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2021.2.21「天上の礼拝」

ヨハネの黙示録4章1〜11節

1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」

2 わたしは、たちまち"霊"に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。

3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。

4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。

5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。

6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。

7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。

8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、

10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。

11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」


1.ヨハネが見た天の礼拝

 私はこれまで合計二回、お隣の国である韓国に行ったことがあります。とにかく電車に乗るのも、飛行機に乗るのも好きではない私ですが、今までの人生で海外旅行に出かけることができたのはこの韓国だけです。最初の訪問は今から三十年以上前の私が神学校を卒業する前のことです。当時まだ韓国は軍事独裁政権の時代で、その軍事政権に反対する学生デモが各地で頻繁に行われていた頃のことだったと思います。そして二回目はすでに私が牧師になって、ちょうどこの東川口の地で開拓伝道を始めた頃のことです。最初の旅行は神学生の仲間たちと共に、また二度目の旅行はCRCミッションの宣教師と協力牧師たちと一緒に旅をしました。どちらの旅行も普通の観光旅行ではなく、韓国の教会を訪問して、韓国のキリスト者たちと交流するためのものでした。

 それまでテレビでときどきしか見たことがない韓国に始めて足を踏み入れた私の感想は驚きの連続でした。その驚きの中心は韓国の教会の数の多さと、その規模の大きさにありました。はっきり言って、私たちが住むこの日本の地でキリスト教会を見つけることはそう簡単ではありません。日本では小さな教会が、人が簡単には足を踏み入れないような裏路地に立てられているということが多いからです。ところが韓国ではそうではありません。町を歩くと十字架の建てられた大きな教会堂がたくさん立ち並んでいます。ビルのテナントには同じ建物の中に違う教会が何軒も入居しているところもありました。とにかくそんな風景を私は日本では見たことがありませんでしたがから、驚くのは当たり前です。そしてそれにもまして私を驚かせたのは韓国の教会の活気ある礼拝の風景でした。一度に何千人と集まるような建物の中で礼拝が行われています。特に私がびっくりしたのは日曜日の礼拝だけではなく、韓国では毎日の早朝に礼拝が行われていて、そこにもたくさんの人が集まって来ることでした。そこで聞いてみると、皆、教会の礼拝に出席した後で会社や学校に行くということですからさらにびっくりさせられた訳です。

 歴史をたどれば日本とほとんど同じ時期にキリスト教が伝えられた韓国ですが、その成長の規模が日本の教会とあまりにも違っていることにも驚かされたのです。韓国教会の成長の背後には韓国が置かれた固有の歴史的状況、文化、国民性があるのかもしれません。しかし、私が韓国教会を訪問して一番、感じたことは神の御業の素晴らしさでした。なぜならこれは人間の業ではなく、神の起こされた奇跡のようなものだと私には思えてならなかったからです。そのように韓国のキリスト教会の活気ある礼拝に参加する中で、私にも「日本でも神が働いてくだされば、同じような奇跡が起こるはずだ」と言う思いが与えられ、励まされながら日本に帰って来たことを今でも思い出すのです。

 私たちが学んでいるヨハネの黙示録は最初の七つの教会に宛てられた手紙に続いて、この第四章に入ると天で行われている礼拝の姿が描写されています。黙示録の著者であるヨハネは主イエスの招きの言葉に導かれてこの天の礼拝の光景を見ることになります。それではどうしてイエスはヨハネをこの天の礼拝に招かれたのでしょうか。それは一言で言えば、地上で信仰の戦いの中に生きているヨハネを励ますためでした。そしてこの黙示録の言葉を読んでいるすべてのキリスト者を励ますためでもあったと言えるのです。


2.開かれた門

 この黙示録を学び始めたときに著者のヨハネがこのときどのような状態にあったのかを少し説明しました。ヨハネはこのとき現在のトルコの西部の沿岸にあり、エーゲ海に浮かんでいた小島であるパトモスと言うところで暮らしていました。このパトモスはおそらく当時のローマ帝国が囚人たちを流刑にする場所とされていたようです。ですからヨハネもこのときその囚人の一人としてこの島に流されて来ていたのです。それではどうしてヨハネはこのとき囚人となっていたのでしょうか。その理由はヨハネがキリストに対する信仰を守り通そうとしたからです。

 この時代、ローマ帝国は地中海周辺に広がる広大な領地を治めるために、ローマ皇帝を神と崇め礼拝する「皇帝礼拝」をその支配地域の住民たちに強制していました。ですからローマとその植民地に住む人々は誰であっても、自分たちを守ってくれる者こそこのローマ皇帝であることを認め、その皇帝を賛美して礼拝しなければならなかったのです。ところがキリスト教徒はこの皇帝礼拝に加わることを拒否しました。なぜなら、キリスト教徒にとって礼拝しなければならないのは天地万物を創造された真の神お一人だけだからです。さらに彼らにとって真の王とは神の独り子としてこの地上に来られた主イエス・キリストだけであったからです。だからキリスト教徒にとって皇帝を神と仰ぐと言うことは偶像に崇拝する大きな罪と考えられ、それをすることは決して許されなかったのです。そこでローマ皇帝は自分を礼拝しないキリスト教会の人々を徹底的に迫害しようとしました。この迫害の中で多くの人々の命が奪われました。また多くの人が捕らえられて囚人となっていたのです。この黙示録を書いたヨハネもその一人であったと考えられています。

 このパトモス島でのヨハネの囚人生活がどのようなものであったかはよく分かっていません。しかし、囚人であったヨハネが誰にも咎められずに自由に神を礼拝することができていたとは考えにくいのです。ですからヨハネは捕らわれの身として、このとき一人ひそかに神を礼拝する生活を送っていたのかも知れません。そこで、一緒に賛美歌を歌ったり、祈りをささげることができる信仰の仲間もいない流刑の島で孤独に礼拝を献げていたヨハネに自分を招く主イエスの声が聞こえて来たのです。「ここに上って来い。これから後必ず起こることをあなたに示そう」と(1節)。ヨハネが目を上げると開かれた天の門が見えました。主イエスはヨハネのために天の門をすでに開いてくださっていたのです。

 この黙示録を解説する書物の中に「ヨハネの黙示録は未来について関心を持っているのではなく、神の御業がこれからどのように実現するかに関心を持っている」と言う説明をしているものがありました。かつて「ノストラダムスの大予言」と言う本が日本でも出版され、たくさんの人がその書物の内容に関心を抱いたことがありました。私たちが今、学んでいるこの黙示録は「ノストラダムスの大予言」と全く違う書物であると言えます。なぜなら、この書物は漠然とした人類の未来について語ろうとしているのではなく、私たちのために救い主イエスを遣わしてくださった神が、私たちのためにこれから何をされようとしているかを語り、説明するために書かれた書物だからです。だからこそ主イエスを救い主と信じる者はこの黙示録を読んでその内容に不安を覚える必要は全くないのです。むしろ、キリスト者である私たちは、私たちを救ってくださる神の御業がこれからどのように進展し、実現していくのかをこの黙示録を通して知ることで、希望を与えられ、今を生きる力を得ることができると言えるのです。


3.天の玉座

 ヨハネが主イエスの声に招かれて天の礼拝の光景を示されたとき、彼がまずそこで目撃したのはたくさんの宝石で飾られた天の玉座の姿です。ここに登場する宝石が具体的にどのようなものなのかは今でははっきりわからないのですが、いずれも当時の人々がこの世の中で最も高価で美しいものと考えていた宝石であったようです。

 この時ヨハネが見た天の玉座は神の玉座、神の顕現される場所であったと言えます。ここには神の姿自身は描写されていませんが、むしろヨハネはその神がお座りになる玉座の素晴らしさを示すことで、同時にそこに着座される神のすばらしさを表そうとしていると考えることができるのです。

 ところでこの黙示録を書いていたヨハネも、またこの黙示録の言葉を読んだ当時の人々もこの玉座と言う言葉を聞いた時、彼らは天の玉座とは違うもう一つの「玉座」を連想することができました。それはローマ皇帝が座るこの世の王の「玉座」です。当時、広大なローマ帝国を治める皇帝の玉座はきっと絢爛豪華なものであったと考えることができます。しかし、ヨハネが幻の中で示された天の玉座は、このローマ皇帝の玉座も全くかなうことのないたくさんの宝石で飾られた素晴らしいものだったのです。そして黙示録はこの天の玉座の姿を読者に示すことにより、この世界の真の支配者であり統治者である方がこの天の玉座に座る神御自身であることを私たちに示そうとしているのです。この天の玉座は歴史の中でいつかは消え去って行くこの世の権力者の座る玉座と違います。ヨハネがこのとき見たものは世界を導き完成させてくださる神がお座りになる永遠の玉座であったからです。


4.神をほめたたえるものたち

①二十四の座に着く長老たち

 ヨハネはこの神の玉座の周りに二十四の座が設けられていて、そこに白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っているのを目撃します(4節)。ここに登場する二十四人はイスラエルの十二部族のリーダーであった族長たちであり、またイエスの弟子であった十二弟子であると昔から教会では解釈されて来ました。そして彼らが着ていた白い衣や頭にかぶっていた金の冠は彼らがこの世で最後まで信仰を抜くことができた殉教者たちであることを証しているのです。この天の礼拝には旧約時代の信仰者も、またイエスの福音を信じて生きるキリスト者も共に招かれ、神を賛美することができるのです。ここには旧約時代の人々も新約時代の人々も聖書を通して同じ神を信じ、その救いにあずかっていることがあらわされていると言えるのです。

 もしこの長老たちの中にイエスの弟子たちがいたとしたら、そこにはヨハネがよく知っていた彼の仲間たちもいたことになります。ヨハネはこの世で命をかけて信仰を守りぬいた彼らの生涯を知っていました。もしかしたらそこに彼がその亡骸を葬った仲間たちもいたかもしれません。しかし、ヨハネは天で彼らが白い衣を着て、金の冠をかぶせられて神を賛美している姿を目撃しました。ですからこの光景はヨハネにとって驚きであるとともに、また大きな喜びを与えるものとなったのです。


②四つの生き物と殉教者たちの神賛美

 さてヨハネはこの天の礼拝で他にもそこに四つの生き物たちがいて、彼らが天の玉座の周りで神を賛美する姿を目撃しています。この生き物たちの描写は旧約聖書のイザヤ書はエゼキエル書の中に描かれる神に仕え、神を賛美する「ケルビム」の姿によく似ています。そしてヨハネはそのそれぞれの生き物を「獅子」、「雄牛」、「人間」、「鷲」のような姿をしていたと記録しています。キリスト教会はこの四つの生き物を救い主イエスの生涯を表すものと考えて来たようです。人間はイエスがこの世に来てくださったその姿、牛は私たちのために十字架で犠牲になって下さった姿、獅子は死に勝利して復活された姿、そして鷲は天に昇られた姿をそれぞれ象徴しているものだと考えたのです。

 しかし、四世紀以降になるとこの四つの動物はそれぞれ違ったものの象徴として教会の中で語られることになります。それはイエス・キリストのみ言葉と御業を福音書と言う書物を記すことで伝えた四人の人物です。人間はマタイ、獅子はマルコ、牛はルカ、そして鷲はヨハネと言った具合にです。皆さん、この礼拝堂の入るドアの横に陶器でできた四つのタイルが飾られているのをご覧になっておられると思います。そこには人間、獅子、牛、鷲の姿が描かれていて、その上にギリシャ語で四人の福音書記者の名前が記されています。これはこの教会のために働いたジョージ・ヤング先生が教会堂の完成を記念して飾られたものです。そして、この絵はこの黙示録の言葉が題材になって作られていると言えるのです。

 この四つの生き物は東西南北、四つの方向を表しているとも考えられています。つまりこの四つの生き物は東西南北すべての場所に行って、神の名をほめたたえる任務を果すために働いています。福音書の著者である四人も、その福音書を通して世界のすべての人に神の素晴らしさを証する役目を果たしていますから、後の教会が考えた解釈も間違いではないと言えるのです。

 さて黙示録は最後にもう一度、二十四人の長老たちの姿を紹介しています。そして彼らが神を礼拝するためにかぶっていた金の冠を玉座の前に投げ出して、彼らが神を賛美する姿を描いているのです。この二十四人の長老たちのかぶっていた金の冠は彼らが命がけで信仰を守り抜いたことの証拠です。つまり、この冠をかぶることは彼らにとって最高の名誉であったと言うことができます。しかし、神を賛美する彼らは、その冠を脱いで、玉座に投げ出しました。これは何を意味するのでしょうか。

 それは彼らが信仰を守りぬくことができたのは、すべて神の恵みの御業であることを表すものだと言えるのです。確かに彼らは知っていたのです。神が自分たちを守り導いてくださったからこそ、自分たちはこの冠をかぶることが出来たと言うことをです。長老たちは自分たちかぶる冠は自分たちではなく玉座に座る方の素晴らしさを表すものであると考えたからこそ、彼らはその冠を玉座に向かって投げだして神を賛美したのです。

 ヨハネはこのことき、パトモス島に流された囚人として一人寂しい礼拝をささげていたのかも知れません。しかし、その礼拝はこの天の礼拝とつながっていることを彼は目撃することできたのです。なぜならイエスの招きによってヨハネはこの天の礼拝を見ることができたからです。私たちの礼拝もこの地上にあっては小さなものであるかもしれません。しかし、この礼拝に参加する私たちにも主イエスは「ここに上って来い」と呼びかけてくださるのです。そして、私たちの礼拝がこの素晴らしい天の礼拝とつながっているということを明らかにし、私たちの信仰生活を励ましてくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネはここで誰の声を聞きましたか。その声はヨハネに何と語りかけましたか(1節)。

2.ヨハネがそこで見た玉座はどのようなものでしたか。その玉座には誰が座っていましたか(2〜3節)。

3.玉座の周りに座る24人の長老たちはどのような姿をしていましたか(4節)。彼らは神を礼拝し、神を賛美するために何をしましたか(19節)。

4.玉座の中央とその周りにいた四つの生き物はそれぞれどのような姿をしていました(6〜7節)。彼らはそこで何をしていました(8〜9節)。また、彼らは神に対してどのような賛美の言葉を語っていますか(8節)。

5.さらに24人の長老たちは神をどのような言葉で賛美しましたか(11節)

2021.2.21「天上の礼拝」