2021.4.18「滅ぼす者の到来」 YouTube
ヨハネの黙示録9章1〜11節
1 第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、
2 それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
3 そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。
5 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。
6 この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。
7 さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。
8 また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。
9 また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。
10 更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。
11 いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。
1.黙示録の書かれた目的を理解する
①好奇心を満たす対象とされた黙示録
今週もヨハネの黙示録の言葉から皆さんと共に学んで見たいと思います。今までこのヨハネの黙示録を学んで来て、皆さんもお気づきだと思いますが、黙示録は人々の理解を妨げるような独特な表現スタイルを持って記されていると言えます。ですから、意外と多くの人にこの書物は敬遠されていて、長い信仰生活を送っている人も、このヨハネの黙示録を詳しく読んだことがないと言う方もおられるくらいです。私もこのように説教のテキストとして取り上げてお話をすることになって、この黙示録の言葉を今までになく詳しく読む機会が与えられました。そのようにして黙示録の言葉を改めて読み返してみると、私はあることに気づきました。それは欧米のドラマや映画の中に、この黙示録の言葉が題材として作られているものが多いと言う点です。特にアメリカなどで作られたオカルトや超自然現象を扱うようなドラマには必ず、この黙示録に登場する言葉が用いられているように思えます。もちろん、これらのドラマは黙示録の正しい理解を教えるのではなく、視聴者たちの好奇心を満たすような突飛な解釈が施されています。おそらくこのような映画やドラマを見れば見るほど、黙示録に対する人々の誤解が深まって行くのではないかと思われるのです。そのような意味で、黙示録は多くの人々の好奇心を満たすために恰好の餌食とされ、被害者となっていると考えて良いのかも知れません。
②黙示録の書かれた目的
この黙示録を読むとき、私たちが忘れてはいけないことは、この黙示録が何のために書かれたのかと言うことです。どうして神はこのような黙示をヨハネに見せてくださったのでしょうか。私たちは黙示録の書かれた目的を正しく理解した上で、この黙示録の言葉を読んで行く必要があるのです。それではこの黙示録は私たちに何を教え、何を示そうとしているのでしょうか。その第一は私たちに真の希望を示すことにあります。この黙示録を記したヨハネはこの当時起こったローマ帝国の激しいキリスト教迫害の中に生きていました。このローマの迫害の中で、命がけで信仰を守り通すことがヨハネやその信仰の仲間たちには求められていたのです。終わることのない迫害の嵐の中で彼らは自分たちの将来に対する不安を抱いていたはずです。その彼らに神が幻を通して示したことはやがて実現する神の完全な勝利の姿です。この神の勝利に対して、彼らを今、苦しめ続けているローマの権力には希望がありません。彼らに残されている時間は後、わずかしか無いのです。このようにヨハネの黙示録はキリストを信じて生きる者に確かな希望を示すことで、彼らに励ましと慰めを与えると言う大切な役目を持っているのです。
さらに第二に、ヨハネの黙示録はキリストを信じて生きるものに、将来に対する希望を示すだけではなく、今、彼らが何を大切にして生きるべきかを教える大切な役目を持っています。この黙示録が示したように神に反するこの世の栄華が神の裁きの前で跡形もなく消え去る運命だとしたら、私たちは今、何を大切にして生きるべきなのでしょうか。私たちのこの地上の人生に残された大切な時間を何のために使う必要があるのでしょうか。黙示録はキリストを信じて生きることを私たちに求めています。なぜなら、神の厳しい裁きの前で跡形もなく消え去ってしまうこの世の栄華とは違い、私たちの信仰は決して無くなりはしないからです。むしろキリストを信じて生きる私たちには永遠の命が神から与えられるのです。私たちはこのように黙示録の書かれた目的を理解しながら、この書物に書かれた一つ一つの言葉に耳を傾けて行く必要があると言えるのです。
2.第五の天使がラッパを吹く
さて、この黙示録は神の右の手に置かれた巻物の封印が子羊であるキリストによってすべて解かれた後、今度は七つのラッパを持った七人の天使たちが登場する幻を語ります(8章8節)。そしてこの天使たちが一人一人ラッパを吹くことによって、この地上には様々な災いが起こります。黙示録はこの災いのすべてが神の厳しい裁きによって起こっていることを私たちに教えるとともに、この厳しい裁きがさらに地上に続けて起こることを預言しています。8章の最後には一羽の鷲が空高く飛びながら、「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに」と語る姿が記されています。そして今日の部分ではいよいよ第五の天使がラッパを吹くことで起こった出来事が明らかにされています。
「第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ(ていた)」(1節)。
星が天から地上に落ちて来たとここでは語られていますが、この星は単なる流れ星のようなものではなく、「底なしの淵に通じる穴を開く鍵」を持っていると言われていることから、むしろ人格を持った何らかの存在であることが分かります。そのためキリスト教会はこの星を神に背いて天から追放された堕天使、つまり悪魔であると考えて来たようです。そして黙示録はこの悪魔がこの地上で何をしようとしているのかを教えていると言うのです。
更にこの後、この星の持つ鍵によって、底なしの穴が開かれたことが語られます。ここでの表現には当時の人々が持っていた世界観が反映されていると考えられています。以前にもお話したように当時の人々はこの世界が球体ではなく、平らな地面で出来ていると考えていました。そしてその平らな地面の上には天があり、地面の下には「底なしの淵」があると考えていたようなのです。この「底なしの淵」にはこの世の人々を神から引き離そうとする悪魔に仕える、無数の悪霊が群れをなして閉じ込められていると信じて来たのです。さらに当時の人々はこの「底なしの淵」を閉ざす扉が開かれるたびに、地上に不幸な出来事が起こるとも考えていました。それまで平穏無事に過ぎて行っていた日常を壊すように、不幸な出来事が起こるのはすべてこの「底なしの淵」が開かれ、そこから悪霊たちが飛び出して来た結果だと当時の人々は考えたのです。
3.死が逃げる苦しみ
さてこのとき天から落ちて来た悪魔によって「底なしの淵」の穴が開くと、そこから黒々とした煙が立ち上り日の光を隠して、地上は暗闇に閉ざされてしまいます。そしてその穴からいなごの群れが地上に上ってきたと言うのです。いなごは出エジプト記に記されているエジプトに下さられた十の災いの八つ目の災いにも登場しています(出エジプト10章1〜20節)。このときエジプト全土をいなごの群れが襲い、地のすべての植物を残らず食い尽くすと言いう出来事が起こりました。
しかし、ここに登場するいなごは出エジプト記に登場するいなごとは違って、「地に住むさそりのような力が与えられた」(3節)と説明されています。しかもこのいなごの攻撃の対象も、地上に生える植物や緑ではないのです。その攻撃の対象は「額に刻印を押されていない人」(4節)と説明されています。この刻印は神の僕たちの額に押される印であることを私たちは既に学びました(7章1〜8節)。つまり、このいなごたちの攻撃対象は神を信じることなく、むしろ神に逆らって生きてきた人々なのです。
ここで注目する表現はこのいなごに「さそりが持つような力を与えられた」とか、いなごたちが植物たちではなく「額に刻印の押されていない人々には害を加えてもよい、と言い渡された」と説明され、さらに「五か月の間、苦しめることを許された」と彼らのすべての行動が、彼らはではない他の存在によって許可されたり、制限を加えられている表現が使われていることです。これは悪魔もその手下である悪霊も神の許可がなければ、彼ら自らの意志だけでは何もできないことを示す表現であると言えます。
旧約聖書のヨブ記では「義人」と呼ばれたヨブに悪魔が様々な災いを下したことが記されています。悪魔はそのようにしてヨブの信仰が結局は自分自身に利害を得るためのものだと言うことを証明しようとしたのです。しかし、このときも悪魔はヨブを攻撃するために、神の許可を仰いでいます。神が許さなければ悪魔はヨブに何もすることができなかったのです。
黙示録はこのような幻を私たちに示すことで、地上に起こる災いの背後にも神の御心があることを私たちに教えようとしています。確かにその災いの直接の原因は人間を苦しめ、人間を神から引き離そうとする悪魔や悪霊の働きだとも考えることができます。しかし、神は彼らの悪しき企みをもご自身の計画の中に用いることができることを私たちはここから学ぶことができるのです。
さらにもう一つ、この黙示録の中で登場する数字の秘密についてここからも学ぶことができるのです。それは「五」と言う数字です。今まで七とか十二が「完全を意味する数字だ」と言うことを私たちは学びました。この「五」はそれにくらべて、小さなこと、限りがあることを表す数字だと考えられているのです。つまり、このいなごによって起こされる出来事は「五か月の間」だけで終わります。いつまでも続くことなく、必ず終わりが訪れることを教える数字がこの「五」だと言えるのです。
この災いは必ず終わります。しかし、このいなごのもたらす災いは、額に刻印を押されていない人々をそれでも徹底的に苦しめると言われています。一説によればこのいなごが持つさそりの力、つまりその毒は刺された人に強烈な痛みを引き起こさせる反面、死に至らしめるようなものではないと言われています。ここでもいなごの持つさそりの毒に苦しめられる人々は決して死ぬことがありません。しかし、聖書の言葉によればそれは死ぬよりも苦しいものだと言うのです。
「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。」(6節)
死が私たちの人生から苦しみを取り去ることはでません。聖書はそのことをここではっきりと語っています。私たちを救うものは「死」ではなく、私たちが悔い改めて、神を信じ、神と共に生きることにあると教えているのです。なぜなら、イエス・キリストに救われて、その額に刻印を押された者を神はご自分の僕として必ず守ってくださるからです。
4.破壊者としての王
最後にこのように地上に災いをもたらしたいなごの正体を黙示録は次のような名前を挙げて説明しています。
「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。」(11節)
ここで記されている「王」はローマ皇帝に対して用いられた言葉で、さらにギリシャ語でアポリオン、この意味は「破壊者」と言う意味です。このアポリオンと言う言葉はギリシャ神話に登場する神「アポロン」を指していると考えられています。当時、キリスト教会を激しく迫害していたローマ皇帝ドミティアヌスはこのアポロンを好んで崇拝していたと言われています。つまり、この悪魔と悪霊の正体こそがローマ皇帝ドミティアヌスだと言うことを黙示録の言葉は特別な表現で読者たちに示そうとしているのです。さらに少し前に語られる「また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった」(9節)と言う表現は、ドミティアヌスに仕えるローマ兵とその戦車部隊をそのまま示しているとも考えることができます。
「ローマの平和」と言う言葉があります。ローマの支配によってその領土内に平和が実現し、商工業が栄え、また文化が発展するということが起こったからです。しかし、その「ローマの平和」はローマ皇帝が持つ巨大な軍事力によって作られ、また維持されていたと言えるのです。黙示録はこのローマの力を真の平和を実現させるものとは言っていません。むしろ「破壊者」、つまりこの地上に滅びをもたらすものであると語っているのです。
このことは過去に遡らなくても、現在の世界にも当てはまることなのかも知れません。政治家は「安全保障」と言う名前を使って軍事力の増強、さらには「核の傘」と言う呼び名で核兵器の力が国を守っているとまで語ります。しかし、どんなにその言葉遣いを変えても、結局はそれらのものは地上に本当の平和をもたらすものではありません。むしろ「破壊者」として地上を滅ぼす役割を担っているに過ぎないことを黙示録は私たちに教えているのです。
主イエス・キリストは死から甦られた日曜日の日に、エルサレムの一室に集まっていた弟子たちの真ん中に現れて「あなたがたに平和があるように」と言われました。このイエスの言葉は復活されたイエスこそが、私たちの人生に、また私たちの生きる世界に真の平和をもたらすことのできる唯一のお方であることを教えています。つまり黙示録は今日の箇所でも示しているように、様々な災いの出来事が地上に起こっても、私たちの希望がイエス・キリストにあること、またそのイエスを信じて生きる者の人生に真の平和がもたらされることを語っているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ヨハネは「第五の天使がラッパを吹いた」とき、どのようなことが地上で起こる幻を見ましたか(1節)。
2.この星が持っていた「底なしの淵に通じる穴を開く鍵」によってその穴が開かれると何が起こりましたか(2〜3節)。
3.穴から出て来たいなごはどのような姿をしていましたか。また、彼らには何をすることが許されていましたか(4〜5節)。
4.このいなごが与える苦痛を受けた人たちはどのようになりましたか(6節)。
5.さらにヨハネはこのいなごの姿がどのように見えたと語っていますか(7〜9節)
6.このいなごを使っていた底なしの淵の「王」はどのような呼び名で呼ばれていますか(11節)。