2021.5.2「小さな巻物を食べるヨハネ」 YouTube
ヨハネの黙示録10章1〜11節
1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、
2 手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、
3 獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。
4 七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。
5 すると、海と地の上に立つのをわたしが見たあの天使が、/右手を天に上げ、
6 世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。
7 第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
8 すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」
9 そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10 わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
1.神が幻を見せてくださった意味
①失敗から学ぶことができない人類
今朝も続けてヨハネの黙示録の言葉から皆さんと共に学んで行きたいと思います。ラッパを持った七人の天使がそのラッパを吹くたびに地上に起こった数々の災いについて学んで来ました。そして前回は第六の天使がラッパを吹いたところまで学ぶことができました(9章12〜21節)。この第六の天使がラッパを吹くことによって起こった災いによって地上の四分の一の人々の命が奪われると言う悲劇が起こります。もし、この災いが戦争を指し示しているとしたら、一瞬の内にたくさんの人の命を奪うような核戦争の危機を語っているのかも知れないと言うことについても少し触れたと思います。
ご存知のように、日本は核戦争の悲劇を体験した世界で唯一の被爆国です。そのような意味で核兵器の恐ろしさを体験した国でありながら、同じような危険性を持っている原子力発電所を日本の各地に作り、あの福島の原発事故を再度経験すると言うことになりました。前回の黙示録の最後の部分で地球の四分の一の人々の命が奪われる悲劇を体験したのに、残された人々はそれでも自分が「悔い改める」ことを拒み続けたと言うお話が語られていました。しかし、これはある意味不思議なことではないことを私たちは自分たちの経験を通しても理解することが出来るのかも知れません。なぜなら人類はたくさんの人々の命を奪うような悲劇を何度も体験しながらも、そこから積極的に学ぶことなく、同じ悲劇を繰り返しているところがあるからです。そのような意味で黙示録の幻が明らかにする人類の姿は極めて現実的なものであると言っていいのだと思います。
②私たちに与えられている使命
ただ、ここで私たちが注意しなければならないことは、大変な悲劇を体験しながらも悔い改めようとはしない人々を語る黙示録の記事を読んで、「私たちは既に悔い改めて神を信じる者とされているから…」と、このような人々と自分は無関係だと考えてしまってよいのかと言う点があります。前回も学びましたように神が世の終わりを示すような不思議な幻をヨハネに見せて下さったのは、「これから起こる出来事はすべて既に決まってしまっているので、あなたには何もすることができない」と言うような「運命論」を教えるためではありません。そうではなく、このような悲劇が起こる前に、いまだ自らの過ちを悟ることなく、悔い改めの機会を逃しているような人々のために、私たちが彼らの心が悔い改めに導かれるように神に祈ること、またそのため福音を語り続けることが大切なことを教えていると言えるのです。
第二次世界大戦時に、ドイツのナチスと戦いキリスト教信仰を守ったドイツ告白教会のリーダーであったマルチン・ニーメラーと言う牧師がいました。その牧師は戦争が終わって、ナチスが崩壊した後、不思議な夢を見たと語っています。それはこの黙示録の著者であるヨハネが見た幻にも似ています。なぜなら、彼は夢の中で決して直視できない神々しいばかりの天の玉座の前に立たされていたからです。ニーメラーはこの玉座からこちらに向かって神の声が語りかけてくるのを聞きました。しかし、その声は彼ではなく、彼の後ろに立っているもう一人の人物に語りかけているものでした。玉座から語られる声はそのもう一人の人物に向かって「お前はなぜ、このようなことをしたのか」と問いかけます。次の瞬間その問いに答えるそのもう一人の人物の声を聞いてニーメラーは驚きました。それは自分たちを迫害し続けた張本人であるヒットラーの声であると分かったからです。そしてそのときヒットラーは一言だけ「だれも私に福音を語ってくれなかったのです」と答えたと言うのです。するとその次の瞬間、その玉座の声はニーメラーに向かって語りかけます。「なぜ、お前はこの男に福音を語ろうとしなかったのか」。ニーメラーの夢はここで終わっています。
この夢を見せられたニーメラーは生前のヒットラーと何度も論争を交える機会がありました、しかし、彼は自分にそのような機会が与えられていながらも、「あの男に福音を語ることができなかった」と言うことを思い出したのです。
黙示録の幻を見せられた者の使命は、いまだ福音を聞くことができずに、悔い改めることができない人々に福音を伝えることにあると言えます。今日の部分では黙示録の著者であるヨハネが神の言葉が記された巻物を食べるという行動が示されます。そしてこの行動はヨハネに与えられた福音伝道の使命と密接に関係していることが分かるのです。
2.もう一人の力強い
今日の箇所ではラッパを持った七番目の天使が現れる前に、「もう一人の力強い天使」が現れるところから始まっています。この天使がどのような存在なのかと言う点では様々な議論があります。しかしこの黙示録がこの天使を形容する際に用いている数々の用語が他の聖書の箇所では神の臨在や、イエス・キリストの姿を示すために使われるものが多いために、神やイエス・キリストの働きを代行する特別な務めを持って遣わされた天使であると考えることがふさわしいかも知れません。特にこの天使は「手に小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて(いた)」(2節)と言われています。この両足で「海と地を踏まえる」と言う表現は地上のすべての物をこの天使が支配していることを表しています。世界を支配しておられる神から遣わされた天使が、その神が世界を治める計画を書き記した巻物を携えてヨハネの前に出現したと考えることができます。
キリスト教は宗教学の分類では「啓示宗教」と呼ばれます。ですから私たち人間は神が明らかにしてくださらなければ、真理について何も知りえないと言う原則をキリスト教は持っているのです。人間がどんなに修行を積んで、それで自分の人間性を磨いたとしても、そこからは何の真理も見出すことができないと言うのが「啓示宗教」であるキリスト教の原則であると言えます。この点で、仏教や神道と言った日本人が知っている宗教とは大きく性格が違うのです。つまり、私たち人間は神が教えてくださらなければ、真理について何も知ることができない存在なのです。しかし、神はその人間にご自身の方から語りかけてくださり、その真理を教えてくださったのです。ですから聖書の中に記された言葉はすべて神の言葉であって、人間が何らかの悟りによって得た知識の集大成を示すものではありません。だからこそ、私たち人間は真理を知るために聖書の言葉に耳を傾ける必要があるのです。
3.もはや時がない
①神が私たちに聖書の言葉を与えてくださった
この天使が叫んだ時、ヨハネは七つの雷がそれぞれの声で語るのを聞いたと書いています。そしてヨハネはその雷が語った言葉を忘れてはならないと慌てて書物に書き留めようとしました。しかし天使は「それを書き留めてはいけない」とヨハネに命じています(4節)。この言葉から私たちに神が示してくださる真理は、神の計画の全容を余すことなく語るものではないと言うことが分かります。ヨハネによる福音書はその福音書の最後の部分で次のような言葉を書き記しています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21章25節)。
もし、神の御心のすべてを記したような世界も収めることのできない書物が残されたときしても、私たちにはその書物を読破するような力はありません。私の書斎にはたくさんの本が収納されていますが、私が今の時点で読み終えている本はほんの一部でしかありません。おそらく私の力では自分の持っている本のすべてを読破することはできないと思います。
人間の好奇心と言うのはとても旺盛で、いつも何かを知りたいと求めています。しかし、その好奇心を満たすことと、私たちが聖書を読むことには大きな違いがあります。なぜなら、聖書は私たちの好奇心を満たすために書かれたものではなくて、私たちを悔い改めさせ、神を信じる者とするために必要な知識を提供するために神が与えてくださったものだからです。つまり、私たちはアリストテレスやプラトンのような哲学者たちの提供する知識を知らなくても、聖書を読んでいれば神の救いにあずかることができますし、永遠の命をいただくことができるのです。
「神は天地万物を創造される前に、何をしていたのか?」。アウグスチヌスと言う神学者はユーモアを持ってこの質問に次のように答えました。「神が天地万物を創造される前には、そんな愚かな質問をする者たちのために、地獄を創造していた」。私たちは聖書が語っていることだけを学ぶ必要があります。そして聖書が語っていたいところを、私たちの愚かな知識を使って説明しようとしたり、補おうとするような過ちを犯さないように注意しなければならないのです。だからヨハネに天使が語ったように、「書き留めてはいけない」と語られる神の秘められた御心を私たちが推測する必要は全く無いのです。
②「もはや時がない」と言うことを知る大切さ
この天使はヨハネに対してこう語りました。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」(6〜7節)。「もはや時がない」と天使が語っているように私たちに残されている時間は後わずかだと言えるのです。ですから「余計なことをしている時間はない」と天使はヨハネに語ったことになります。第七の天使がラッパを吹くまでの時間、いえ、神が私たち人類を悔い改めさせるために残してくださった時間は後少ししかありません。だから私たちは決してその時間を無駄にしてはならないのです。
私たちの教会のメンバーであり、すでに天に帰られた一人の婦人の話を私はこの礼拝で何度も皆さんにお話してきました。その婦人は日曜日の礼拝に出席して説教を聞いているときは、まさにその説教を語る説教者を凝視するように、見つめ続けるような姿勢を保ち続ける方でした。私はその婦人の説教を聞く真剣な姿勢に圧倒されながら「どうしてそうできるのですか…?」と尋ねたことがあります。するとその婦人は「神さまの恵みで日曜日の礼拝に出られたのですから、そこで語られる神さまの言葉を一言も聞き逃したくないと思うからです」と答えられたのです。その婦人はその後すぐに病気のために天に召されました。おそらくその婦人は神が語られた「もはや時がない」と言う言葉を自覚しながら、残された時間を懸命に生きようとされたのだと思うのです。
4.小さな巻物を食べるヨハネ
ヨハネはこの後、天から聞こえる声に促されて天使の持つ「小さな巻物」を受け取ろうとしました(8節)。するとこの巻物を持っていた天使はヨハネに次のように語ったと言うのです。
「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」(9節)。
ヨハネはこの天使の勧めの言葉に従い、「小さな巻物」を受け取った後、その巻物を食べてしまいます。人間は食べ物を食べなければ生きてはいけません。宗教改革者のカルヴァンはイエス・キリストがご自身の体と血を示すためにパンとぶどう酒を用いて聖餐式を定め、それを私たちに守るように命じたことについて説明しています。食物がなければ、私たちは餓死してしまいます。食物を食べなければ私たちはそれ以上生きていけないのです。つまり、私たちは聖餐式を通してイエス・キリストの提供する恵みを受けていかなければ、信仰者として生きていけず、すぐに餓死してしまうと言うことを表すものだと言うのです。聖餐式のパンとぶどう酒は私たちの霊的な命が保たれるためにはイエス・キリストが必要であることはっきりと示すものなのです。
「小さな巻物を食べる」と言うことは、同じように神のみ言葉に私たちが耳を傾け、それを覚えて毎日生きることの大切さを教えています。食物の栄養が私たちの体の健康を保ち続けてくれるように、神のみ言葉は私たちの信仰生活を保ち、またその成長を促すものとなるからです。
親は成長途上にある子どもたちに「好き嫌いをせずに、バランスよく食べなさい」と言うことがあるかも知れません。ヨハネが感じたように神の言葉は私たちにとってある時は「蜜のように甘い」ものだと言うことができます。私たちはその「蜜のように甘い」神の言葉で心を励まされ、力づけられて生きることができるからです。しかし、神の言葉はいつも私たちにとって「蜜のように甘い」ものではありません。神の言葉は時には私たちの誤りを指摘し、悔い改めを迫るものとなるときがあります。そのようなとき神の言葉は私たちにとって「苦いもの」と感じることになるはずです。しかし、だからと言って私たちが自分にとって都合のよい聖書の箇所だけを拾い読みしても、それは私たちの信仰の成長にとってプラスとはならず、むしろマイナスとなってしまうのです。
私たちは神が明らかにされないことに関してはあえてそれを知る必要はありません。しかし、私たちが知るために、私たちが学ぶために神が聖書の中にわざわざ書き残してくださった言葉については、私たちは学び続ける必要があるのです。もちろん、暴飲暴食ではありませんが、聖書の言葉をただたくさん読めばよいと言うことではありません。私たちは聖霊の助けを受けながら、毎日少しずつ聖書の言葉に耳を傾けて行くとき、その言葉は私たちの信仰生活を支えるものとなって行くのです。天使は最後にこうヨハネに語っています。
「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」(11節)。
神が実現される終わりのときが来るまで、私たちには福音を伝えると言う使命が与えられています。しかし、その使命に生きるためにはヨハネが「小さな巻物」を食べたように、まず私たちが神の御言葉を食べ続けなければならないのです。そうすれば、聖霊が私たちの心に蓄えられたみ言葉を用いて私たちが福音を証ししなければならないときに、もっともふさわしい言葉を私たちに語らせてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ヨハネが目撃した「もう一人の力強い天使」はどのような姿をしていましたか。また、その天使は何を持っていましたか(1〜2節)。
2.その天使が「獅子が吠えるような大声」で叫んだ時、どんなことが起こりましたか(3節)。ヨハネはこのとき何をしようとしましたか。さらにそのヨハネに対して天から声は何を語りましたか(4節)。
3.この天使は天地を創造された神に対して誓った上で、ヨハネにどのようなことを語りましたか(6〜7節)。
4.ヨハネに再び語りかけた天からの声は彼に何をするように命じましたか(8節)。
5.天から聞こえて来た声に従って「小さな巻物をください」と言ったヨハネに天使は何を語りましたか(9節)。
6.天使の言葉どおりに巻物を食べたヨハネはそこで何を感じましたか(10節)。またヨハネはその後で自分に語りかけるどのような声をききましたか(11節)