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2021.12.26「イエスの家族」 YouTube

ルカによる福音書2章41〜52節

41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。

42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、

45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


1.家族で暮らすクリスマス

 今日は教会のカレンダーでは「聖家族の日」と呼ばれる祝日になっています。クリスマスの礼拝を先週私たちは無事にささげることができました。「このクリスマスはいつまでお祝いするのか?クリスマスの飾りをいつ仕舞ったらよいのか?」。いつも迷うところなのですが、教会のカレンダーでは次の週に行われる「公現日」までをクリスマス期間と考える習慣があるようです。

 今はキリスト教とはほとんど無縁な日本のような国でもクリスマスを盛大にお祝いするようになりました。…と言ってもクリスマスを祝っている人々のほとんどはクリスマスの意味を十分に知らないまま、盛大なパーティーを開いて騒がしい時間を過ごすのがこの時期の恒例となっているようです。確かにキリスト教国でもクリスマスにはとても賑やかに祝われてるようです。しかし、そのような国でもクリスマスの日は各家庭に親しい家族が集まって、ホームパーティーを行う習慣があると聞いています。つまり、クリスマスの日を家族の日としてお祝いしているです。

 私たちは一人でこの世に生まれて来て、一人で成長して大人になった訳ではありません。私たちの人生の背後にはそれぞれ大切な家族の存在があります。もちろんそこにはすでにこの世を去ってしまったその人の両親はまたはその人の配偶者も含まれているはずです。クリスマスはこの日に神がイエス・キリストをこの地上に送ってくださったことをお祝いする日です。そして同時に、私たちの人生にとって大切な家族を私たちのために送って下さった神に感謝することもこのクリスマスに祝えるなら、この日は私たちにとってもっと素晴らしい日になるはずです。

 この教会のカレンダーで「聖家族」と言う名前が付けられた祝日に、教会では聖書に記されている物語から、イエスの養い親であったヨセフ、そしてその妻であり、イエスの母となったマリア、さらに神の御子でありながらクリスマスの日にこの地上に人として生まれてくださったイエスの三人の家族の姿から学ぶように勧めています。いったい、この家族はどのような家族だったのでしょうか。私たちはこの聖家族を通して私たちの信仰生活、そして私たちの家族について少し考えてみたいのです。


2.家族の危機を通して

 今日の物語はヨセフ一家がエルサレムへ旅に出発したところから始まります。当時のユダヤ人は旧約聖書の出エジプト記に記されている昔彼らの祖先たちがエジプトでの奴隷状態から解放された出来事を記念して「過越祭」と言う祭りを守る習慣を持っていました。そしてこの祭りの時期になるとユダヤ人たちは全国から神を礼拝するために建てられた神殿のあるエルサレムに集まったのです。ユダヤ人はこのとき神殿で動物犠牲を神にささげて、神を礼拝することを大切にしていました。イエスの養い親であるヨセフも毎年、この時期になると家族を引き連れてエルサレムに旅をしていたようです。当時、ヨセフたちはイスラエルの北部にあるガリラヤ地方にあったナザレと言う小さな村に住んでいました。調べて見るとこのナザレからエルサレムに行くには最短距離を選んでも140キロほどの道のりがあったと言われています。ですからエルサレムまで家族を連れて旅をすることは決して簡単ではなかったと思われます。

 事件はこのエルサレムへの巡礼も無事に終わって、ヨセフの家族がナザレへの帰途に着いた場面で起こります。その時、ヨセフとマリアは息子のイエスがいないと言うことに気づいたのです。このことが起こったのはエルサレムを出発して丸一日たった後だと聖書は記しています。「子どもがいなくなったのに、それまで何も気が付かなかったのか…」。そう考えられる方もおられるかも知れません。実は当時のユダヤ人たちはこのエルサレムへの巡礼を近所の人たちと一緒に行っていたようです。つまり、この巡礼の旅は団体旅行と言ってよいものでした。ですから子供たちは大人たちから離れて普段の遊び仲間たちと一緒に行動していたと考えることができるのです。ヨセフとマリアはその子供たちの集団にイエスがいると思い込んでいたので、イエスがいないことに気づくことが遅れてしまったのです。

 そこでヨセフとマリアは大慌てでいなくなったイエスを探し始めました。結局、彼らはイエスを見つけられないまま、来た道をエルサレムまで戻り、そのエルサレムの神殿でいなくなっていたイエスを見つけ出すことができたのです。このようにこの物語はわが子イエスを見失ってしまと言う危機的な状態に陥ったヨセフとマリアの家族の姿を描写しているのです。

 私たち信仰者も人生で同じような危機を体験することがあるかも知れません。私たちは自分の人生で思ってもいないような試練に出会ったとき救い主イエスの存在を見失ってしまうことがあるのです。そのとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。この物語はそのような危機を経験する私たちに一つの示唆を与えていると言うことができます。なぜなら、幼子イエスはエルサレムの神殿、神を礼拝する場所におられたからです。つまり、私たちがイエスを探すとしたら、私たちも神を礼拝する場所に行く必要があるのです。なぜなら、イエスはこの礼拝の中で語られる聖書のみ言葉を通して、聖霊なる神を働かせ、ご自身がいつも私たちと共にいてくださるという真理を教えてくださるからです。


3.父ヨセフと母マリア

①ヨセフ

 さてイエスが迷子になると言う出来事に遭遇したヨセフとマリアの夫婦はここでどのような態度を示したのでしょうか。聖書は興味深いことにこの夫婦を特別な夫婦として描くことをしていません。「どんなことが起こっても夫婦は変わることなく神をへの信頼を示して平然としていた」とは語っていないのです。二人はイエスがいなくなってしまったことを知り、驚き、必死になって息子を探し始めます。この後、母マリアは神殿でイエスを見つけ出して「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(49節)とお説教とも言えるような言葉を語っています。この言葉の通り、両親はとても心配で居ても立ってもいられなかったのです。おまけにこの言葉に対してイエスが「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(50節)と語ると、両親は息子が何を言っているのか全く理解できなかったと福音書は記しているのです(51節)。

 実はこの物語は聖書でイエスの養い親であったヨセフが登場する最後のお話になっています。この後に福音書はイエスの生涯と活動を書き記して行きますが、そこにはヨセフの存在は全く記されていないのです。おそらくヨセフはこの後、早く世を去ってしまったのではないかと考えらえています。マタイによる福音書ではこのヨセフの人柄について一言「夫ヨセフは正しい人であった」(1章19節)と表現しています。この正しさは「正義の人」と言うよりはむしろ「神に従う人」と言う意味を持った言葉です。聖書に登場するヨセフはまさに「正しい人」でいつも「神に従う」人であったと言えるのです。この聖書で取り上げられているエルサレムへの巡礼もこのヨセフの信仰に基づいて行われていたと考えることができます。ヨセフはある意味、平凡で他人には目立たない人物であったと言えます。しかし、神は「正しい人」つまり神に従うヨセフをイエスの養い親とし選んでくださったのです。


②マリア

 一方のマリアも神によって選ばれてイエスの母となりました。しかし、彼女も特別な人間ではなかったことを聖書は記しているのです。彼女はイエスが神の子であると言うことを天使によって最初から知らされていました。しかし、彼女も結局はイエスの語る言葉を理解することができなかったのです。しかし、イエスの言葉を理解することができなかったマリアですが、聖書はこの後、マリアがどのような行動をとったかを記しています。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)。これはクリスマスの日にベツレヘムの家畜小屋に羊飼いたちがやって来たときに示したマリアの行動と同じものとなっています。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2章19節)。「心に納める」とはマリアがそれを大切な出来事として心にとどめたことを語っています。マリアはこの後もこの出来事を忘れなかったのです。なぜなら、マリアが心に納めた出来事の本当の意味をやがて救い主イエスの生涯を通してはっきりと知ることになったからです。

 「自分の人生になぜこんなことが起こるのか。今の自分にはわからない」と言うことが私たちの人生にも度々起こります。そんなとき、私たちは「そんなことに拘らないで、これからのことを考えよう」と気持ちの転換を図ります。それも確かに大切なことだと思います。しかし、私たちもマリアと同じようにその答えをイエスに求めようとするなら、私たちはその出来事が私たちの人生にとって、また私たちの人生を導く神の計画にとって大切なものであったことを知らされる日がやって来るのです。ですから、私たちも人生に起こった出来事を心に納めて、イエスにその答えを求め続けて行くことが大切だと言えるのです


4.神の御子イエス

 さて、ヨセフとマリアが見失った少年イエスはエルサレムの神殿の境内で学者たちと語り合っていたと聖書は書きしるしています(46節)。ここに登場する学者たちは聖書が教える神の戒め、「律法」を研究する学者たちでのことを言います。彼らは神殿の境内で「律法」についてのお互いの知識を披露し、それについて自由な討議を行っていたのです。少年イエスはこの時その討論の場に参加していたと考えることができます。ちなみに、当時のユダヤ人は13歳で大人、つまり成人と認められますから、12歳のイエスはまだその成人年齢に達していません。しかし、イエスは並み居る大人たちの中で神の戒めである「律法」について堂々と論争を交わしたのです。そしてそのとき、「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(47節)と言うのです。

 これは少年イエスの知識量が律法学者たちの知識量に勝っていたと言うような知識の量を比べている表現ではありません。聖書はやがて成人したイエスがユダヤ人の会堂で教え始められたときに「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1章22節)と記しています。

 それではイエスの教えは他の律法学者たちとどこが違うのでしょうか。聖書の教えの中で最初に私たちが知るべきことは、人間は自分の力では神を知ることができないと言う真理です。人間はどんなに自己研鑽を積み、修行をしても自分の力では神を知ることはできません。だから私たちは神に教えていただかなければならないのです。私たちが聖書を大切にする理由はここにあります。聖書は神が私たちに与えてくださった書物、神の自己紹介状と言ってよいものです。だから律法学者たちは聖書を熱心に学び、それを人に教えていました。しかし、イエスは違います。イエスは神によってこの地上に遣わされた神の御子、神ご自身です。イエスは他人からの受け売りの言葉を語っているのではなく、自分自身の知っていることをそのまま語ったのです。だからこそ律法学者たちはイエスの語った言葉を聞いて驚くことになったと言えるのです。

 先日、日本の仏教学者がその著書の中で「キリスト教では人間は神を知ることはできないと言っている。だからその神を人間が信じるとしたら、そえは「賭け」、「博打」のようなものになるのではないか」と語っていました。確かに、私たち人間は自分の力では神を知ることはできません。しかし、真の神は私たちに聖書の言葉を通して、またこの地上に御子イエス・キリストを遣わしてくださることによってご自身を十分にお示しくださったのです。私たちが神を信じて生きるために十分な知識が神によって提供されているのです。オランダの有名な改革派教会の神学者は聖書の体験的な教えを説明する本を書いて、その本に「私たちの合理的信仰」と言う題名をつけています。だからこそ、私たちの信仰は「博打」のようなものではなく、救い主イエスによって提供された正しい信仰の知識に基づくものだと言えるのです。


5.神と人に愛されたイエス

 さて、イエスがエルサレムで迷子になった事件の後、聖書はその後日談を次のように記しています。

「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(51〜52節)。

 イエスの両親であるヨセフとマリアはナザレと言う小さな村で当時としては平凡な家庭を営み、その家庭の中でイエスを育てました。一方、イエスもまた当時の子どもとしては当たり前のようにその両親に仕えて暮らしたと聖書は言っています。イエスは「自分は特別な神の子だ」などと人々にひけらかすようなことは決してされなかったのです。聖書はこのイエスの生き方について次のように説明しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2章6〜7節)。

 教会ではこのイエスの生き方を「キリストの謙遜」と言う言葉で言い表して来ました。ある説教者はこの謙遜について「水は高いところから低いところに流れる。神の恵みも同じ」とたとえて語りました。イエスは謙遜であったからこそ、「神と人とに愛され」ることになったのです。そしてこれはイエスの両親であった養い親ヨセフとマリアの夫婦の場合も同じです。彼らもそれぞれ神から特別な使命を受けていながらも決して高ぶることはありませんでした。彼らはその生涯で忠実に神に従い続けたのです。私たちの家庭にも神の愛が必要です。そして私たちがこの神の愛の受けるためには「聖家族」のように謙遜に神に従い続けることが必要だと言うことを聖書は教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨセフとマリアの夫婦はエルサレムへの巡礼旅行の帰途、どのような出来事に遭遇しましたか。彼らはその出来事に出会って、何をしましたか(41〜45節)。

2.二人はこの出来事が起こった後、何日目に、またどこでイエスを見つけることができましたか。二人が見つけたとき、イエスはそこで何をしていましたか(46節)。

3.神殿の境内で律法学者たちと論じるイエスの言葉を聞いた人々はそこでイエスについてどのような感想を抱きましか(47節)。

4.このときマリアはイエスに何と語りましたか。またイエスはそのマリアの言葉にどのような言葉を返されましたか(48〜49節)。

5.エルサレムの神殿をイエスは「自分の父の家」と呼びました。それではこのイエスの父とは誰のことを言っていると思いますか。

6.この物語の後、イエスはヨセフとマリアにどのように接しまたか。マリアはそのときイエスの言葉の語った意味が分からなくても、その代わりに何をしましたか(50〜51節)。

2021.12.26「イエスの家族」