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  4. 5月16日「二人の証人の死と命の息」

2021.5.16「二人の証人の死と命の息」 YouTube

ヨハネの黙示録11章1〜14節

1 それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。

2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。

3 わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」

4 この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

5 この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。

6 彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。

7 二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。

8 彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。

9 さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。

10 地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。

11 三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。

12 二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。

13 そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。

14 第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る。


1.神殿を測り、そこで礼拝している者を数えよ

①混乱の中でもパニックに陥らないヨハネ

 先日、私と同じように牧師をしている友人と久しぶりにメールでやりとりをすることがありました。そのとき、私は「最近、日曜日の礼拝の説教でヨハネの黙示録を語っているけれども、黙示録のメッセージを読みながら自分の言葉が見つけられなくて困っている…」と言った内容のメールを送りました。するとすぐに友人からこんなメールの返信が返ってきました。「私も以前、黙示録を説教したことがあるが、そのとき教会員に「怖い夢を見るようになった」と言われた」と言うのです。

 黙示録の中でヨハネが示す幻は確かに人々に恐怖を抱かせるような出来事が連続して語られています。ですからヨハネもこの幻を実際に神から示されたときに激しい恐怖を覚えたに違いありません。神の厳しい裁きとして地上に様々な災いが連続して起こり、多くの人々の命が奪われていく、そのような出来事を見て恐れを抱かない人はいないはずだからです。しかし、この黙示録を記したヨハネは神からこのような幻を見せられた時、恐怖に捕らわれてパニックに陥ってしまったのではありません。むしろ、この恐ろしい幻を見せられたヨハネは多くの人がパニックに陥っていく姿を示されながらも、ある意味で冷静にこの出来事の推移を見守って行きます。なぜなら、ヨハネはこれらの出来事の背後に神の御心があることを固く信じることができたからです。ヨハネはこのような地上の混乱の中にあっても神が約束してくださった救いを成し遂げてくださろうとしておられることを知っていました。今日のお話の部分でもヨハネがそのような確信を抱くようになった物語が語られています。ここには終末の出来事の中で、キリストを信じる者たちが神によってどのように守られているのか、また神はその信仰者一人一人をご自身の御業の中でどのように用いようとされているのか。そのことが教えられていると考えることができます。


②神殿とそこに集う人々

 今日の部分ではヨハネは神から杖のような物差しを与えられて、それを使って神殿の寸法やそこで礼拝している人の数を数えるように指示されています。先日、この礼拝の中でウエストミンスター小教理問答書(問95)を交読していたときに、その文章の中に「可見的教会」と言う言葉が記されていました。そのとき「いきなりこの言葉を読んだだけでは理解することが難しいな…」と思いました。この「可見的教会」をもっとわかりやすい日本語にすると「見える教会」と言う言葉になります。この「見える教会」とは具体的には私たちが今、所属している東川口教会であったり、またその東川口教会が属している日本キリスト改革派教会のことを言っていると理解してよいと思います。この世界には東川口教会や日本キリスト改革派教会以外にもたくさんの「見える教会」が存在しています。そして私たちはそのいずれかの「見える教会」のどこかに加入して信仰者としての生活を送っています。一方、私たちの信仰の内容を説明する神学用語ではこの「見える教会」に対して、「見えない教会」という言葉が使われることがあります。確かにこの世には様々な教派や教会が数多く存在しています。しかし、実際に私たちが礼拝している神はお一人であり、私たちを救ってくださるキリストもお一人なのです。教会や教派ごとにその礼拝する対象が変わってしまうことは決してありません。そのような意味で私たちがこの世で所属している教会はそれぞれ異なっていても、皆このお一人の神、お一人のキリストを礼拝する一つの教会の教会員とされています。これが「見えない教会」と呼ばれるものです。

 先週、私たちは韓国のホサナ教会の兄弟姉妹たちとネットを通して合同の礼拝をささげることができました。この礼拝が可能なのは私たちがたとえ日本人であっても、あるいは韓国人であってもお一人の神、お一人のキリストを礼拝する「見えない教会」の一員とされているからです。ヨハネが黙示録で記し、測りなさいと命じられた神殿とそこで礼拝する人々はこの「見えない教会」を表すものだと考えることできます。

 この黙示録の著者であるヨハネはこのときパトモスと言う島で囚人生活を送っていたことを私たちは学びました。ヨハネはこのとき「見える教会」の兄弟姉妹から引き離されて、この島で孤独な信仰生活を送っていたのです。そのヨハネに神は見えない教会の姿を示されています。世界の各地で神を礼拝し、その神のために生きようとしている信仰の仲間たちを幻を通してヨハネは神から見せていただいたのです。ですからこれは孤独なヨハネを慰めるために神が与えてくださった幻であったと考えることができます。

 ここでヨハネは神殿と神殿の内部の祭壇を測るように、またそこに集まる人々の数を数えるように命じられています。この「測る」と言う行為は、この神殿とそこに集まる人々が神に「測られている」、「数えられている」と言うことを教えています。つまり、彼らは神の計画に従って召された者たちであり、神から与えられた使命を遂行するために、神によって守られている人たちであると言うことが示されているのです。


2.「42か月」=三年半の意味

 ところがヨハネは神殿の外の庭は測らずにそのままにするようにと命じられています。なぜなら、そこは異邦人たちに与えられているからだと黙示録は説明しています。「異邦人」と言う言葉は聖書では本来ユダヤ人以外の外国人を指す言葉として用いられることが多いのです。しかしここで語られている「異邦人」は単なる外国人ではなくキリストを否定する人々であり、この黙示録の著者であるヨハネにとってはキリスト教会とその信徒たちを弾圧するローマ帝国に従う人々を指す言葉として使われていると考えることができます。この黙示録が記された時代、教会はこのローマ帝国の圧倒的な力と数によって取り囲まれてしまっていたのです。

 しかし、ヨハネはここで彼らが教会を弾圧することができる期間は「四十二か月」の間だけであると語っています。ここにも黙示録がよく用いる特殊な数字の表現が登場します。この「四十二か月」は年になおすと「三年半」となります。これは黙示録がよく用いる「七」と言う完全数のちょうど半分の数を示しており、むしろこの時間は限りがあると言うことを示しています。そして今実際にこのローマ帝国からの迫害を受けて苦しんでいる人には「この迫害は必ず終わる」と言う予言の言葉となっているのです。私たちは苦しみに出会うと「この苦しみはずっと続くのではないか」と思ってしまうことがあります。しかし、神はすでにこの試練が終わるときを定めてくださっています。ヨハネはそのことを「四十二か月」と言う言葉を使って黙示録の読者たちに教えようとしているのです。


3.立てられた二人の証人の活動

 先日、家内がある人から「教会の人はいいわね…。神さまが守ってくれるから、コロナウイルスにもかからないのでしょう?」と言われて困ったと話していました。すでに、日本でも教会に集まった人々を通してクラスターが発生したとニュースも伝えられるようになりました。「神様が守ってくださるから、病気のような不幸な出来事から信仰者は守られている」。そのような主張することは事実に反する発言であることが分かります。どうもこのような誤った主張や考え方には、「神が守ってくださる」ということについて人間の作り出した勝手な解釈が付けくわえられてしまったことに原因であると思われるのです。

 黙示録はこのあと神から遣わされた二人の証人について続けて語ります。そして黙示録はこの二人ついて次のような言葉を使って説明しています。

「この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。」(5〜6節)

 この二人の証人はいったい誰を指しているのかという議論が昔から存在します。しかしここではこの二人が誰かというよりは、この「二人」と言う人数に大切な意味があると考えた方がよいでしょう。なぜなら聖書は語られる証言の正しさを証明するためには最低二名の証人が必要だと教えるからです(コリント二13章1節)。ですから、かつてイエスは弟子たちを宣教旅行に派遣するために彼らを二人一組に分けて旅に遣わしました。二人と言う数は証人がその働きを全うするために必要な数と言ってよいのです。つまり、この二人の証人はたとえ教会が今、激しい迫害の中に置かれていたとしても、信仰者には神から与えられた使命を果たすことが求められていることを教えているのです。これまで何度も語りましたように、黙示録の語る幻を示された者には、一人でも多くの人々がこの厳しい神の裁きから免れるために人々に福音を伝える使命が与えられています。その使命はたとえ教会が厳しい迫害や試練の中にあったとしても変わることがないのです。

 黙示録はこの証人たちを神が徹底的に守ってくださることをここで教えています。ここから信仰者に与えられる「神の守り」は彼らに神から与えれる使命と深く関係していることが分かります。神の守りとは私たちが自分の都合よく生きるために与えられるものでありません。そうではなくて、私たちがたとえどのような状況に置かれたとしても、神から与えられた使命を果たすことができるようにしてくださるために与えられるものなのです。そのために神は実際に私たち一人一人の人生を導き、守ってくださり、私たちが与えられた使命を果たすことができるようにしてくださるのです。


4.神から命の息によって再び立ち上がる証人たち

 しかし、この二人の証人たちにもこの地上で与えられた使命を果たし終えたときに、その死がやってきます。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中で「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1章21節)と言う自分の人生観を語っています。自分はキリストのために生かされていると考えたパウロは、自分が死ぬことなく今、神によって生かされていることは自分にはまだ大切な使命が残されているからだと考えたのです。神に生かされている命に無意味なものは一つもありません。たとえ自分の目に見える力が衰えて、何もできなくなっていると感じても、神が生かしてくださるということは、その人にはまだ果たすべき大切な使命が残されていると言うことを示しているのです。そしてこの二人の証人は自分たちに与えられた使命を立派に果たし終えて、殉教の死を迎えています。しかし、彼らに与えられた使命はこれだけでなかったことが続けて語られるヨハネの幻から示されています。

 この二人に死に対してキリストに逆らい、その教会を弾圧し続けた人々は彼らの死体を墓に葬ることなく、大通りで人々の見世物にします。そしてそれを見た人々は「大いに喜び、贈り物をやりとりする」(10節)と言うのです。ある説教者はまるでクリスマスのプレゼント交換のようなことをして二人の証人を殺した人々は喜んでいると語っています。それではなぜ彼らは、二人の証人の死をこんなに喜んでいるのでしょうか。それは自分たちを苦しめた二人の証人の誤りが証明され、反対に彼らの言葉に従うことがなかった自分たちの正しさが明らかになったと考えたからです。

 しかし、彼らの喜びがぬか喜びでしかなかったことがすぐに証明されます。なぜなら、三日半の後に、命の息が神から出て、彼らを甦らせたからです。そしてこの二人の証人は自分たちを苦しめた敵の前で、天に昇って行ったと言うのです。その生前に神から与えられた使命を果たすために生きた二人の証人は、その死を通しても、神の力を証しする使命を果たすことになったのです。聖書はこの後、「そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた」(13節)と語っています。あれほど頑なにキリストの福音を受け入れることを拒否し続けた人々が、この二人の証人の死を通して示された神の力を目撃して、「天の神の栄光をたたえた」と言うのです。このことから神は私たちの死を通しても、素晴らしい御業を実現してくださることが分かります。

 ですからこのヨハネの証言を聞く私たちはもはや「わたしには何もできない。私には神の使命に答える力ない」と嘆く必要がないことがわかります。なぜなら、私たちの人生を用いて、その使命を果たすことができるようにしてくださる方は、全能の神であるからです。この神の力によって二人の証人の人生、そしてその死が用いられたように、神は私たちの人生を用いてくださり、その使命を果たすことがでるように私たちの人生を守り導いてくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネは杖のような物差しを受け取ったあと、何をするようにと命じられましたか(1節)。また、彼は何を測ってはならないと言われましたか(2節)。

2.神によって立てられた二人の証人はどのような姿をしていましたか。また、彼らは預言するために神からどのような権能を授けられましたか(4〜6節)。

3.その証が終わったあと二人はどのようになりましたか(7節)。彼らの死を喜んだ人々はどのようなことをしましたか(8〜10節)。

4.彼らが死んで三日半たったあと、どのようなことが起こりましたか(11〜12節)。このような情景を目撃した人々はどのようになりましたか(13節)。

2021.5.16「二人の証人の死と命の息」