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2021.3.14「取るに足りない僕」

ルカによる福音書17章1〜10節

1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。

2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。

3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。

4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


1.常識に反する聖書の教え

 北森喜蔵という神学者はある本の中で、私たちが聖書を読んでいて「これは理屈に合わない」、「どうも辻褄が合わない、矛盾しているのではないか…」と言うような感想を抱くような箇所に出会ったとき、その箇所を丁寧に読んで行くと、そこでキリスト教の大切な真理を知ることができると教えています。だから、面倒くさがらずに、理解が簡単ではないと思われる聖書の箇所ほど丁寧に読んで行くことが大切だと言うのです。

 今日のイエスのたとえ話の中には主人のために一生懸命働いた僕、つまり奴隷が主人にその仕事の報いを願ってはならないと教えられています。そのような場合はむしろ「自分はやるべきことをやっただけだ」と主人に言うべきだと語られているのです。私たちは自分のなした行為に正当な報いが与えられることを常に求めています。ある意味でその報いがあるから私たちは頑張れると言ってもよいのかも知れません。しかし、ここではその報いを求めることが禁じられているように思えます。おそらく、この主人と僕の関係は神と私たちの関係を表していると考えることができます。つまり、ここには私たちが日々、送っている信仰生活の意味が語られていると言ってよいのです。それでは神に報いを求めない信仰生活とはいったい、どのようなこと言っているのでしょうか。私たちは「報いがなければ意味がない」と短絡的に結論を出してしまうのではなく、このお話から私たちの信仰生活の意味について少し考えて見たいと思うのです。


2.小さい者をつまずかせる罪

①大きいか?小さいか?

 今日の聖書の箇所はイエスが別々のときに語られたいくつかのお話が集められて、記された箇所だと考えられています。なぜなら、他の福音書でもここに語られているお話が収録されていますが、その場合は前後関係がこの福音書とは全く違った箇所で紹介されているからです。どうやらこの福音書を記したルカはこれらのイエスのお話を「大きい、小さい」と言うテーマのもとにここに集めて読者に紹介しているようです。なぜなら、このお話の最初の箇所では「小さな者を大切に扱い、決して彼らをつまずかせてはならない」と言う教えが語られています。そして次には「信仰には大きい小さいは関係がない」、「小さな信仰があれば何でもできる」と言うことが教えられ、最後には主人と僕の関係の中で僕がやるべきことをやったとき「わたしどもは取るに足りない僕です」と主人に言いなさいと言うお話で終わっているからです。この「取るに足りない」と言う表現は「自分は小さな者」だと言っていることと同じ意味になります。このように、ここでは少しでも自分を「大きく」見せたい、大きくならないと自分は認めてもらえないと考える人間の常識に対して、神は「小さい者」たちに違った見方をしておられることが語られていると言えるのです。


②小さな者、役に立たない者

 さて私たちは普段、他人にどのように対応し、どのような態度を示しているでしょうか。つまり私たちはどのような人を特別に大切にして、もてなそうとするのでしょうか。それが最初のお話で問題となるポイントです。おそらく、私たちは自分にとって「役に立つ人」と考えられる人を大切にし、そうでない人は無視したり、適当に扱ってしまうはずです。お客が家にやって来たとき、私たちは瞬時に「この人は玄関先の挨拶で十分だ」とか、「家に上がってもらって、お茶をごちそうする」などいう判断して、それに見合った対応しているはずです。イエスがここで言っている「小さな者」とは、その世間の人が「自分には役に立たない、むしろ迷惑ばかりかけられる」と判断するような人のことを言っているのです。しかしイエスはそのような人を適当にあつかって、その人を「つまずかせる」ようなことをしたら、それは大きな罪を犯すことになると私たちに教えているのです。

 ここで語られる「つまずき」と言う行為は、その人の語った言葉やなした行為によって、第三者が信仰を失ってしまったり、神から離れてしまうと言った特別な行為を指す言葉です。それではなぜ、イエスは小さな者たちをつまずかせることを重大な罪と教えているのでしょうか。それは神がこのような小さな者たちを大切にしてくださっているからです。聖書を読むとこのお話はイエスの弟子たち「使徒」たち向かって語られていることが分かります。だからイエスは小さな者を大切に扱ってくださる神の御業が、その弟子たちの行為を通して現れことを願われているのです。だから、「小さな者」たちがたとえ世間からは「役に立たない者」と判断されていたとしても、イエスの弟子たちは彼らを神が大切にしておられることを、自らの行動を通して示す必要があったのです。だからイエスはこのようなお話をされたと考えることができます。


3.小さな信仰の力

 さて次にイエスは弟子たちに兄弟、つまり自分の信仰の仲間が自分に対して罪を犯した場合にどのようにその人を取り扱うべきかを教えています。まず、罪を犯した兄弟を「戒める」と言うことが語られています。これはその人を懲らしめたり、罰を与えるためではなく、むしろ罪を犯した本人が正しい道に戻るために行われるものです。その上で、イエスは大変に実行するには難しいことを弟子たちに向かって語ります。

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(4節)

 日本にも「仏の顔も三度まで」と言うことわざがあります。どんなに温厚な人物にも、その我慢には限度があると言うことがこの言葉には込められています。私たちはこの前、イエスが弟子のペトロに「七の七十倍まで赦しなさい」(マタイ18章22節)と教えたことを学びました。ここではその赦しの数がだいぶ減っているように見えます。しかしよく読むとイエスは「一日に七回」とここでは教えているのです。おそらく、私たちがこんなことを体験したら「今、教えたばかりではないか…」と堪忍袋の緒が切れて癇癪を起してしまうに違いありません。だからこそ、弟子たちはイエスに「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と願う必要があったのです。「そんなことは今の自分の力では到底無理だ」と彼らは考えたからです。だから彼らはこう言わざるを得なかったのです。しかし、その弟子たちに対してイエスは次のように答えています。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(6節)

 私たちは自分の目標とすることを達成するために、毎日トレーニングをして自分を鍛えて、自分に力をつけようとします。このときの弟子たちも信仰をそのようなものと理解していたようです。「自分の信仰がもっと大きくなれば、自分にもそれができる」と考えたのです。しかし、イエスは「信仰は大小が問題なのではない」とここで教えています。どんな小さな信仰でも「からし種」のような信仰があればそれで十分に問題に対処できると教えているのです。

 それはどうしてでしょうか。なぜなら、信仰は私たちが作り出すものではなく、神が私たち与えてくださる賜物だからです。信仰が人間の作り出すものなら、その人間の技量に応じて大小の差が生まれます。しかし、信仰は違います。信仰は神が私たちに与えてくださったものなのです。だから、「あなたたちが神からその信仰をいただいているなら、それで十分だ」とイエスはここで教えてくださっているのです。そしてもし私たちがこの信仰の事実に気づくなら、私たちの信仰生活は大きく変わっていくはずなのです。なぜなら、私たちは自分の力ではなく神の力によって毎日の信仰生活を生かされているからです。


4.わたしはとるに足りない僕

①それができたのは自分の力ではない

 そして最後に語られる主人と僕のたとえ話もこれまでのお話を踏まえて読んでいくなら、イエスがここで私たちに何を教えようとしてくださっているかが分かるようになります。

 僕は主人のために一生懸命に働いています。もし、僕がここで「こんなにがんばって自分は働いたのだから、主人は私の働きを正しく評価して、褒めてくれるべきだ。自分の働きにふさわしい報いを与えてくれるのが当たり前だ」と考えるとしたらどういうことになるのでしょうか。

 私たちは今、私たちの信仰は神から与えられた賜物であると言うことを学びました。ですから私たちの信仰生活が成り立つとしたら、その神の力が私たちの上に働いてくださるからなのです。しかし、自分の働きに対する報いを望む人の思いには、信仰は自分の力と言う考え方あるのです。だから、そのような人は何をしても「自分ががんばってそれをした」、「自分の努力があったからこそ、こうなった」と言う思いで生きています。だから、その自分の努力に見合った報いが欲しいと思わざるを得ないのです。しかし、イエスのさきほどの教えに従えば、その考え方は正しくないのです。なぜなら、私たちが毎日無事に信仰生活を送ることができるのは、私たちが努力したり、自分ががんばることができるのはすべて神の助けによるものだからです。だから、むしろ私たちが信仰生活を送ることができたとしたら、それを助けてくださった神に感謝をささげ、神の御名を褒めたたえるべきなのです。

 私たちがこの事実に気づくことはとても大切です。もし、自分の信仰生活が自分の力や能力によって成り立っているとしたら、その力には必ず限界があります。そしていつかは消滅してしまう可能性があるのです。しかし、私たちの信仰生活が神の力、信仰によって成り立っているとしたらそうではありません。神の力に限界はないからです。また神の力が消えてなくなってしまうことはないからです。だから私たちの信仰生活の確かな保証は私たちに信仰を通して与えられる神の力にあると言えるのです。


②小さな者を愛される神

 私たちはこの主人と僕のたとえ話を感がるときに、最初の「小さな者」を大切に扱われる神の御心を考えてみる必要があります。なぜなら、自分の努力によって自分に対する正当な評価を得ようとする私たちの心理には、「小さな者ではいけない、少しでも大きくならなければ」と言う思いが隠されているからです。確かに私たちが普段生きている職場や学校では、むしろこの考え方こそが正しいと言われているはずです。そして激しい 生存競争の勝利者だけが人々から賞賛を受けることができるのです。しかし、神と私たちとの関係においては、この考え方はふさわしくありません。なぜなら、神は私たちがたとえ「小さな者」であったとしても、私たちを大切にしてくださる方だからです。

 イエス・キリストはその地上の生涯でこの「小さな者」たちを大切にされる神の御心を伝え続けました。だから当時の人々から「役に立たない」と評価されていた人とむしろ親しく親睦を深めました。また、同じように大人たちから「役に立たない」と考えられていた子どもたちも喜んで受け入れました。彼がイエスのために何かをしたから受け入れらたではありません。イエスは最初から彼らを認め、彼らを喜んで受け入れてくださったのです。

 私たちは神の前で自分を「大きく見せる」必要はありません。神は私たちのような「小さな者たち」をそのままで、受け容れてくださるからです。また、私たちの信仰は神から与えられた賜物です。だから、この信仰を通して神が「小さな者」であるような私たちを助け、導いてくさるのです。そして、この「小さな者」の本当の価値を信じる者は、その信仰生活に本当の喜びが与えられ、力が与えられるのです。

 聖書の中でイエスに出会った人々もそうでした(ルカ19章1〜10節)。徴税人のザアカイは少しでも自分を大きく見せるために財産を集め、高い地位を得ようとしました。その上で、人々の上に行こうとして木の上にまで登ったのです。しかし、そのザアカイをイエスが認めてくださり、受け容れてくださったことを彼が知ったとき、彼の人生は大きく変わりました。彼は進んで自分から木から降りて、イエスに従い、その上で自分の財産を貧しい人に施す決心をします。聖書はこの出来事を「ザアカイの努力の結果だ」とは言っていません。神が働いてくださったから、このような出来事がザアカイの人生に起こったのです。同じように、「小さな者」を受け入れてくださる神の愛を知り、その神を信じる者の人生は、その神の力によって大きく変わります。そしてイエスはそのことを私たちに教えるために今日のお話をされていると考えることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは「小さな者の一人をつまずかせる」ことの重大さをどのような言葉で表現してくださいましたか(1〜2節)。

2.イエスは「兄弟が罪を犯したら」、どのようにすべきだとここで教えていますか(3〜4節)。

3.使徒たちはどうして「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願ったのでしょうか。その弟子たちにイエスは何と答えられましたか(5〜6節)。

4.イエスは奴隷が一日の仕事を終えて主人の家に帰ってきたときに、何をすべきであると教えていますか(7〜8節)

5.このたとえ話が私たちと神との関係を表しているとしたら、私たちはここから自分の信仰生活について何を学ぶことができますか。

2021.3.14「取るに足りない僕」