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2021.2.14「七度を七十倍するまで」

マタイによる福音書18章21〜35節

21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。

24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。

25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。

33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


1.赦しについてのペトロの質問と答え

①オペラント条件付け

 アメリカの行動心理学では人に良い習慣を身に着けさせるために、「オペラント条件付け」と言う方法が採用されています。この方法は単純な人間の真理を利用しています。つまり、その人が良いことをしたら賞品のようなものを与え、またその反対に悪いことをすれば罰を与えるという方法です。これを繰り返すことによってその人の生活に良い習慣が身に着けさせることができると言うのです。しかし多くの人はわざわざ行動心理学の助けを借りなくても、このような方法を日常的に使って子供や会社の部下を教育しているのかも知れません。

 しかし、この方法には一つの大きな弱点があります。なぜなら、どんなに良い習慣を身に着けても、その人がそれをしているのは結局、賞品を受け取るためですから、それがもらえなくなるとわかったらその行動をする意味がなくなってしまうことです。そうなるとせっかく身に着けた習慣もなくなってしまいます。また、その反対に罰を受けるのが怖くて身に着けた習慣も、もはやその罰を受けなくてよいと分かれば、途端に元の状態に戻ってしまうと言うことがあり得るのです。

 大切なことはその良い習慣自身がどんなに自分の生活のために役に立つものかを知ることです 。それが分かれば人間は他人から何かを言われなくても、自分でその行動を進んで行っていくことができるようになるからです。


②主イエスに褒めてもらいたいペトロ

 今日の聖書のお話はイエスの弟子の一人であったペトロと言う人物が「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)と主イエスに質問したところから始まっています。なぜ、こんな質問をペトロはこの時にしたのでしょうか。おそらく彼は主イエスに自分を認めてほしかったのだと思います。主イエスから「ペトロ、お前は私の弟子の中で一番優れているよ…」と言ってほしかったからこそ、彼はこんな質問をしたのだと考えることができるからです。つまり、ペトロにとって「人を赦す」と言う行動は、主イエスに褒めていただくためにしなければならないことであったのです。もし、それをすることで主イエスに褒めていただけなければ、ペトロはわざわざ人を赦すなどということは一回でもしたくはないと思っているのです。この時のペトロにとっては人を赦すと言う行為自身は自分に犠牲を強いるだけのものであって、自分が損をすることだと考えていたのです。これではペトロがいくら頑張っても確かに七回までが限界となってしまうのかも知れません。今日は「人を赦す」と言う出来事を通してあらわされた神の恵みについて皆さんと共に考えてみたいと思います。


2.赦すことの困難さ

 主イエスに褒めていただきたいと思ったペトロはこのとき質問と共に自分の考え出した模範解答を示しています。それは「七回までですか」と言う答えです。この答えは当時の律法学者の見解を背景にしていると考えられています。なぜなら律法学者たちはその人の寛容さを示すために「七回まで」は人を赦すことを勧めていたからです。つまり、この答えから考えると八度目にはその人の犯した罪に対して正当な報いを与えることができると言うことになります。

 ところでこのペトロの模範解答に主イエスは何と答えられたのでしょうか。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。この答えを聞いたペトロはいったいどう思ったのでしょうか。きっと驚いたに違いありません。主イエスの語った答えは「七の七十倍」つまり、「四百九十回」です。これは大変な数です。主イエスに褒めていただくには「四百九十回」も人を赦さないといけないとなると、一体だれがその栄冠を手にすることができるのでしょうか。

 このイエスの答えを読んで誤解してはならない点は「四百九十回」は人を赦すための限界点を示すものではないと言うことです。次の四百九十一回になったら、今まで貯めに貯まっていた怒りを相手に爆発させるとなったら、これは大変なことになってしまいます。

 「アサーション」という自己表現の方法を教える理論では、自分の感情を相手にうまく伝えていくことによって自分の内側に怒りを貯めないことが教えられています。もし、人を赦すと言う行動がその人の我慢の上に成り立っているとしたら、その感情はその人の中で貯まりに貯まって行って、必ず最後には爆発してしまいます。そうなれば相手に対しても自分自身に対しても思わしくない結果を招くことになります。もし、人を赦すと言う行為が私たちの「我慢」によって成り立っているとしたら、私たちの人生にとってよい結果を決して生み出すことができません。

 つまり、イエスはここで私たちに「四百九十回まで我慢しないさい」と言っているのではないのです。そうではなくイエスは「赦す」ことが私たちの人生にとって有益な結果を生み出すと言うことを教えようとしているのです。つまり、赦せば赦すほど私たちは自分が損をするのではなく、返って私たちの人生を豊かにすることになるとイエスは教えているのです。なぜなら、赦すことは私たちのお互いの人間関係を強め、またしっかりとしたものとすることができるからです。

 どんなにスマートフォンやインターネットを使っても、スマートフォンで話す相手がいなければ、またインターネットで交流する相手がいなければ、これらの手段は私たちにとって何に役にもたちません。私たちが心を割って話し合える相手を作りだすためには、また自分の心配や不安な気持ちを分かち合う相手を見つけるためには、まずその私たちが「その人を赦す」こと、つまりその人を「受け入れる」ことが大切なのです。だからイエスは私たちの人生が平安で豊かなものとなるためにここで「人を赦す」ことを勧めていると言えるのです。


3.王はなぜ家来を牢に入れたのか

 しかし、そう考えるとイエスが「人を赦す」ことの大切さを教えるために語ったたとえ話の結論がよくわからなくなってしまいます。なぜなら、このたとえ話の最期では王は仲間のわずかな借金を赦すことのできなかった家来に与えていた「赦し」を取り消して、結局その家来を牢屋に入れてしまっているからです。こうなると家来に与えた赦しを取り上げた王の行為は、「赦し」についての本当の意味を知らない、誤った行動であったと言うことになりかねません。それではこの主イエスが語られたたとえ話の結論は一体私たちに何を教えているのでしょうか。

 ここで大切になって来るのは家来が牢に入れられた理由です。彼は自分自身が仲間のわずかな借金を赦すことができず、その仲間を牢に入れてしまいます。つまり、この家来は自分が仲間にした行為をそのまま自分が受けたことになります。つまり、彼が牢屋に入れられたと言う出来事は、彼自身がそれを選んだ結果だと言うことができるのです。だからこの家来は自分で仲間を赦すことができないことで、自分の人生を牢屋と言う不幸せな境遇に追いやってしまったと言うことになります。

 私たちは自分が仲間の罪を赦すことができないことで、まるで牢屋に入れられてしまった者のように不幸で孤独な人生を歩まなくてはならなくなるのです。だから「赦し」は私たちがそのような不幸な人生から解放されるために、私たち自身にとって大切なことであると言えるのです。


4.神の赦しのすばらしさ

①王が大切にしたものは何か

 キリスト教会はこの主イエスの語られたたとえ話に登場する王を私たちの神と考え、その王によって莫大な借金を赦していただいた家来を私たち自身だと考えて、教えてきました。そしてこれは正しい解釈であると思います。なぜなら、私たちが神に対して犯しの罪の重さは、この家来の作り出した莫大な借金と同じだからです。当時の貨幣単位で一タラントは六千デナリオンに相当する額です。私たちは労働者の一日分の賃金がこの時代に一デナリオンであると言うことを以前に学んだことがあります。つまり、この家来が王に返す必要があった金額一万タラントは労働者の六千万日分の賃金になってしまうのです。ちょっと調べてみると人がその一生で定年まで働いたとしても一万三百二十日だと言う計算になることがネットでは紹介されて言います。家来は自分の借金がいくらであるかを王によって明らかにされたとき「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)と願ったと書かれています。これがどんなにその場しのぎの言い逃れでしかなかったことはこの莫大な借金の金額を考えてもよく分かるはずです。

 このことは王もよく理解しています。だから王は家来の語った言葉を聞いて、それを信じたから彼を赦したのではないのです。王は家来を「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)と書かれているからです。つまり、この王は莫大な借金の額よりも、その家来との関係を大切にしたと言うことが分かります。王にとってその家来の価値は莫大な借金の額よりも大切であったのです。


②仲間の罪を赦せず、不自由になる私たち

 神は私たちをどのように思われているのでしょうか。そのことは私たちの罪を赦すために支払われた神の犠牲によって明らかになっています。神は私たちの罪を赦すために、ご自身の御子イエスをこの地上に遣わして下さいました。そしてその御子を十字架にかけることによって、私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。神が私たちとの関係を御子の命にまで代えても大切にしたいと思ってくださっていることがこのことから分かるのです。

 しかし、その上で私たちはこのたとえ話に登場する家来と同じような過ちを日々の生活で犯していることに気づかされるのです。この家来がわずかな借金を抱えている自分の仲間を赦せなかったように、私たちも私たちの仲間を赦すことができないでいるからです。聖書では赦すことによって私たち自身の人生が自由になり、豊かな祝福を受けることが教えられているのに、私たちはそれを信じることができません。むしろ赦すことは自分の人生にとって損失だと思い込んでしまっているのです。たとえ相手を何度か赦すことができたとしても、その赦しは自分の我慢によって成り立つっているので、その我慢の限界に達したとき、私たちは自分自身でもコントロールできないような怒りの力に支配されてしまいます。結局、私たちもこのような自分の行為の結果、自分自身の人生を不自由な牢屋のような生活に追い込むことになってしまうのです。


5.主イエスの赦しの恵みによって生きる

 しかし、このたとえ話では語られていない大切な福音の真理があります。それは私たちの罪のために支払われたイエスの贖いの代価は、私たちが今まで神に対して、また人に対して犯し続けてきた罪の代価であると同時に、これから私たちが犯すかもしれないすべての罪の代価を含んでいると言うことです。つまり、イエスの贖いは私たちがこれから犯す罪によって帳消しになってしまうことは決してないのです。私たちはこのキリストの贖いの恵みの効力のすばらしさを心に刻むべきであると思います。

 私たちは我慢することで自分の罪を赦すことはできません。しかし、私たちは今、イエス・キリストの成し遂げてくださった決して帳消しとなることのない赦しの恵みの中に生かされています。私たちは自分の信仰生活の中で、自分が仲間の罪を赦すことができない無力な者たちであることを痛感させられます。しかし、キリストの赦しの恵みはそこでこそ私たちに働き、私たちの力となってくれるのではないでしょうか。なぜなら、私たちはそのような信仰生活の中でこそ、私たちに対する神の愛、そしてキリストの赦しの恵みのすばらしさをなお一層、深く知ることができるからです。神がこんな私を赦し、愛してくださっていることを日々知ることができるからです。「罪のましたところには、恵みはなおいっそう満ち溢れます」(ローマ5章20節)と聖書も語っています。

 このたとえ話では家来が牢屋に閉じ込められるところで終わってしまいます。しかし、私たちの信仰生活はそうではありません。私たちがどんなに誤った判断をして、自分自身を不幸な場所に導くことになっても、キリストの赦しの恵みは私たちから取り去られることはありません。むしろ、キリストの赦しの恵みは、私たちを犯した過ちから、悔い改めさせ、もう一度立ち上がる力を与えてくださるのです。私たちは、私たちのために払われたこの御子イエスの贖いの恵みと、それによって実現した罪の赦しを信じ続け、そこから私たちの信仰生活に必要な力を続けて受けて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ここでペトロは主イエスにどのような質問をしていますか(21節)。また、主イエスはこのペトロの質問にどのような答えを語っていますか(22節)。

2.王が自分の家来たちに貸した金の決済をしようしたとき、王はそこで何を発見し、また何をしましたか(24〜25節)。

3.多額の負債を背負っていた家来は王に何を願いましたか。どうして王はこの家来の借金を帳消しにしたのですか(27節)。

4.王に莫大な借金を赦していただいた家来はその帰り道、誰と出会い、また何をしましたか(28〜30節)。

5.この出来事を他の家来から聞いた王は何をしましたか(32〜34節)

6.このたとえ話は「赦し」について私たちに何を教えていると思いますか(35節)。

2021.2.14「七度を七十倍するまで」