2021.4.25「それでも悔い改めない人々」 YouTube
ヨハネの黙示録9章12〜21節
12 第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。
13 第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。
14 その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。」
15 四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。
16 その騎兵の数は二億、わたしはその数を聞いた。
17 わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
18 その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。
19 馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。
20 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
21 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。
1.信仰の確信を得るために
①第一の災いが過ぎ去って、さらに厳しい災いがやって来る
今日も引き続き黙示録に記されているヨハネが見た幻から学びたいと思います。七人の天使が持った七つのラッパが吹かれるたびに地上には様々な災いが起こりました。先日は第五の天使がラッパを吹くと、一つの星が天から地上に落ちてきて、その星によって底なしの淵の穴の鍵が解かれました。そうするとその穴からいなごの群れが地上に飛び出して来て、そのいなごはさそりが持つ力を持っていて、人々を苦しめます。このいなごに苦しめられた者は「死にたいと願いながらも死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」という悲劇に見舞われます。この苦しみから逃れるためには「死」は何の役にも立ちません。なぜなら、神の裁きが巻き起こす苦しみから私たちが逃れることのできる唯一の方法は私たちが悔い改めて、神に立ち返ることだけだからです。
今日の箇所ではついに第六の天使が現れてラッパを吹くと言う幻が示されます。ヨハネはこの出来事を取り扱う前に次のような前置きの言葉を記しています。
「第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。」(12節)
どうやらヨハネはラッパを持った七人の天使によって起こる数々の災いを二段階に分けて見ているようです。第一の天使から第五の天使までが「第一の災い」、そしてここから始まる第六の天使と第七の天使がラッパを吹くことによって起こる災いは「第二の災い」と呼んでいるように思えるからです。ヨハネはこのような表現で、これから起こる災いが前の災いの破壊力をはるかに超えるものであることを私たちに教えようとしているのかも知れません。
②キリストによる完全な救いを否定する人々
ところで前回も私たちが学びましたように、私たちがこの黙示録の文章を読むためにはいくつかの点を注意しなければなりません。なぜなら、黙示録はこれから世界に起ころうとする出来事を人々に知らせるために記されたような単なる「予言」の書ではないからです。黙示録はあくまでも私たちのための信仰の書であって、神を信じて生きる信仰者を慰め、励ますために書かれたものです。ですから私たちは厳しい現実の中にあっても、この黙示録の言葉から確かな希望をいただくことができます。そしてさらに、私たちがこの厳しい現実の中で何を大切にして生きていけばよいのかを黙示録から学ぶことができるのです。人は混乱の中に置かれると、何をしてよいのか分からなくなってしまいます。「パニック」と言う言葉がありますが、不安に襲われて、落ち着きを失ってしまいます。そうなると人は誤った行動を犯し続けて、混乱はますます深刻になって行くのです。黙示録は信仰者をそのような混乱から救い出し、正しい道を歩ませるために書かれた書物なのです。
しかし、そのように正しい黙示録の読み方をしないで、むしろこの黙示録の言葉を使ってさらに人々を混乱の中に陥れようとする人々が長い教会の歴史の中では度々現れました。これらの人々は特に黙示録のメッセージから最後の裁きに耐えて生き残ることのできるものは「十四万四千人」と限られた人だけであること強調します。そしてその中に入るためには今のままの信仰生活では不十分だと言うのです。このように彼らは「キリストを信じる者はすべて救われる」と言う教会の教えを否定し、さらに終末の時に救われるためには特別なことをしなければならないと教えるのです。最近でもこのような教えに従った人々が特殊な集団生活を始めるという話題が世を騒がせたこともあります。私たちはこのように黙示録を解釈するような人々に注意を払わなければなりません。なぜなら、「キリストを信じるだけではだめだ」と言う主張はキリストの十字架による救いの完全性を否定するものとなるからです。キリストは私たちを救うために完全な御業を成し遂げてくださいました。ですから、キリスト教会は終末の備えを語る際でも、キリストを信じることだけが重要であり、それ以外のものは必要ないと教えて来たのです。そして黙示録はむしろ、このキリストによって実現した完全な救いの確かさを私たちに教えるものとして読む必要があるのです。そうすれば、私たちは苦難の連続のような現実の中にあっても、確かな信仰の確信を持って生きることができるようになるからです。
2.一つの声と四人の天使の出現
今日の箇所ではまず第六の天使がラッパを吹くと「神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた」(13節)と言う言葉が語られています。かつてヨハネはこの祭壇の下に殉教者たちの魂があるのを目撃しました(6章9節)、またこの祭壇に天使が香をささげると、その香の煙とともに聖なる者たちの祈りが立ち上る姿を見たのです(8章4節)。これらの記述から考えるとここで聞こえてきた「一つの声」は、殉教者たちを含めたすべての聖なる者たちの祈りに対して答えられる神の声であったことが分かります。 ある聖書解説者はこれから起ころうとする出来事が教会でささげられている祈りに対する神の答えてあると言うこと語っています。そして私たちは簡単にその神の答えを理解することも、受け容れることもできないだろうと語るのです。確かに私たちは何時も「御心が天で行われるように、地上でも行われますように」と祈り続けています。しかし、その答えとしてこの地上に訪れる出来事は厳しい「災い」であり、混乱だと聖書は語っているからです。
この祭壇の声は第六の天使に「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」(14節)と命じます。するとこの四人の天使は地上の三分の一の人々を殺すために解き放たれたと言うのです。ここに記される「ユーフラテス」はメソポタミア、つまり現在のイラクを流れ、ペルシャ湾にそそがれる川の名前です。私たちは「チグリス・ユーフラテス」と言う二つの川の名前を学校で習ってきたはずです。このユーフラテスはこの当時、ローマ帝国の領土の一番東の端に位置し、さらにその東にはパルティアと言う国が存在していました。この当時、このパルティアが東から強力な軍隊の力を使って何度もローマ帝国領に侵入すると言う事件が起こりました。ですから、ある人々はここで語られている災いはヨハネの生きていた当時にパルティア軍の侵略によって起こった殺戮を語っていると説明するのです。しかし、この災いは歴史上で起こったパルティア軍の侵略とは比べることができないほど悲惨なものでした、なぜならこの災いによって「人間の三分の一が殺された」と語られているからです。今まで、人類は二度の世界戦争を体験して来ましたが、その死者数も世界の人口の中ではわずかな割合であり、決して「三分の一」にはならないはずです。つまり、この死者の数は将来の核戦争を予期するようなものであると言えるかも知れません。
しかし、ここで語られている災いがいったい人間の歴史の中でいつ起こったのか、あるいはいつ起ころうとするものなのかを考えるよりもむしろ、この黙示録が私たちに教えたい大切なメッセージに私たちは心を向けなければなりません。なぜなら黙示録が私たちに一番考えて欲しい、また覚えて欲しいと思っている内容は次の言葉に記されているからです。
3.それでも悔い改めない人々
①教会の祈りに対する神の答え
「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」(20〜21節)
先ほど、どうしてこれらの災いが教会のささげ続ける祈りに対する神の答えなのかと言う問いに対して、この箇所ではこの問いに対する答えが記されていることが分かります。なぜなら、神はこれらの災いを通して人間に対して「悔い改め」を求めておられるからです。
それではなぜ人間は悔い改める必要があるのでしょうか。ここに語られている通り人間は真の神を礼拝することを止めて、悪霊や人間自身が作った偶像を礼拝しているからです。また、神の教えに反して、日々、悪を行い続けているからです。
人間の手によって作り出された偶像は聖書が教える通り「見ることも、聞くことも、歩くこともできない」のです。それでは、そのような偶像を頼って自分たち人間にどこによいことがあるのかと思う人もいるかも知れません。しかし、偶像は自分からは何もできないからこそ、人間にとって都合のよい存在となりえると言えるのです。偶像は決して、それを礼拝するものを裁くことはありません。人間の側がどんなに理不尽な要求を語っても、それに答えることはしませんが、それだけではなくその誤りを厳しく指摘して、悔い改めを迫ることはなどしないからです。しかし、聖書の語る真の神はそうではありません。神は人間の誤りを決して見逃すことはありません。人間の過ちを指摘し、人間がその過ちから悔い改めて、正しい道を進むこと勧める方なのです。しかし人間は真の神の語りかけに耳を傾けることを好みません。その語りかけの言葉に応じて、自分の罪を悔い改めることを拒否し続けます。そのような思いで生きている人間にとって、何もできない偶像こそが返って役に立つのです。そうすれば人間は今まで通りの生き方を貫き通すことができるからです。しかし、まことの神は自分の都合のために偶像を作り、その偶像を拝み続けて、自分勝手に生きようとする人間を決して見逃すことはされません。そしてここに示された災いの数々はその人間に対して、働きかける神の御業であると言えるのです。そのような意味で神は確かに教会の献げ続ける祈りに答えてくださっているとヨハネの黙示録は私たちに教えるのです。
②悔い改めは神の業
よく聖書のお話をしていて、「神がおられるならどうして世界には矛盾が存在し、悲惨な出来事が起こるのか」という抗議に近いような質問を私たちに尋ねる人がいます。そのような人の考えでは「神がおられれば、世界に問題が起こるはずがない」となるからです。しかし、聖書は世界の正しい秩序を破壊するのは偶像礼拝を行って、神に従うことをしない人間が原因であると教えています。そしてその上で起こる、様々な災いは人間に真の悔い改めを求める神の御業であるとも教えるのです。ところが聖書はこの神の働きかけにもかかわらず、人間は決して悔い改めることをしないと語っています。
先日もここで示されている数々の災いは出エジプト記で記される神がエジプトに下された「十の災い」と関連性があることを取り上げました。そしてさらに、今日の箇所で示されるように、神の驚くべき裁きの御業が目の前で実現しているのに、それを知っても決して悔い改めることをしない人間の姿は、出エジプト記に登場するファラオ、つまりエジプトの王の姿とよく似ていると言えるのです。
ファラオはモーセやアロンの手を通して示された真の神の驚くべき御業を体験します。しかし彼は決して悔い改めることをせず、心をますます頑なにして行きます。その姿がこの黙示録の中の人間の姿と全く同じなのです。出エジプト記はこのファラオが神によって心を頑なにされていたことを語っています(4章21節)。つまり「心を頑なにされる」とは罪を犯し続ける人間に対する神の正しい裁きの結果だと言えるのです。そう考えると罪を犯し続けるすべての人間は当然、神によって「心を頑なにされ」ているのです。これらの人々は特別に物わかりが悪いから心を頑なにしたのではありません。人間は本来、心が頑なにされていて悔い改めて神を信じることができないのです。
それでは私たちは今、なぜこのようにして悔い改めて、神を信じることができるようにされたのでしょうか。どうして真の神を礼拝することができるようになったのでしょうか。それは、キリストの救いの御業に基づいて、神が私たちに聖霊を遣わしてくださって、私たちの頑なな心を変えてくださったからです。私たちが救われたのは決して、私たちの方が他の人々よりも物わかりがよかったからでも、善人であったからでもないのです。ただ、神が私たちに触れてくださり、私たちを癒してくださったからこうなったのです。
聖書はそのような意味で人間が悔い改めると言う出来事は神の御業であり、その神が起こしてくださる奇跡だと教えているのです。確かに黙示録は神のどのような御業を見ても決して悔い改めることのできない人間の姿をここに描写しています。それではこの幻をここでヨハネを通して示されている私たちは何をここから何を学ぶべきなのでしょうか。「私たちはよかった。しかし、ここに登場する人たちは仕方がない、悔い改めないのだから」とあっさり読み飛ばしてよいのでしょうか。そうではありません。
聖書は私たちに次のように教えているのです。神が頑なな私たちの心を神が変えてくださったように、神は人間の心を変えて悔い改めに導く力を持っておられるのです。だから、私たちは神がすべての人間の心を変えてくださるようにと祈り続けなければなりません。聖書は私たちが何もしても未来は変わらないと言った「運命論」を教える書物では決してありません。そうではなく、聖書はやがて実現しようとする神の正しい裁きを前に、私たちが祈り続け、頑なな心を持った人々の心が神によって開かれて、彼らが悔い改めて、救いにあずかることができるようにと教えるのです。そうすれば私たちの献げる祈りも、天の祭壇から立ち上る香の煙と共に、神に届けられ、神の正しい御業がこの地上に実現することになるからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.第六の天使がラッパを吹くと、どこからどのような声が聞こえてきましたか(13〜14節)。
2.放たれた四人の天使たちは何を行いましたか(15〜19節)。
3.地上の人間の三分の一の命が奪われた後、殺されずに生き残った人々の反応はどのようなものでしたか(20〜21節)
4.彼らは本当だったら、どのような反応をここで示すべきだったのでしょうか。
5.どうして彼らは偶像礼拝を好み、その悪事から手を引くことができなかったのでしょうか。