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2021.3.28「第七の封印が開かれるとき」

ヨハネの黙示録8章1〜13節

1 小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。

2 そして、わたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。

3 また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。

4 香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。

5 それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった。

6 さて、七つのラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をした。

7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。

8 第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、

9 また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。

10 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。

11 この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。

12 第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。

13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」


1.地球を滅ぼすことのできる力を作り出した人間

 今日の黙示録8章の内容の中で最近になって多くの人の関心を集めた言葉があります。それは10節で「第三の天使がラッパを吹く」ことによって起こった出来事です。黙示録は燃えるような星が地上に落ちて、川の水を苦よもぎのように苦くしたことを伝えています。そしてこの水の汚染によって多くの人の命が奪われたと語っているのです(10〜11節)。ここで「苦よもぎ」と呼ばれるいる言葉をロシア語に直すと「チェルノブイリ」となるのだそうです。つまり、この黙示録の言葉は1986年にウクライナのチェルノブイリで起こった原発事故を予言しているものだと言うことで多くの人を騒がせる話題となったのです。確かにチェルノブイリの原発事故によってたくさんの死傷者が生まれました。またその際に起こった核汚染によって今もなお病に苦しんでいる人が多くいると言われています。黙示録が語るこの出来事がチェルノブイリの原発事故を指し示していると言う保証はどこにもありません。これはある意味で「都市伝説」の一つとして現代の人々に語り継がれていると言ってよいのです。

 ただ、私たちが忘れてはならないことは黙示録がこれまで神の厳しい裁きの出来事として語ってきた事柄の直接の原因はどこにあったかということです。黙示録が語る戦争、飢餓、疫病、さらには自然が巻き起こす天変地異さえも、実は私たち人間がその原因を作ってしまっていると言ってよいのです。神が天地を創造されたとき、神は世界を真に善いものとして造ってくださいました。そして神に造られた被造物は私たち人間を含めて本来、神から与えられた秩序の中で調和のとれた生活を送ることができたのです。ところが、その被造物世界を誤って用いてしまっているのが私たち人間の姿であることを聖書は明らかにしています。現代を生きる私たちにこの黙示録の語る「最後の出来事」が現実味を持って迫って来るのは、人類がすでに世界を滅ぼすことのできる力を持ってしまっているところにあります。核兵器のボタンを持っている世界の為政者の一人が、そのボタンを押せば、一瞬の内に人類が滅びる、私たちは今、そのような恐ろしい時代に生きていると言えるのです。


2.七番目の封印と天の沈黙

 私たちはこれまで神の右の手にあった七つの封印で閉じられた巻物が小羊であるイエス・キリストによってその封印の一つ一つが開かれていった出来事を学んで来ました。黙示録の6章の最後で第六番目の封印が解かれると驚くべき天変地異がこの世界に起こりました。ところがここで巻物の封印を解く話は中断され黙示録は一転して7章で神と小羊であるイエス・キリストを賛美し、礼拝をささげるために集められた大群衆の姿を紹介しているのです。そしてこの8章に入っていよいよ封印で閉じられた巻物の最後、第七の封印が小羊によって開かれるお話が始まります。今まで封印が解かれるたびに、神の厳しい裁きが地上に実現していったことを私たちは知っています。だから私たちは「第七の封印ではいったいどんなことが、どんな災いが起こるのだろう」と当然のように考えます。しかし、ここである意味で黙示録の読者たちを裏切るような出来事が語られます。それが「天は半時間ほど沈黙に包まれた」(1節)と言うヨハネの伝えた報告です。

 この「沈黙」にはどのような意味があると言うのでしょうか。多くの聖書解説者たちは「嵐の前の静けさ」と言う意味がこの沈黙には込められていると説明しています。なぜなら、神の厳しい裁きはこの第七の封印が解かれることで終わってしまう訳ではないからです。聖書はこの第七の封印が解かれたことがまるで合図であるかのように、次に「七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた」と言うヨハネが見た幻を語ります。そしてここに新たに登場した天使たちがラッパを吹くごとに、地上には前にも増してさらに厳しい神の裁きが実現して行くのです。

 ただある解説者はこの沈黙が「七番目の封印」が解かれることで始まったことに注意を向けています。なぜなら、旧約聖書の冒頭に記される神による天地創造の物語の中で、神が六日間の間ですべてのものを創造されたことを告げた後、七日目に「安息なさった」と言う出来事を伝えているからです(創世記2章1〜3節)。つまり、黙示録が伝える「七番目の封印」によって起こった天の沈黙はこの神の「安息」を意味していると考える人がいるのです。この神の安息は神がこれまで一生懸命に働いて疲れたから安息されたと言う意味のものではありません。神の安息はその神が造られた天地万物が完璧なものとして完成したことを私たち教えるためにあります。またその世界の創造者である神こそ、この世界の歴史を正しく導くことのできる唯一のお方であることも教えているのです。

 人間はこの神の被造物の中で特別な使命を神から与えられて創造されました。それは造られた世界を神のみ旨にふさわしく治め、管理する役割です(創世記1章28節)。残念ながら罪を犯した人間は神から与えられた特別な能力を失うことで、この大切な使命を果たすことができなくなってしまいました。そしてむしろ人類は自らの力で全世界を滅ぼす力を作り出すことで、逆説的ではありますが、神の裁きの御業に仕える者とされているとも言うことができるのです。

 天の沈黙は黙示録が伝える神の裁きがこの世界と人を滅ぼすために行われているのではなく、神が造られた世界の本来の素晴らしい姿を回復させるために行われることを教えます。神は小羊なるイエスを通してこの世界の再創造の御業を始められているのです。なぜなら神はご自分で造られた世界を無責任に放っておかれる方ではないからです。だから神は小羊なるイエス・キリストを通して、この世界を再び調和のとれた完全な世界に造り変えようとされているのです。


3.神の栄光をあらわす聖徒たちの祈り

 さて黙示録はこの後にその手に香炉を持って現れた別の天使の存在を語っています(3節)。この天使は聖徒たちの献げる祈りともに手に持っていた香炉の煙を天の玉座の前にある祭壇に献げます。最近、ユーチューブで中継されているカトリック教会の礼拝を見ました。そこには礼拝の司式者が入場するとき鎖でつるした香炉を持って歩いている姿が映し出されていました。司式者が香炉をゆらゆらと前後に動かすたびに、香の煙が礼拝堂の中に立ち上って行きます。キリストの十字架の完全な犠牲によってすべての犠牲が廃止されたと考えるプロテスタント教会の礼拝には祭壇がありません。だから香炉を使って香を焚くと言う習慣もありません。しかし、このとき香炉の香の煙と共に神にささげられた聖徒のたちの祈りは、今でも私たちの献げる礼拝の中で重要な役目を果たしています。

 宗教改革者のカルヴァンは祈りの重要性をその著作の中で何度も教えています。私たちが誤解してはならないことは私たちが神にささげる祈りの目的です。祈りは人間の願望を実現させるために行われるものではありません。なぜなら、祈りを通して実現するのは神による私たちの人間の救いの出来事であり、そしてそれを通して最終的にあらわされるのは神の栄光だからです。私たちは神に祈ることで、神の栄光をあらわすことができるのです。

 この後、香炉を持った天使はそれを祭壇の火で満たした上で、地上に投げつけると言う行動を起こします。これによって続けて「雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった」と黙示録は記しています。この出来事はこれから起こる七つのラッパの出来事が聖徒たちの祈りに答えるものとして実現することを私たちに教えていると言えます。そしてこの出来事を通して明らかにされるのも神の栄光であると言えるのです。


4.神の忍耐によって残された者たち

①出エジプト記の十の災いとの類似性

 次にラッパを持った七人の天使たちが、次々とそのラッパを吹くたびに、七つの封印の出来事にも増した厳しい神の裁きが地上に実現していく姿をヨハネは目撃していきます。まず、「第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた」と語られています。この第一のラッパの災いの対象は地上の植物たちです。そしてこの災いによって地上の三分の一の植物たちが灰と化してしまいます(7節)。

 また「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた」(8節)と語られています。この第二のラッパの災いの対象は海とそこに生きる魚たち、そしてその海を行きかう船舶です。これによってやはり三分の一の魚と船舶が犠牲になります。

 さらに「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた」(10節)と言われています。第三のラッパの災いの対象は川とそのもとになる水源です。そしてこの水源が汚染されることで、その水を頼りに生きている者たちの三分の一の命が奪われます。

 その次に「第四の天使がラッパを吹いた」後に起こるのは、太陽、星、月と言ったこの地上に光をもたらすものたちの三分の一が損なわれて、この地上が夜のような闇に閉ざされてしまうと言う災いです。この災いについては以前にも触れましたがこのヨハネの黙示録が書かれる時代に起こったポンペイのヴェスヴィオ火山の噴火の出来事が影響しているのではないかと考えられています。なぜならこの火山の噴火によってポンペイの町は夜のような闇に閉ざされたからです。もちろん黙示録の語っている出来事はこのヴェスヴィオ火山の噴火とは比べ物にならない災いを語っています。なぜならこの出来事によって地上の三分の一が光を失われてしまったからです。

 聖書の研究家の説明ではこのラッパの災いの描写は旧約聖書の出エジプト記に描かれている「十の災い」の出来事と類似性を持っていると語っています。この災いのときもナイル川の水が血に変わったり、エジプト全体が闇に閉ざされると言う出来事が起こりました。この十の災いは神を信じず、イスラエルの民を解放しようとしない頑なな心を持ったエジプトの王のために引き起こされたものと言うことができます。そのような意味では、この黙示録が示す災いもまた、神を信じないローマの頑なな心を持った支配者たちに対する裁きであると言えます。そして神が十の災いを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出したように、キリストを信じる者をそのすべての敵から解放する御業が黙示録に語られている災いを通して実現していると考えることができるのです。

 神の裁きの目的は神に敵対する者たちを滅ぼすことによって、神を信じて生きる私たちをその支配から解放して、私たちに自由を与えるためにあることを黙示録は教えているのです。


②神の忍耐と希望

 また、ここで下される裁きによって犠牲となる者たちがすべて「三分の一」と限定されているところにも私たちは注目したいと思います。なぜなら、このような厳しい裁きにも関わらずなお「三分の二」の人間やそのほかの被造物が残されているからです。かつて、エルサレムにあったシロアムの塔という建物が倒壊して、その下敷きになって十八人が死亡すると言う事件が起こりました(ルカ13章4〜5節)。こんなとき災害の犠牲になった人は「運のなかった人」として考えます。しかしイエスはこの出来事を別の味方で解説します。その出来事を通して私たちに求められているのは「悔い改め」だとイエスは教えるのです。黙示録の語る厳しい災いにも関わらずなお神が「三分の二」を残された意味は、残された者たちが悔い改めて、神に救いを求めるためにあると言うのです。

 聖書が教える神の姿はどこまでも忍耐して、私たち人間が悔い改めることを待っています。前回の箇所でも「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(7章3節)と言う天使の言葉が語られていたように、私たちが守られているのは私たちを救おうとする神の御業が続いていて、そのために神が忍耐されているからです。だからこそ、私たちはこの機会を逃すことなく、神に悔い改めを示す必要があるのです。

 また、私たちはこの神の忍耐に比べて、自分が忍耐することのできない弱さを持っていることに気づかされます。私たちは簡単に他人に対しても、また自分に対しても見切りをつけて「もうだめだ」と判断してしまう過ちを犯し続けているからです。そのような意味で、この神の忍耐はこの世界にもまた、私たちの人生にもまだ希望が残されていることを示すものだとも言えます。神が待ってくださっているのですから、私たちが「もう希望はない」とは言えないからです。

 私たちはこの神の忍耐を思い、私たちにも神が忍耐の賜物を与えてくださることを祈り求めたいと思います。そしてこの世界になお希望が残されていること、私たちの人生には希望が残されていることを聖書を通して語り伝えて行きたいのです。このように私たちはこの黙示録の伝える物語を通して、神が私たちを地上に残してくださっていることの意味を学ぶことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.小羊によって第七の封印が開いたとき、どのようなことがそこで起こりましたか。さらにヨハネはそのときどのような者たちが立っているのを目撃しましたか(1〜2節)

2.次にヨハネはそこで「別の天使が来て」、何をする姿を目撃しましたか(3〜5節)

3.第一の天使がラッパを吹いたとき、どのようなことが起こりましたか(7節)。

4.第二の天使がラッパを吹いたときにはどのようなことが起こりましたか(8〜9節)。

5.第三の天使がラッパを吹いたときにはどのようなことが起こりましたか(10〜11節)。

6.第四の天使がラッパを吹いたときにはどのようなことが起こりましたか。ヨハネはそのときに現れた一羽の鷲が何を大声で言っているのを聞きましたか。

2021.3.28「第七の封印が開かれるとき」