、私たち人間を罪と死の力によって支配しようとしていることを明らかにしたのです。

 私たちはローマの厳しい迫害の中で黙示録はキリストを信じる教会の人々に「信仰を守りつづけるように」と訴えていることを学びました。しかし、ここで分かって来ることは、信仰こそが教会に集まる人々を悪魔の力から守るものであると言うことです。

 私たちは聖書に記された神の約束を信じて生きています。だから私たちは日曜日に教会に集まり、神に礼拝をささげているのです。私たちの信仰の仲間であった一人の婦人がよく語っていたことです。毎日曜日の朝、身支度を整えて教会に行こうとすると、近所の人が「あら、どちらにお出かけですか」と尋ねて来ます。そこで「これから教会の礼拝に出るのです」と答えると、近所の人から「あら、結構な御身分なこと」と言われと言うのです。この世の人々は私たちが日曜日に時間を取って教会に礼拝に出席する意味を理解できません。

 しかし、私たちは日曜日に教会の礼拝に出席して、神の言葉に耳を傾けることで、この世のすべての力から守られていることを知っています。もし、この生活を止めてしませば私たちはたちまちこの世の価値観に支配されてしまい、自由を失い、自分を見失って、命まで枯渇して行くことになります。このような意味で神の約束を信じて生きる私たちの信仰生活は私たちを不自由にするものではなく、悪魔に支配されたこの世の価値観や力から私たちを守り、自由にさせるものなのです。ですから、黙示録のメッセージも私たちの人生を自由にさせるために神から与えられているものだと考えることができます。


3.すぐに来られる方

「以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(20〜21節)。

 黙示録の記述などを使ってイエス・キリストが再臨される時を計算し、「キリストは何年何月何日に再臨される」と教える人々がキリスト教会の歴史の中では度々登場し、また消えて行きました。このようなメッセージを語る人々によって教会の人々は混乱に陥れられると言う悲惨な出来事が繰り返しキリスト教会の歴史の中で起こったのです。私たちはこの点に関して「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ24章36節)と語ってくださったイエスの言葉に従う必要があります。その上で、私たちは「然り、わたしはすぐに来る」と語られたイエスの言葉に従って生きる必要があると言えます。なぜならば、私たちが今日と言う日を自分に残された最後の時と信じて生きるとき、むしろ本当に充実した人生を私たちは送ることができるようになるからです。

 また、この「すぐ」と言う言葉はキリストの再臨の時までの時間的な長さを表すと考えるよりは、むしろキリストの再臨が自分にとって決して揺るがされることがないほどに確かな事実となっていると言うことを表す言葉であるとも考えることができます。

 黙示録の学びを閉じるにあたり、私たちが最後にもう一度確認したいのは、私たちの救いの根拠です。なぜなら、黙示録を教える人の中には「私たちがやがて来る終末に備えるためにはキリストを信じるだけでは足りない、もっと特別な信仰的な熱心が求められている」と語る人がいるからです。しかし私たちが学んで来たように私たちはキリストを信じるだけで救われるのであって、他に何か特別な何かを必要とするのではありません。キリストの御業だけが私たちを確かな救いに導いてくれるのです。そしてそのキリストを信じた私たちにとって、黙示録の語る内容は私たち必ず実現するものと信じることができるのです。

 キリストによって私たちの救いは確かなものとされました。だから私たちはこの黙示録の語るメッセージを私たちの人生の指針として信じ、従うことができるのです。そのような意味でキリストを信じる私たちにとって、キリストは確かに「すぐに来てくださる」と方と言うことができるのです。

 私たちはこれからもこの黙示録を私たちの人生を導く書物として、また私たちを守り、私たちを自由にする書物として読んで行きたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.この黙示録の最後の部分を読むとヨハネが記したこの書物の内容は、誰から出た証であることが分かりますか(16節)。

2.イエスはここでご自分をどのような方であると私たちに紹介して下さっていますか(16節)。

3.イエスはここでご自分の元にどのような人を招いて下さっていることが分かりますか。イエスのこの招きに答える者にはどのような祝福が与えられますか(17節)。

4.18節ではこの預言書の書物の取り扱い方についてどのような厳しい警告が語られていますか。またなぜ、このような厳しい警告が語られているのでしょうか。

5.私たちは信仰生活の中で「主イエスよ、来てください」と言う願いを強く持っているでしょうか。この願いを持って私たちが毎日の信仰生活を送ることが大切な理由を考えて見ましょう。

2021.11.7「わたしはすぐに来る」