2021.2.28「小羊こそ巻物を開くにふさわしい」
ヨハネの黙示録5章1〜14節
1 またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。
2 また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。
3 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。
4 この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。
5 すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
6 わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。
7 小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。
8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。
9 そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、
10 彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
11 また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」
14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
1.封印で閉じられた巻物
私が牧師になって最初に赴任したのは青森県の三沢市と言うところにあった伝道所です。この東川口教会でも英会話クラスの奉仕をしてくださったアメリカのアーノルド・クレス宣教師がこの三沢に教会堂を立てて伝道を開始しました。しかし、先生が突然に心筋梗塞の病で倒れたときに、先生の代わりに伝道所で奉仕するために私は三沢に行きました。今でも忘れることができませんが、三沢にやって来て迎えた最初の日曜日の日に、私は説教を作って教会への来訪者を待っていました。ところがその日に訪れたのは教会学校に通っている小学一年生の小さな女の子一人だけでした。その日から私はこの三沢で三年半の間働くことになりました。ところが結局、伝道所には一人の教会員も与えられないまま、私はその伝道所を閉めることとなったのです。そのような訳で、私にとってこの三沢伝道は収穫を得ることができない畑でずっと働き続けたような思い出が残されたのです。
それから20年近く経ったことの話です。ある日、私のフェイスブックに突然に一人の男性からメッセージが届きました。そのメッセージを読んでみると、彼は私が三沢で働いていたとき十和田市にあった北里大学の学生で、当時三沢教会が開いていた英会話クラスに通っていたと言うのです。私はその男性の名前を見て、自分の記憶の中にあった元気な一人の大学生の顔を思い出しました。彼は北里大学を卒業した後に一時は社会人となりましたが、このときは、クリスチャンになって、韓国の神学校に通って牧師になるために訓練を受けていると言うのです。やがて、このメッセージを受け取った後何年かして、彼は不思議なことに私が卒業した神戸の改革派神学校の学生となりました。そして今は、同じ改革派教会に属する四国にある教会の牧師として熱心に働いています。
この彼の存在を知ったときに全く収穫のなかった三沢伝道の思い出が変わりました。勿論、彼がクリスチャンになって牧師になったのは私の働きだと言っているのではありません。きっと彼がクリスチャンになって、牧師となるためにはたくさんの人々との出会いがあり、たくさんの人々の祈りがあったはずです。しかし、その出会いの中にクレス先生、ヤング先生そして私がいたということを知ったとき、私は本当にうれしくなり、とても励まされたのです。
私たちはこの地上で必死に働いてもその働きの実を見ることができないために悲しくなるときがあります。しかし、もしかしたら私たちの撒いた種は私たちの知らないところで見事に実を結んでいるかも知れません。もし、そのことを私たちが知ることができたら、それはどんなに私たちにとって慰めと励ましになることでしょうか。今日の黙示録のお話の中にはヨハネが「激しく泣いた」(4節)と言う言葉が登場します。「激しく泣く」、つまりヨハネは号泣したのです。その泣く声が他の人にもわかってしまうようにヨハネは大きな声で泣きました。それではどうしてヨハネはここで激しく泣いたのでしょうか。そして、そんなヨハネはこの天で献げられている礼拝の中でどのような慰めを見出すことができたのでしょうか。そのことについて今日は皆さんと共に学んで見たいと思います。
2.涙を流すヨハネ
①神の計画を知ることができないヨハネ
流刑の島パトモスに囚人として繋がれていたヨハネは、一人で献げていたある日曜日の礼拝の最中に「ここに上って来い」と言うイエスの声を聞きました。そしてヨハネはこのイエスの招きの声に従うことで、天上で行われていた壮大な礼拝を目撃するという恵みを受けたのです。その礼拝にはヨハネのかつての信仰の仲間たちの姿もありました。彼らは地上で信仰を守り抜くために命を落として行った殉教者たちでした。彼らもこの天上の礼拝で喜びに満たされて神を礼拝しているのです。ヨハネは彼らの姿を見て、どんなに喜び、励まれたことでしょうか。
そしてこの礼拝はこの5章に入っても続けて語られています。ヨハネはここで神の右の手に一つの巻物があることを目撃します。この巻物は「表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた」と語られています(1節)。おそらくこの巻物には人の目には隠されている神の計画のすべてが記されていたと考えることができます。その隠されている神の計画が記されているために、その巻物は七つの封印でしっかりと封じられていたのです。そこで一人の天使が現れて「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と語りました。しかし、ヨハネはこの巻物の封印を解く者がこの世にはいないことを知ります。この巻物の封印を解くことは自分はもちろんのこと、地上のどんな人間にも許されていないからです。だからヨハネはこの巻物の内容を知ることができないことを知って「激しく泣いた」のです。ヨハネはこのとき神の計画がどのように実現するのかを知りたかったのです。
②迫害の中に生きる兄弟姉妹を励ましたい
これまで何度も触れましたようにヨハネがこの黙示録を記した時代にはキリスト教会はローマ帝国からの厳しい迫害を受けていました。当時は「キリストを信じている」と言うだけで、捕らえられて囚人となり、また命を奪われる人も多くいたのです。
これまで学んで来たようにヨハネの黙示録の最初の部分には主イエスから七つの教会に宛てられた手紙が記されていました。そしてこの手紙の内容も激しい迫害の中で生きる人たちに向けて、「信仰を守りぬくように」という主イエスからメッセージが語られていたのです。おそらくヨハネはこの七つの教会の人々と深い関係を持っていた人物であったと考えられています。ヨハネはローマ帝国の激しい迫害の中でも「神を信頼して信仰を守り抜くように」と多くの信徒に勧めの言葉を語って来たリーダーの一人だったのです。しかしヨハネが教会のリーダーとして奉仕する間、ローマの迫害は一向に収まることがありませんでした。むしろ迫害の波はますます激しさを増して行ったのです。その結果、彼自身もまたパトモスと言う小島に囚人として流されて、捕らわれの身となっていたのです。これから教会は、自分の信仰の仲間たちはどのようになるのか。ヨハネにはそれが分かりませんでした。だからヨハネはその巻物の内容を知りたかったのです。
おそらくヨハネは自分の教会のメンバーからも同じような問いを投げかけられていたはずです。「ヨハネ先生、私たちはこれからどの様になるのでしょうか。主イエスは本当に私たちに勝利を与えてくださるのでしょうか…?」。厳しい戦いの中に立たされている真剣な仲間たち問いを聞いたときに、神の手に乗せられている巻物の中身、つまり神の計画を知ることが出来なかったヨハネは答えることができなかったはずです。だから自分の信仰の仲間たちを励ますためにもヨハネは、どうしてもこの巻物の内容を知らなければなりません。しかし、それがヨハネにはできないのです。ヨハネだけではなく、他のだれもその巻物を開くことができません。だから彼は激しく泣いたのです。
3.屠られた子羊
しかし、そのようなヨハネにこの世で信仰を守り抜くことができた殉教者たちである二十四人の長老たちの一人が次のように語りかけます。
「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」(5節)。
この長老は旧約聖書に語られている預言の言葉をここで引用して語っています。「ユダ族から出た獅子」とは創世記に登場する族長ヤコブがその息子たちに語った祝福の言葉の一つです(49章9節)。この言葉はヤコブの息子の一人であるユダの家系から勝利をもたらす王が出ると言うことを語っています。また次に語られる「ダビデのひこばえ」は同じように有名なダビデ王の家系を示しています。その家系は一度この世から絶えてしまったかのように見えたが、その家系から新たにある人物が現れると言う意味です。つまり、旧約聖書が預言したユダ族に属するダビデの家系に約束の救い主が現れて、この封印された巻物を開くことができることを長老は語ったのです。
ところが黙示録はここで読者を驚かすような表現を用いています。なぜなら、この長老の言葉を聞いた人は必ず次には、「百獣の王」と呼ばれる獅子のような勇士の姿をした救い主が現れることを期待します。しかし、黙示録に次に登場する方は「屠られたような小羊が立っているのを見た」と言われているのです。
この「屠られたような子羊」と言われているのは生贄として神殿で献げられながらも、殺さてしまった子羊を語っているのではなく、一度は確かに死なれましたがそこから甦ることができた主イエス・キリストを指し示しているのです。さらにこの子羊は「七つの角」と「七つの目」を持っていたと語られています。聖書では「七」は完全数と言って完全、完璧なことを表します。そして子羊が持つ角は力、そして目は「全地に遣わされている神の霊」を通して得ることができる完全な知識を表していると考えられています。つまりここには主イエスが神の右の手にある巻物を開くことができる完全な知識と完全な力を持っておられる方であることが表されているのです。しかも、このイエスの力と知識は、一度は屠られた子羊として十字架にかけられたその御業を通して現わされたことを黙示録は私たちに教えているのです。
黙示録はこの後、このイエスによって巻物の封印が解かれていく姿を語ります。そしてその封印が解かれるたびに地上には恐ろしい災いが起こっていくのです。しかし、黙示録はこれらの出来事の背後にこの歴史を支配して、実現させている救い主イエスがおられることを証しているのです。このイエスは私たちを愛して十字架にかかって下さり、私たちの罪を赦し、私たちを神の子としてくださった方です。歴史上に起こるすべて出来事このイエスの御業と深く関わりを持っていると聖書は教えるのです。だから、黙示録を読む者はここに記された内容から救い主イエスの御業が実現していることを覚える必要があります。すべての出来事は私たちの救いが完成するために思っていることを知らなければならないのです。
それでは黙示録を「屠られたような子羊」である主イエスの御業の実現として読んで行くときに私たちにどのような変化が起こるのでしょうか。この天上の礼拝はその変化がどのようなものであるかを私たちに教えています。確かにこの救い主を信じることのできない人は、封印が解かれるたびに地上に起こる出来事は、非常な恐れをもたらすものでしかありません。しかし、巻物を開くことができる主イエスを知っている私たちは違います。なぜなら、私たちはそのこに主イエスの力と知恵を知りることで神を賛美ことができるようになるからです。
4.子羊に対する賛美
ヨハネはこの天上の礼拝の中で、玉座に座る神と子羊イエスを賛美する人々の声を聞きました。最初に玉座の周りにいた四つの生き物と二十四人の長老が歌います。
「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」(9〜10節)
すると次にヨハネは数えきれない天使が子羊なるイエスを賛美する声を聞きます。
「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」(12節)。
さらに最後には神に創造されたすべての被造物が神と子羊を賛美します。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように」(13節)。
リモートで集会をしているとよく参加者の家に一緒に暮らしている猫や犬の声が聞こえることがあります。その声を聞くとその犬や猫たちが「わたしたちもここにいるよ」と言っているように聞こえます。ある説教者はこの天上の礼拝の賛美の中には私たちが飼っているペット達も加わっているという興味深い適応を語っていました。
いずれにしてもこの天の礼拝では恐怖の言葉も嘆きの言葉も一切聞こえてきません。皆が声を合わせて神と子羊であるイエス・キリストを賛美しているのです。それはどうしてでしょうか。この封印さえた巻物を開くことが出来る方は私たちを愛し、私たちのために命まで献げてくださった方だからです。その方が私たちを救うために、すべての歴史の実行者となってくださることをこの黙示録は証言しています。だから、それを知る者は神と子羊を賛美して歌い出すのです。
現在、私たちはコロナウイルス感染予防のために賛美を大きな声で歌うことも憚れるような状況の中にいます。インターネットの礼拝中継を見ていると「声を出さずに心で賛美してください」と言う文字を出している教会がありました。
しかし声を出すか出さないかに関わらず、私たちが礼拝で歌う賛美は、この天の礼拝における賛美と同じ意味を持っていることを覚えたいと思います。地上の厳しい迫害の中でその信仰を守り抜いた人々が子羊であるイエス・キリストによって歴史の本当の真実を知らされたときに、彼らは喜びに満たされて賛美します。自分たちの地上の歩みが決して無駄ではなく、神の計画の中で豊かに用いられていたことを彼らは知ることができたからです。この聖徒たちの喜びと確信を伝える賛美を私たちは今、礼拝の中で賛美しているのです。私たちはこの信仰の勝利を伝える賛美を歌いながら、天の玉座に座る神とその子羊を礼拝して行きたいと思います。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.天の礼拝の光景を目撃していたヨハネはどうしてそこで「激しく泣いた」ことになったのですか(1〜4節)。
2.ヨハネは玉座と四つの生き物、そして長老たちの間に何が立っていることを見ましたか。この方はどのような姿をしていましたか。この方はいったい誰ですか(6〜7節)。
3.四つの生き物と二十四人の長老たちはどのような賛美を歌いましたか(9〜10節)。
4.天使たちは(11〜12節)、また神に創造されたすべての被造物はどのように神と子羊を賛美しました。