2021.5.23「イエスが送ってくださる弁護者」 YouTube
ヨハネによる福音書16章4〜15節
4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
1.弟子たちの悲しみ
①目に見えない聖霊
今日は聖霊降臨日を記念する礼拝です。この聖霊降臨日は別の名前ではペンテコステとも呼ばれています。もともとこの「ペンテコステ」は「五旬祭」と言って、昔からユダヤ人の中で守られていたお祭りの日であったようです。しかし、今から2000年近い前にこのペンテコステの日にエルサレムに集まっていたイエスの弟子たちの上に聖霊が降臨されると言う出来事が起こります。そしてこの後、イエスの弟子たちは聖霊の働きによって、様々なところでイエス・キリストの福音を宣べ伝える働きを活発に行うようになりました。その結果、たくさんの人々が福音を受け入れて、教会に集められるという出来事が起こったのです。そのため、このペンテコステはキリスト教会が生まれた誕生日と言うこともできる日なのです。
今や世界の至るところでイエス・キリストの誕生をお祝いっするクリスマスが祝いされるようになりました。そしてこのクリスマスに次いで世界の人々に知られているキリスト教のお祭りはイエス・キリストの復活をお祝いするイースターであると言えます。日本ではまだまだイースターはクリスマスほど人気のあるお祭りではありませんが、それでも最近ではディズニーランドの催し物などでよく知られるようになりました。しかし、クリスマスやイースターに比べてこのペンテコステを知っている人はおそらく日本においてはほんのわずかでしかないかも知れません。この日本でペンテコステを知る人はキリスト教会に関係のある人に限られていると思われます。
このペンテコステがあまり多くの人に祝われることができない理由の一つとして考えられることは、このペンテコステの主役である聖霊の存在が多くの人に理解しづらいところがあるからかも知れません。まずこの「聖霊」はその言葉が表すように、「聖なる霊」と言うことになります。この「聖」と言う言葉は聖書では神が持っておられる性質を表す特別な意味で用いられます。ですから、聖霊は「神の霊」と呼び変えることができます。さらにこの「聖霊」の後半に部分の「霊」と言う言葉は目には見えない存在を表しています。つまり、聖霊は人間の目に見えない存在なのです。それではこの目に見えない存在である「聖霊」は私たちの信仰生活の中でどのような働きをされているのでしょうか。その働きを知るために今日はイエス・キリストご自身がこの聖霊についてご自分の弟子たちに語った言葉から、聖霊がどのような方であり、私たちの信仰生活の中でどのような重要な働きをしてくださっているのかについて皆さんと共に少し考えて見たいと思うのです。
②弟子たちの悲しみ
今日のヨハネによる福音書の聖書箇所はこの福音書の14章から始まるとても長いイエス・キリストが語られた説教の一部となっています。イエスはご自分が捕らえられ、十字架に掛けられる直前の晩に弟子たちをエルサレムの一室に集めて、彼らと食事を共にされました。その「最後の晩餐」と呼ばれる食事の席上でイエスが語られたお話をヨハネの福音書は詳しく記録しています。今日のテキストの中には「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」(6節)と言う言葉があります。この言葉は食事の席でイエスのお話を聞いていた弟子たちが、イエスがこれから自分たちから離れてどこかに行ってしまうと言うことを聞いた時の反応を表しています。彼らにとってイエスが自分たちの前からいなくなってしまうと言うことは重大なことだったのです。
先日、YouTubeで取り上げられていた日本のある大きな宗教団体を説明している動画を見ていて、とても気になったところがありました。それはこの団体についての問題ではなく、この動画を作った作者が宗教を「困ったときに必要なもの」と言う意味でしか理解していないと言うことでした。意外と日本人の多くの人は宗教をこのように理解しているところがあるようです。だからそういう人に私たちが「教会に行っている」とお話をすると「何か、大変なことがあったの…?」と聞き返されることがあるのです。しかし、これはとても偏った宗教について理解であると言えるのです。確かに、私たちが教会に行く動機の中には、「人生で自分の力では解決のつかない大きな問題にぶつかったから」ということが多いかも知れません。しかし、それならその問題が解決したらその人にとって教会や信仰は必要なくなるのかと言うとそうではありません。なぜなら、私たちにとって信仰とは私たちの人生を導くものと言ってよいからです。今までどのように生きて行けばよいのかわからなかった私たちがイエスを信じることによって生きる目的が与えられると言うことが起こりました。それだけではありません。私たちがイエスを信じて生きる信仰生活は今まで、自分の人生で味わうことのできなかった喜びをも与えられるのです。なぜなら、イエスが私たちと共にいてくださって、その喜びを与えてくださるからです。
このとき、弟子たちが悲しくなった理由は、自分の人生を導く方と信じ、そして日々の生活に今まで自分たちが味わうことができなかった喜びを与えてくださった主イエスが自分たちから離れてどこかに行ってしまうと聞いたからです。彼らはだから、「イエスがいなくなったら自分たちはどうしていけばよいのか」と考えて悲しみに襲われたのです。イエスに弟子とされて、そのイエスと今まで生活を共にしてきた弟子たちにとってイエスはそれほどまでに離れがたい存在となっていたのです。
2.弁護者の到来
弟子たちはこのときイエスが自分たちから離れてどこかに行ってしまうと言うことを聞いて悲しくなりました。それは弟子たちが「自分たちはイエスから置いてきぼりにされてしまう」と考えたからでしょう。しかし、イエスが弟子たちの前からいなくなってしまうのは、決してイエスが弟子たちのことを見限ったからではありません。しかし、イエスがこのときなされようとしたことは、弟子たちを見捨てることではありませんでした。むしろ、弟子たちとの絆をもっと深くして、たとえ何が起こってもその関係が断たれることのないようにするためだったのです。イエスはそのことについて次のように語られています。
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(7節)。
イエスが弟子たちの前から去っていくのは、弟子たちに「弁護者」を送るためだとここで語られています。この弁護者と言う言葉はギリシャ語で「そばに来て助けてくれる方」と言う意味を持った言葉です。この言葉が裁判で用いられると被告人の立場に立って弁護する役割を担う「弁護士」を指す言葉になります。イエスは弟子たちに何があっても困ることのないように「弁護者」を送ってくださると約束されています。そしてこの「弁護者」と呼ばれている方こそ、私たちが今日、学ぼうとしている「聖霊」というお方なのです。
イエスが語られたように「聖霊」は私たちのそばにいて私たちを助けてくださる方です。そしてその聖霊は復活され、天に昇られたイエスによって私たちの元に送られる方であると言えます。かつて地上におられたイエスはごく限られた場所と限られた人々にだけみ言葉を語り、その御業を表されました。私たちと同じような肉体を持っておられたイエスには、地上においてそのような制限があったのです。しかし、今は違います。私たちのために天に昇られたイエスは、そこから私たちのために「弁護者」である聖霊を送って、私たちを助けてくださるからです。ですから、私たちはイエスの助けを求めて何か特別な場所に行く必要はありません。私たちがどこにいてもイエスは、私たちのために聖霊を送ることで、私たちを助けてくださることができるからです。
3.真理を悟らせる
しかし、この聖霊は私たちにいつでも都合のよいことをしてくださる方ではありません。そのように聖霊の働きを誤解してしまうと、私たちは聖霊の存在を正しく理解することができなくなってしまいます。だからイエスはここで聖霊が「弁護者」としてどのように働くかについて詳しく説明しているのです。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(8節)。
最近、自分の部屋の照明の留め金が壊れて、とりつけている蛍光灯が落ちないようにビニールテープで補修していたのですが、このままにしておくといろいろと支障が起こるかもしれないと思うようになりました。そこで私は思い切って照明器具を取り替えることにしました。今まで気づきませんでしたが、今はとても手ごろな価格でLEDの照明器具が買えることが分かり、それを取り寄せて、自分の部屋に取り付けたのです。大きさは今までの半分くらいのものなのですが、取り付けて見て、その明るさにびっくりしてしまいました。私は自分の部屋がとても明るくなって喜んだのですが、明るくなって分かったことは意外と自分の部屋のあちこちにほこりがたまっていることです。今まで暗い照明の元ではきづかなかったのですが、明るくした途端、目立たなかったものが急に分かるようになったのです。結局、私は照明器具を取り換えた後、長い時間をかけて自分の部屋のほこりを掃除することになったのです。
私たちの教会の信仰告白の文集には「聖霊の照明」と言う言葉があります。この聖霊が私たちの心に光をあててくださると言う意味です。この聖霊の働きによって私たちにわかってくることがあります。それがまず、私たちの罪です。だから私たちはこの罪から救われるためにキリストの助けが必要であることが分かるようになります。さらに、私たちは義を知ることとなります。キリストが私たちのために十字架にかかって死んで復活され、天に昇られることによって、私たちが義とされて神の子とされることになったことを知るのです。さらに私たちはこの聖霊の働きによって、キリストによって義とされ神の子とされた者たちが、神の裁きから免れることができることを教えられます。しかし、この聖霊の照明を受けていないこの世の人々はそのことに気づきません。聖霊が働いてくださらなければ、これらのことを私たちは何一つ自分の力では理解することができないからです。
私が教会で求道生活を送っていたとき、「どうしたら自分は神に救われて新しくされることができるのだろうか」と言うことで真剣に悩んだことがありました。なぜなら、どの本を読んでも、それは神の業、聖霊の働きの結果であるとしか書かれていなかったからです。「それでは、その聖霊の働きを自分はどのようにしたら受けることができるのか…」と私は悩みを深くしたのです。そんな悩みを抱えていたときに、私はある本の中で「神の働きかけがなければ人間は自分が救われたいと願うことも、それを求めることもできない」と言う文章に出会いました。そしてそのとき、私は初めて「自分はすでに聖霊の働きを受けているからこそ、救いのことで真剣に悩むことができるようにされたのだ」と言うことが分かったのです。聖霊は私たちを救うために悩みを与え、私たちを聖書の言葉に導き、その答えてであるイエス・キリストを示してくださる方だと言えるのです。
4.イエスの霊
イエスはさらに弁護者である聖霊の働きについて次のように語っています。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(13節)。
ここで聖霊は「真理の霊」と呼ばれていて、私たちを導いて真理を悟らせてくださる方だと教えられています。ここで大切なことは聖書の語る真理とは何かということです。なぜなら、この真理はギリシャ哲学者たちが教えたような人間の論理とは全く違うからです。ヨハネは別の箇所で次のようなイエスの言葉を紹介しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)。ここで語れるように聖書の教える真理とはイエス・キリストご自身を指していることが分かります。つまり、私たちにとって聖霊とは「イエス・キリストの霊」であって、私たちをイエス・キリストに導く方だと言えるのです。
ですから次に語られる「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」と言う言葉は、この聖霊の働きの特徴を語っていると言えます。なぜなら、聖霊は私たちに何か別の新しい真理を教える方ではなく、聖書の言葉に記されたイエス・キリストの福音を私たちに教えてくださる働きをするからです。ですから、私たちが聖書の言葉を本当に知るためにはこの聖霊の助けが必ず必要となってくるのです。
このことは私たちの信仰生活とって大切なことを教えているとも言えます。なぜなら、私たちは毎日の信仰生活の中で聖書を読み続け、日曜日に教会の礼拝に出席しても、そこで聖書の言葉に耳を傾け続けているからです。「好きな本は何度でも読み返す」と言う人がいるかもしれません。しかし、私たちが生涯にわたって聖書に耳を傾け続けることができるのは、聖霊が私たちに働いてくださり、そのみ言葉を通して日々、新しいことを教えてくださるからです。その聖霊の働きによって、私たちはすでに読んだこと、聞いた聖書の言葉から新たな真理を悟ることができるようにされるのです。
昔、見た番組の中で100歳になるクリスチャンの老人が毎日聖書を読んで一日を始めるという姿が紹介されていました。そのときその老人は自分が毎日、聖書を読む理由について「自分は毎日、新しいことを聖書から教えていただいている」と語っていました。私たちにとって聖書の言葉が日々、新しい真理を教えるものとなるのは、この聖霊が私たちに働いてくださるからです。そして私たちは聖書の言葉を読むことでイエスとの絆を確かなものとすることができるのです。イエス・キリストはそのような恵みを私たちに与えてくださるために天に昇られたのです。そしてペンテコステはこの恵みが私たちの上に実現したことを祝う日だと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスはこのとき「自分はどこに行く」と言っていますか。この話を聞いて弟子たちはどのようになりましたか(4〜6節)。
2.イエスは自分が去ることによって、何が起こると弟子たちに説明されていますか(7節)。
3.イエスの語られた「弁護者」はどのようなことを弟子たちに明らかにすると言われていますか(8〜11節)。
4.それではイエスの語られる真理の霊が来るとき、弟子たちは何を理解することができるようになりますか(12〜15節)。
5.イエスの語られたこれらの言葉から、弟子たちがこのとき抱いた悲しみが無用なことであったことがどのようにして分かりますか。