1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2021
  4. 12月5日「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」

2021.12.5「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」 YouTube

ルカによる福音書3章1〜6節

1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、

2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。

5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、

6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


1.私の心に救い主を迎える

 今朝はクリスマスを準備する待降節第二主日の礼拝をささげます。先日、今日の聖書を個所と同じところを水曜日の祈祷会で学びました。この待降節はクリスマスの喜びを準備することと、同時に先日もお話しましたように再びこの地上に来られる再臨の主イエスの到来を待ち望むと言う二重の意味を持っています。祈祷会のテキストではこの理由にもう一つ、主イエスを私たちの生活にお迎えするという意味もあるのではないかと言う興味深い勧めが述べられていました。

 改革派教会の発行している聖書日課「リジョイス」誌ではこのところかつてエルサレムの町に建てられていた神殿にまつわる聖書箇所が順番に取り上げられています。その中でヨシア王の宗教改革の出来事がとりあがられていました。イスラエルの民は長い歴史の中で真の神を信じない周辺の国々の人々と交わり、彼らの文化や生き方を取り入れてしまいました。その結果、エルサレムの神殿にも真の神とは関係のない偶像が飾られるようになってしまったのです。そしてその結果、イスラエルの国はかつてのダビデの時代のような国力を失い、周辺の力ある国々の侵略を恐れるような弱小国になってしまいました。ヨシア王はこのような国を立て直すために、まずエルサレムの神殿からすべての偶像を取り去るという事業を行いました。そのとき神殿の中からモーセの記した律法の書が見つると言う出来事が起こります。この時代、イスラエルの人々は立派な神殿を持っていましたが、肝心の自分たちと神との関係を明らかに示すはずだった神のおきてである律法をすっかり忘れてしまっていたのです(列王記下22章〜23章30節)。

 このようなイスラエルの民の失敗は他人事ではなく、私たちの信仰生活にも起こる可能性があります。キリストを信じていると思って毎週の礼拝に通って来ていても、私たちの日常生活の中でいつのまにか主イエスの存在が忘れてしまっていると言うことはないでしょうか。この世の思い煩いは、自分の思いに心がすべて占領されてしまい、主イエスの存在がどこか心の奥底にしまい込まれてしまっているとしたら、これほど残念なことはありません。ですから、クリスマスを前にする私たちはもう一度、この主イエスを私たちの生活の中心にお迎えして、その主イエスと共に喜びを持って生きる信仰生活を回復させたいと思うのです。


②洗礼者ヨハネ

 さて、私たちの信仰を整えるために私たちが今日読むべき聖書箇所は洗礼者ヨハネにまつわる物語が記された部分です。この洗礼者ヨハネはエルサレム神殿に仕える祭司ザカリアとその妻エリザベトの間に生まれた子だったと言う説明がルカの福音書には紹介されています(1章5〜25節)。そこには主イエスの不思議な誕生物語を先取りするような、洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語が記されています。彼の母エリザベトと主イエスの母マリアは親戚同士であったと考えられています。つまり、主イエスと洗礼者ヨハネも親戚関係にあったと言うことになるのです。このヨハネは成長すると父親の祭司の職を継ぐのではなく、ヨルダン川の荒れ野を活動拠点とし選びます。聖書にはこの時「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(2節)と記されています。この言葉からヨハネが神の言葉を人々に伝える預言者として神から選ばれたことが分かります。そしてこのヨハネが人々に伝えた神からのメッセージこそ主イエス・キリストです。預言者ヨハネの使命はこの救い主としてこれから来られる方を人々に示し、彼らを主イエスの元に導くものだったと言えるのです。ですから、救い主イエスを自分の信仰生活にお迎えしたい願う人は、まず、この洗礼者ヨハネの語るメッセージに耳を傾ける必要があります。


2.道を備える

①道

 この洗礼者ヨハネの登場を伝える三つの福音書は、共通して旧約聖書のイザヤ書40章の言葉を引用して、洗礼者ヨハネの登場が、主イエスと共に既にイザヤによって預言されていたことを伝えています。このイザヤ書40章は次に様な言葉で始まります。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ40章1〜3節)

 このイザヤの預言はかつてバビロニア帝国の侵略の結果、国を失い、遠い異国に連れて行かれたイスラエルの民に向かって語られたものなのです。つまり、このイザヤの言葉はバビロンでの捕らわれの時が終わり、イスラエルの民が故郷に帰還できるときがやって来たことを教える言葉になっています。そして、ここで言われる「荒れ野に道を備える」と言う言葉はイスラエルの民が故郷に帰る道を直接には意味しています。もちろん、彼らが実際に故郷に帰るために道路工事をしたと言う記録はありません。ですから、「荒れ野に道を備える」とはイスラエルの民が故郷に帰れるように、神がすべての条件を整えてくださること、つまり神の救いの御業を語っていると言うことできます。

 福音書はこの洗礼者ヨハネの登場を通してこのイザヤ書の預言が成就したことを告げています。もちろん私たちはかつてのイスラエルの民のように遠い異国に連れて来られている訳ではありません。しかし、私たちも本来自分のいるべき場所から遠く離れた場所で生きなければならなくなっています。私たちが本来いるべき場所、それは神の御元です。ですから神は私たちをご自分の元に返すために大いなる御業を始められました。それが主イエスによる救いの出来事です。主イエスは罪の奴隷として生きなければならない私たちを救い出して、神の御元に私たちを導いてくださる方として来られたのです。


②律法主義の誤り

 ところで洗礼者ヨハネをこのイザヤ書の言葉を引用して説明する三つの福音書の中で、マタイとマルコはイザヤ書40章の3節の言葉だけを引用しています。ところが私たちが今日、学んでいるルカだけは3節だけではなく、4節と5節も続けて引用しているのです。これはとても興味深いことだと思います。

 皆さんはもし、このイザヤ書の3節だけを読むのと、続けて4節、5節を続けて読むのとではそこにどのような違いが起こると思いますか。つまり私たちがイザヤ書3節だけを読むとある誤解が生まれる可能性があるのです。なぜなら、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と言う言葉だけを読むと、私たちは神が「荒れ野に道を備えよ」と命じておられると考えてしまう恐れがあるからです。つまり、「あなたは一生懸命に努力して神の元に変える道を作りなさい」と命じられていると考えてしまうのです。

 実際にイエスの活動された時代に生きたユダヤ人たちの信仰生活はこのような誤解の上に建てられていたと考えることができます。なぜなら、彼らは「律法主義」と呼ばれるように、自分の努力で神と自分との関係、つまり「道」を作りだそうとしていたからです。そしてイエスはこのような「律法主義」が聖書の教えに基づかない誤りであると徹底的に批判したのです。

 ある日、小さな子供が家の手伝いをした後、お母さんに一枚の神を渡しました。そこには「お皿洗い10円、部屋の掃除10円、お風呂にお湯を入れた10円」と自分のお手伝いへの報酬の請求額が書かれていたのです。そのお母さんはその子供から請求書を受け取った後、今度は一枚の違った請求書がその子供に渡しました。そこには「あなたを生んだこと0円、病気のときにお医者さんに連れていったこと0円、毎日ご飯を作ってあげたこと0円、生まれた時から今日まであなたのためにしてあげたこと0円」と書かれていたと言うのです。

 律法主義の誤りはこの小さな子供に似ています。自分たちは立派な行いをしたので神から特別に報酬をいただけるはずだと彼らは胸を張ります。しかし、私たちが生きることができることすべては神の御業によるものであり、神はその御業のゆえに私たちに何かを求めることはなさらないのです。そのすべては0円、つまり恵みであると言ってくださるのです。


③神が道を備えてくださる

 さてルカは今日の個所でイザヤ書の40章の3節だけではなく4節、5節も一緒に引用しました。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

 この言葉を読むと分かるのはこの救いの道はすべて神ご自身が整えてくださるものだと言うことです。いままで道がなかったところに奇跡のように道を作り出されるのは神の御業です。罪の奴隷として捕らわれの身であった私たちをその罪から解放し、私たちを神の御元に導いてくださるのは神ご自身の御業であって、私たちの業ではないのです。

 それなのに私たちは、自分ができたことだけに目を向けてはいないでしょうか。主イエスが批判した律法主義者のように、自分で満足できることがあったら、「自分と神との関係が縮まった」と思ったり、その逆に自分の行いに満足できないと、「神が自分から遠く離れたところに行ってしまった」と勝手に考え込んでしまうのです。しかし、これは洗礼者ヨハネによって明らかにされた、神の御業を見ない誤りを犯しています。私たちに大切なことは、私たちが何をしたかと言うことではありません。私たちは神が何をしてくださったのかと言うところに注意を向ける必要があるのです。

 元々、罪の奴隷であった私たちには神を満足させるような何かをすることはできないのです。だから神はそのような無力な私たちのために救い主を遣わしてくださったのです。ですからこの主イエスを私たちのために遣わして「道」を準備してくださるのはすべて神の御業です。だから私たちはこの神の御業に感謝して、その御業を受け入れること大切なのです。そしてここに私たちの信仰生活の大切な意味が現されているのです。

 パウロは私たちのささげるべき礼拝の大切な意味ついて次のように述べています。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12章1節)。

 私たちの礼拝は神の恵みの御業に答えて感謝をささげる場所です。そして私たちの信仰生活すべてもこれと同じ意味を持っています。私たちが毎日の生活で神の救の御業に感謝して生きることこそが、私たちの信仰生活の本当の意味だと言えるのです。


3.悔い改め

 さて私たちは最後にここでもう一度、聖書の教える「悔い改め」の意味を確認する必要があります。聖書には洗礼者ヨハネの活動として「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3節)と記しています。

 ここに「罪の赦しを得させるため」にヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。ヨハネはヨルダン川に自分の救いを求めてやって来る人々に洗礼を授けました。そしてその洗礼は「悔い改め」を表すものであったと言うのです。これを読むとヨハネの授けた「悔い改めの洗礼」がその人の罪を赦す根拠となっていると思い違いを起こしがちです。しかし、今まで確認してきたように私たちの罪が赦されるのはすべて主イエスの御業によるものであって、そこに私たちの何らかの業が必要とされることはないのです。ですからこれはどちらかと言うと主イエスの救いの御業は「悔い改めの洗礼」を授けられた人のみ、正しく理解されると考えた方がよいと思います。つまり人は「悔い改めの洗礼」を受けたから罪を赦されるのではなく、「悔い改めの洗礼」を受けたからこそ、自分のために主イエスがなしてくださった救いの御業のすべて、そしてその御業を通して自分が罪を赦されていることが分かるようになるのです。

 ご存知のように聖書が教える「悔い改め」とは一般の人々が考えるような「悔い改め」とは違うところがあります。この世界ではたとえば犯罪者が「悔い改める」と言う場合は、自分が今までやって来た罪から一切手を引いて健全な生活を始めるというような行動の変化を表しています。しかし、聖書が教える悔い改めは私たちの単なる行動の変化を表すものではありません。なぜなら、聖書の教える「悔い改め」とは私たちの全人格が今まで向いていた方向から違う方向に転換すること、神に向けられることを意味しているからです。

 残念ながら私たちの視界は360度どこにでも、いつでも目が届くものではありません。私たちの視界はどこ一点に降り注がれるとき、私たちには他の部分は全く見えなくなってしまいます。私たちの生き方は悔い改めの前には神には向けられていませんでした。神が私たちを愛し、私たちのためにどんなにすばらしい救いの御業を実現してくださっても、肝心の私たちの視線はそこには全く向けられていないのです。むしろ自分の前に起こる出来事や自分たちの周りに起こる出来事だけを見て、「自分は何って不幸なんだ」と考えたり、「自分の人生には希望などどこにもない」と絶望して諦めるしかなかったのです。

 しかし、私たちが「悔い改め」て私たちの視線を神の恵みの御業に目を向けるなら、私たちはそこで私たちのためになされた神の御業を知ることができます。そして救い主イエスの御業を通して消えることのない希望を見つけることができるのです。だから、私たちはこの救いの御業、神の恵みを知るためには方向転換、つまり「悔い改め」をする必要があるのです。

 私たちはこの待降節の期間、「悔い改め」を通してもう一度、私たちのためになされた神の恵みの御業に心を向けたいと思います。そうすれば私たちは喜びに満たされたクリスマスを迎えることができ、神に感謝をささげることができるようにされるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ルカは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」のはどのような時代であったと紹介していますか(1〜2節)

2.ヨハネは荒れ野でどのようなことを宣べ伝えましたか(4節)。

3.イザヤ書40章1〜11節の言葉を読んでましょう。ここにはどのような神の御業が語られていますか。

4.イザヤ書の引用を40章の3節だけで終わらせずに、4節、5節を続けて引用することによってルカは私たちに何を教えようとしているとあなたは思いますか。

2021.12.5「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」