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2021.12.19「なぜクリスマスをお祝いするのか」 YouTube

ルカによる福音書2章1〜20節(新P.102)

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、

7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


1.何がおめでたいのか

①忘れ去られたクリスマスの意味

 今日は教会のカレンダーではクリスマスを準備する待降節第四主日の礼拝となっています。しかし私たちの教会では24日が日曜日ではないので、一足先にクリスマスを記念する礼拝を今日ささげます。このクリスマスを知らないと言う人は、キリスト教国ではないここ日本でも少ないと思います。私はキリスト教とは無縁な家庭で育ちましたが、子どものころクリスマスになるとケーキを食べたり、サンタクロースからプレゼントを貰えると言うことでわくわくして待った思い出があります。そんな私が「クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日である」と言うことを知ったのはそれからずっと後のことでした。

 ある晩のことクリスマスのパーティーに参加して酒に酔い、千鳥足で家路を急ぐ男性がどこからか聞こえて来る讃美歌の歌声に導かれてキリスト教会の前に立ち止まりました。その教会の玄関には「クリスマス礼拝」と言う大きな文字が書かれた看板がありました。男性はその看板を見て「へー、教会でもクリスマスをお祝いするのか」と語ります。こんな笑い話を描いた四コマ漫画を以前私はどこかで読んだことがあります。

 教会はクリスマスの特許権を主張したことがありません。ですからむしろ現代では教会以外の場所でこそ盛大なクリスマスの催し物が執り行われていると言えます。しかし、このようにクリスマスの催しが盛大になればなるほど、クリスマスの本当意味は忘れ去られてしまっているのではないかと私は心配するのです。今日はこの礼拝に集まった皆さんと共に「なぜクリスマスをお祝いするのか」と言う題名に基づいて、クリスマスの意味をもう一度考えてみたいと思います。


②神からのプレゼント

 クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日です。しかし注意して聞いてください。この日は「イエス・キリストの誕生日」ではありません。今日のルカによる福音書にはイエス・キリストがどのような時代に、どこでお生まれになったかが説明されています。私たちはよく西暦と言う年号を使います。この西暦はイエス・キリストの誕生の年を基準にして作られています。つまり今年はイエスの誕生から2021年たったと言うことになる訳です。ところが、実際に聖書の記述に従って計算してみると、イエスはそれよりも前、紀元前四年ころに誕生したと今では考えられているのです。そして聖書のどこを読んでも「イエスが12月24日の生まれた」と言う記述は記されていません。つまり、イエスの本当の誕生日は不明のままなのです。クリスマスは後になってキリスト教会が「この日にイエス・キリストの誕生をお祝いしよう」と決めてできたものであって、本当のイエスの誕生日ではないのです。

 ところで誕生日のお祝は一体誰のためにするのでしょうか。私が子どものころ、各家庭で誕生日のパーティーをすることが流行したことがありました。家でご馳走を準備して、そこに学校の友達などを招待してパーティーを開くのです。もちろん、そこに招かれた友達はその誕生日の主役のために何らかのプレゼントを準備してパーティーに出席します。この誕生日パーティーの場合、その主役は誕生日に招待されたお客たちではなく、その誕生日に生まれた本人です。だから出席者のすべては「お誕生日おめでとう」とそのパーティーの主役をお祝いするのです。

 クリスマスの主役はもちろんイエス・キリストであることには違いがありません。しかし、「おめでとう」と言う祝福の言葉を受けることができるのは、実はイエス・キリストではなく、このお祝いに招待された私たちの側であると言えるのです。この点でクリスマスは普通の誕生日とは大きく違って来ると言えるのです。つまり、この日にプレゼントを貰うことができるのはクリスマスに集まった私たち自身なのです。なぜなら、このクリスマスの主役であるイエス・キリストこそが神が私たちに与えてくださった天からプレゼントであると言えるからです。

 プレゼントはその送り主がプレゼントを贈る相手をどれだけ大切にしているかを表すしるしのようなものです。皆さんも大切な相手には心を込めてプレゼントを準備するはずです。神はクリスマスの日に私たちのためにご自分の御子であるイエス・キリストを送ってくださいました。ヨハネによる福音書はこのことについて次のような言葉で説明しています。

「なぜクリスマスをお祝いするのか」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3章16節)

 「なぜクリスマスをお祝いするのか」ここで語られている「世」はこの世界に住む人間、つまり私たちすべてを表しています。ですからイエス・キリストは私たちに対して神から贈られた最上のプレゼントなのです。そしてこのプレゼントを通して私たちは神が私たちを愛してくださっていると言う事実を知ることができるのです。クリスマスの喜びは、私たちがこの神の愛をイエス・キリストを通して知ることによって起こるものだと言えるのです。


2.羊飼いたち

①掟に従わない羊飼い

 ルカによる福音書では神から私たちに贈られたプレゼントであるイエス・キリストの誕生を最初に知らされた人たちが野原で夜通し羊の番をしていた羊飼いたちであったことを紹介しています。実はこの羊飼いたちが最初のクリスマスをお祝いした人々として聖書が紹介するのには深い意味があると考えることができます。

 先ほど少し触れた誕生日のパーティーについて私には子どものころに体験したちょっと苦い体験があります。ある日、私は親しくしている友人の家にいつものように遊びに行きました。するとその日はその友達の誕生日で、私が訪れたときにはすでに招待された何人かの彼の友人と共に誕生日のパーティーが始まっていたのです。簡単に言ってしまえば、私は友人の誕生日のパーティーのゲストに選ばれていなかったのです。ところがそんなことを知らないで私は友達の家に呼ばれもしないのに行ってしまったのです。結局、そのときはその友人のお母さんの配慮で私もそのパーティーの仲間に入れてもらったのです。しかし、私は正式に招待されなかった客としてそのパーティーのことを今でも複雑な思いで思い出すのです。

 当時のユダヤ人たちは「羊飼い」と言う職業に就く人々をあまりよく考えてはいませんでした。なぜなら、彼らはユダヤ人が大切にしている信仰生活の掟に従うことができなかったからです。その原因は羊飼いと言う彼らの職業にあると言えます。生き物の世話をする者は一日も休むことはできません。しかし、当時のユダヤ人たちは「毎週土曜日は神を礼拝する日」と言う掟に従って、その日は一切の労働を休み、集会所で持たれる礼拝に出席することが決まりだったのです。しかし、羊飼いはその礼拝にほとんど出席することができませんでした。そして羊飼いはその他にもユダヤ人が守るべきとされていた様々な戒めに従うことができませんでした。だから羊飼いたちは神の掟に従わない悪い人々であり、神に嫌われていると一般のユダヤ人たちからは考えられていたのです。


②神の基準は人の基準とは違う

 その羊飼いたちに真っ先にイエス・キリストの誕生の知らせが告げられたことを聖書は紹介しています。これはどういう意味があるのでしょうか。それは人を評価する神の基準は、人の考えている基準とは違っていることを表しているのです。当時の人々は「悪い羊飼いたちは決して神に招かれることはない」と考えていました。しかし、神はわざわざこの羊飼いを選んで、イエス・キリストの誕生の知らせを真っ先に彼らに告げたのです。そして彼らもまた、この知らせを通して自分たちが神の大切な愛の対象とされていることを知ることができたのです。

 私たちは自分の周りの人々が自分に下す評価を気にして生きています。少しでもその評価を高くしたいと頑張って生きているのです。またその影響を受けて私たちは自分自身に対する評価を行います。しかし、神の評価は人間の評価と全く違うものです。だから私たちはイエス・キリストを通して私たちに対する神の正しい評価を知るべきなのです。この正しい神の評価を私たちが知るとき、私たちは私たちに対する神の愛を知り、その愛によって喜びを受けることができるのです。クリスマスは私たちに対する神の愛を私たちが知る日と言うことができます。だからこの日は私たちにとっても祝福の日であると言えるのです。


3.羊飼いである神

 ところで羊飼いについて、当時のユダヤ人たちから蔑まれ、嫌われる職業であったことを今私は説明しましたが。実は、ユダヤ人たちの国イスラエルにおいて羊飼いと言う職業は元々大切な職業として考えられていたのです。なぜなら、聖書の中に登場する人物の中にはこの羊飼い出身の人々が多くいるからです。たとえば、イスラエルの民をエジプトから導き出したリーダーとして知られるモーセは一時、この羊飼いと言う職業についていました(出エジプト3章1節)。また、イスラエルの国の二代目の王に選ばれることになったダビデと言う人物も少年時代は羊飼いとして働いていたのです(サムエル記上16章11節、17章34〜35節)。

 「なぜクリスマスをお祝いするのか」ユダヤ人の祖先たちは元々、家畜の世話をして生計を立てる遊牧民の出身でした。だから、当時は羊を飼って生きることは当たり前だったのです。それがやがて時代が変わり、ユダヤ人の生活様式も大きく変化して行きます。そこで羊とは全く無縁な生活を送る都市生活者が生れて行きました。そしていつしか羊飼いと言う職業が人々から敬遠される職業となってしまったのです。現代の日本では労働人口の減少に伴い、実際に人々は体を動かして働くような重労働に着くことを避ける傾向があります。そこでその穴埋めのように海外から「技能研修生」と言う呼び名で労働力が集められています。彼らを日本人に代わって過酷な労働条件の下で働かせるという現実が生れているのです。ところが羊飼いたちは本来聖書の中で特に大切な仕事であると考えられてよい職業であったと言えます。なぜなら、聖書は神と私たち人間との関係を羊飼いとその羊の関係にたとえて教えているからです。特にダビデは自分が羊飼いとして体験したことを通して、神がどんなに自分にとって大切な方であり、信頼できる方であるかを次のような歌にして語っています。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編23編1〜3節)。

 この歌はダビデが詠んだ詩編として多くの人に知られているものです。神が私たちの羊飼いとして私たちを導いてくださっています。私たちにとってこの事実を知ることはどんなにすばらしいことでしょうか。私たちは安心して自分の人生を羊飼いである神に任せることができます。また、イエス・キリストも羊飼いと羊の関係を通してこんな言葉を語っています。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章11節)

 イエス・キリストは私たちを導く良い羊飼いとしてこの地上に来られました。そして私たちを苦しめている罪と悪から私たちを解放するために、ご自身の命まで十字架でささげてくださったのです。

 このようにクリスマスの知らせを最初に知らされたのが羊飼いたちであったと言うことには意味があります。なぜなら羊飼いたちはこの神と私たちとの関係を職業柄、一番理解することができた人物たちだからです。ですから神は羊飼いであるご自身と私たちの関係を私たちに教えるためにこのクリスマスの知らせを羊飼いたちに真っ先に知らせたと考えることができます。


4.イエス・キリストを通して人生を考える

 さて、羊飼いは天使たちから告げられたイエス・キリストの誕生の知らせを耳にしたとき、実際にその言葉に従ってベツレヘムにまで赴きました。そしてそこで飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見つけ出すことができたのです。この最初のクリスマス物語は次のような言葉で結ばれています。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)

 羊飼いたちは乳飲み子であったイエス・キリストに出会い、その方を礼拝することができました。しかし、その羊飼いたちはその後また自分の元いた居場所に帰って行ったのです。救い主に出会うことができた彼らの生活は元のまま、何も変わることはありませんでした。彼らは羊飼いとしてまた過酷な労働現場に戻って行ったのです。しかし、そんな厳しい現実が彼らを待っていたのに彼らは「神をあがめ、賛美しながら」、帰って行ったと言うのです。

 このクリスマスの礼拝に集った私たちも、これからそれぞれの生活の場所に帰って行きます。それでは私たちが「神をあがめ、賛美しながら」その私たちの居場所に帰るとはどのような意味があるのでしょうか。実はここに私たちにとって大切な意味が隠されていると言えます。

 なぜなら、今まで私たちは自分の人生に起こる出来事の本当の意味を理解できずに生きて来た者たちだからです。私たちは自分の人生に起こる出来事を「これはよいこと」、「これはわるいこと」と勝手に判断しながら生きています。そして自分にとって悪いことが続けて起こると「なんて不幸なのだ」と考えるのです。しかし、その判断は本当に正しいものなのでしょうか。私たちは本当に自分の人生に起こる出来事を正しく判断できるのでしょうか。

 私たちの人生はジグソーパズルの絵にたとえることができます。もしそのジグソーパズルのピースの一つ一つをばらばらに取り上げて、「これはよい」、「これは悪い」と判断しているとしたらそれは正しいことでしょうか。ジグソーパズルの本当の意味はすべてのピースをつなぎ合わせて絵が完成した時に初めて分かるものです。そしてそのジグソーパズルの絵を完成させるためにはどんなピースも大切で、決して失われてはいけないのです。

 確かに、私たちは自分の人生のジグソーパズルの絵を今は知ることができません。しかし、その完成図をすでに知っておられる方がおられます。それは私たちに命を与え、私たちの人生を導いてくださるお方、私たちの神です。そしてクリスマスの主人公であるイエス・キリストはその私たちの人生の本当の意味を知ってくださっている神の御子なのです。かつて、イエス・キリストは誰からも「不幸な人生」と判断されていた生まれつき目の見えない人に出会ったとき、彼の人生について次のように語りました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)

 神が私たちの人生を導き、私たちの人生を完成させてくださいます。だからこそ私たちは自分の人生を誤った判断で評価してはいけないのです。そして私たちが自分の人生を正しく評価するためにはこのイエス・キリストが必要なのです。クリスマスの喜びにあずかった羊飼いたちは元の場所に帰って行きました。しかし、彼らはその自分たちの人生にどんなに大切な意味があるかをイエス・キリストを通して知ることができたのです。私たちも神をあがめて、賛美しながた帰って行った羊飼いたちのように、イエス・キリストを通して自分の人生の本当の意味を知ることで彼らと同じ喜びを味わうことができます。イエス・キリストはその喜びを与えるために私たちのために神から贈られた神からの贈り物だからです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエス・キリストはいつどのような時代に、どのような場所で生まれたと聖書は語っていますか(1〜7節)。

2.イエス・キリストの誕生の知らせを最初に聞いた人々は誰でしたか。天使は彼らにその知らせをどのような言葉で告げましたか(8〜12節)。

3.この知らせを天使たちから聞いた羊飼いたちはそこでどのような決断をし、また実行しましたか(15〜16節)。

4.天使たちの告げた言葉に従った羊飼いは乳飲み子に出会った後、どんなことをしましたか(17〜20節)。

2021.12.19「なぜクリスマスをお祝いするのか」