2021.2.7「戸をたたく方」
ヨハネの黙示録3章14〜22節
14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
22 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
1.答えにならない答え
多分神学校時代の思い出だと思います。一人の神学生が説教演習の中で、こんな話をしていたことを私は今でも記憶しているのです。その神学生が新聞の人生相談のコーナーを読んでいて、そこに書かれていた記事の内容が気になったと言うのです。相談者は一人の若者で「自分は何のために生きるのか。人生の目的が分からない」と言う真剣な悩みを打ち明け、その答えを求めています。すると人生相談の担当者は「人生の目的など誰もわかっていない。だけれど、みんな一生懸命に生きている。あなたもそんな悩みなど忘れて、まず自分の人生を一生懸命に生きてみたらどうか…」と言うような答えが書いていたと言うのです。この神学生は新聞の答えを引用して、「これでは全く答えになっていない」と憤っていました。彼は「若者がせっかく自分の人生の目的について真剣に問うているのに、これでは「そんな悩みを持つことはくだらない」と言っているようなものだ」と厳しい口調で批判していたのです。
デンマークの哲学者であったキルケゴールは未来の世界を預言してこう語ったと言います。「これから何百年か後になれば、本屋で売っている本はすべて「人生をどう生きるか」と言うことを教える本だけとなり、「人生の意味や、目的を問う」ような本は無くなるだろう」と…。確かに現在出版されている本の大半は「人生をそつなく生きる」秘訣や方法を教えるものばかりです。人生の意味や、この若者が悩んだ人生の目的を教える本はありません。おそらくそのような本は読者から敬遠されて、全く売れないかもしれません。誰もが「自分の人生に波風が立たずにうまくやっていければよい」と思ってしまっているからかもしれません。しかし、それで本当によいのでしょうか。私たちは自分の人生の目的を知らないままで、本当に良い人生を送ることができると言えるのでしょうか。
私たちは今、ヨハネの黙示録の最初の部分に記された主イエスから七つの教会に宛てられた手紙を続けて学んでいます。今日はその最後の手紙、ラオディキア教会に宛てられた手紙を学びます。この手紙から分かるラオディキア教会の特徴はイエスがここで語るように彼らが「熱くも、冷たくもない」と言うところです。しかし、主イエスからそのように言われている当の本人たちは自分の信仰生活に全く疑問を感じていません。彼らはすっかり満足して生きているのです。だから問題はなおさら深刻になっていると言えます。
2.満ち足りた信仰
①役に立たないぬるい水
このラオディキアはトルコ西部の小アジアに存在した町です。交通の要所に立てられ、商工業によって栄えた大変に豊かな町だったと言われています。またこの町には有名な医学校があって、その学校が作った目薬は良薬として広くローマ帝国内に流通していました。また興味深いことは、この町は遠い水源地から水道を引いて、水を供給していました。そしてその水は水道を通って来る間に、温められてぬるくなってしまっていて、これが町の人々の不評を買っていたと言うのです。ですからこの手紙で語られているイエスの言葉は、この町の当時の有様を反映していると言うことができます。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15〜16節)
ここに語られている主イエスの言葉は大変厳しいものとなっています。ラオディキア教会の価値は主イエスにとってまるで「ぬるい水のようだ」と言うのです。熱いお湯ならお茶を入れることができます。冷たい水も清涼感で疲れた人々を癒すことができます。しかし、ぬるい水ではどうにもなりません。ぬるい水は役に立たないものを表すたとえで、その言葉の通り当時のラオディキア教会はキリストの身体である教会の機能を果たしていなかったのです。だからイエスは「あなたを口から吐き出す」とまで語っています。つまり「このままではラオディキア教会は必要ない」と主イエスは語っているのです。それでなぜ、ラオディキア教会はここまで厳しく主イエスから批判されなければなかったのでしょうか。その理由が次に続けて語られるイエスの言葉で判明します。
②神の助けを必要としない人々
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(17節)。
この教会の特徴はすでに十分に満ち足りてしまっていて、「これ以上自分には何も必要ない」と考えてしまっている点です。「自分の生活に満足しているならそれでいいではないか」と思う方もおられるかも知れません。しかし、ここで問題となるのは、自分の生活に満足し切っている彼らはいつの間にか神に何も求めない者となってしまっていたと言うことです。つまり、彼らの生活には神の助けは全く必要なくなっていたのです。
フォーサイスと言うイギリスの神学者は自分が完全な信仰生活に至ることを求める人々に対してこのような問いを向けています。「あなたの信仰生活があなたの思い通りになり、理想的な生活に完全に達したとしたら、そのとき、あなたにとってキリストの助けは必要なくなるのではないか…」。私たちの信仰生活の最終目標は自分が神の助けを必要としなくなることでは決してないのです。
しかし、ラオディキア教会の人々はすでにそのような境地に達してしまっていたと言えます。しかも、彼らは自分ではもう「何一つ必要なものはない」とまで考えていたのです。しかし、実は彼らは主イエスから見れば「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と言うのです。彼らは本当は自分が助けを必要としなければならないのにそれに気づいていません。もし、このままで彼らが自分の本当の姿に気づかないままならば、最後に大変な結末を迎えるしかありません。だからこそ、イエスはこの教会の人々が「悔い改める」(19節)ことを望んでいます。ラオディキア教会の人々が自分の本当の姿に気づき、そのために自分に助けを求めることをイエスは強く願っているのです。
3.揺らぐ心
①相手の言葉に揺らぐ私たちの心
先日、ある人からこんな話を聞きました。娘さんに「あなたのために神さまに祈っている」と言ったら、その娘さんが「神さまは一度も祈りに答えてくれたことがないじゃない」と言う答えが返って来たと言うのです。この方が娘さんの言葉を聞いてどのように反応されたのかはよく分かりませんでしたが。たぶん、私ならこんなことを言われたら感情的になってしまかも知れないと思いました。そうでなくても、何かを言い返してやりたいと思うはずです。しかし、よくよく考えてみるとこのような答えに自分が強く反応してしまうことの背景には、おそらく自分自身がその問いに対する正しい答えを持っていないと言うことがあるからではないでしょうか。
私たちが自分に対して何気なく発せられた他人の言葉を聞いて自分の心が揺らぐとき、実はその揺らぎは自分自身が正しい答えをまだ得ていなかったり、またその答えに対する確信を持っていないことが原因となる場合が多いのです。私たちは他人の言葉から自分の本当の姿が現れるのを恐れて、つい感情的な反応を示してしまったりするのです。ですからこのような時に大切なことはその相手を言い負かすことではなく、自分が今まで曖昧としてしまっていた問いに改めて向き合って、その問いに対する正しい答えを得ることですし、その答えに確信を持つ必要があるのです。
②真剣な問いを後回しにして生きることの弊害
最近の改革派神学校では大阪にある淀川キリスト教病院のホスピスに行って臨床牧会訓練を受ける機会があると言うことを聞いたことがあります。その実習に参加した人から、「この訓練はとても厳しかった」と言う感想を聞きました。この訓練では、たとえば死を間近にしている人の病床を訪問して声掛けをする実習があります。そんなとき「今日は天気がいいですね…」などと言う適当な挨拶をするだけで終わってしまうと、必ず後になってその様子を観察していた指導教官から厳しい指摘を受けると言うのです。「あなたはあのときに何で、適当な挨拶の言葉を語って終わらせたのか。あなたはそんな挨拶の言葉を使って死の現実と向き合おうとしている人から逃れようとしなのではないか…」。神学生はその指摘から病床の患者ではなく、その病床を訪れた自分自身が死と言う人生の大切な現実に向きあってこなかったことを知らされると言うのです。そしてこれは自分にとってとても厳しい体験だったと言うのです。
私たちは自分の人生にとって大切であると思われる問いに対して、その答えを求め続けて生きることができます。しかし、大半の人の場合にはそうではありません。先ほど取り上げた新聞の人生相談の回答者のように「そんなことは誰にも分からない」と片付けて、人生を送っていくこともできるのです。しかし、どんなに私たちがそのような問題を後回しにしたとしても、また忘れようとしたとしても、私たちの人生では必ずその問題に向き合わなければならない時がやって来るのです。自分の人生で答えを得なければならない問題をすべて後回しにしていたなら、いざと言うときになって私たちは混乱し、パニックになってしまうことになります。
確かに私たちが真剣になって自分の人生の目的を考えても、私たちはそれで金持ちになれるわけではありません。自分の死の問題に向き合ったとしても、物質的な豊かさを得る訳ではありません。しかし、これらの問いは私たちが自分の人生で答えなければならない大切な問いなのです。一時的にはうまく逃げられても、決してこの人生の問いから私たちは逃げ切ることはできないのです。
4.扉をたたく音に気付く
ラオディキア教会の人々に悔い改めを求めたイエスは続けて興味深い言葉を残しています。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20節)
私はこの御言葉を題材にして描かれた絵を以前に見たことがあります。扉の外側にキリストが灯りを持って立っています。そしてその家の扉を叩いています。不思議なことにこの扉の外側には扉を開くための取っ手がありません。ですからこの家の扉は家の内側からしか開けられないのです。だからもしこの家の主人が自分の家の扉を叩くキリストに気づいてその扉を開けるなら、彼はすぐにキリストと出会い、キリストとの親しい交わりに入ることができます。大切なことは扉を叩くキリストに気づき、自分でその扉を開いて、自分の家にキリストをお迎えすることです。
私たちにとって私たちが出会った人生の問いこそが、実は私たちの心の扉を叩き続けるキリストの働きかけではなのかも知れません。確かに、私たちが抱えている人生の問題に正しい答えを持っている人をこの世では見つけることができないかも知れません。だから多くの人は、「そんなことを考えても時間の無駄だ」と言う他ないのです。しかし、救い主イエス・キリストは違います。なぜなら、彼はここで「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(14節)と紹介されているからです。
私たちが私たちの抱える人生の問題にまた信仰の問題に真剣に向き合い、このイエス・キリストに答えを求めるなら、イエスは必ず聖書のみ言葉を通して正しい答えを私たちに与えてくださるのです。また、イエスは言葉だけではなく、私たちの心に聖霊を送って直接に働いてくださって、私たちに確かな信仰の確信と希望を与えてくださるのです。
ラオディキア教会の人々はこのイエス・キリストの働きかけに気づくことなく、自分は豊かで満ち足りていると思い込んでしまっていました。本当は貧して、何一つ正しい答えを持っていないのに、そのことに気づくことができなかったのです。しかし、主イエスはそのような教会の人々をも決して見捨てることがありませんでした。だからイエスは、彼らの心の扉を叩き続けてくださっているのです。私たちがこのキリストに気づいて心の扉を開くなら、私たちはキリストにあって豊かな者とされ、キリストにあって本当に満ち足りた者となることができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ヨハネの黙示録の著者は主イエスについてここでどのような方であると紹介していますか(14節)。
2.主イエスの言葉によると当時、ラオディキア教会の人々はどのような問題を抱えていたことが分かりますか(15〜17節)。
3.このようなラオディキア教会の人々に対して主イエスはどのようなことを勧めていますか(18〜19節)。
4.20節で主イエスは自分のどのような姿を紹介していますか。また、この黙示録を読む私たちにどのようなことを勧めていることがわかりますか。