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  4. 5月30日「第七の天使がラッパを吹く」

2021.5.30「第七の天使がラッパを吹く」 YouTube

ヨハネの黙示録11章15〜19節

15 さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」

16 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、

17 こう言った。「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。

18 異邦人たちは怒り狂い、/あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、/御名を畏れる者には、/小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、/地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。」

19 そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。


1.幻想か幻か?

①アルマゲドン

 最近、国際オリンピック委員会の関係者が「アルマゲドンが起こらない限り、東京オリンピックは開催する」と言うような発言をしてマスコミを騒がせています。日本人の多くは「アルマゲドン」と言われても、それが何なのか、ぴんと来ない人が多いはずです。しかし、キリスト教の影響が強い欧米では「アルマゲドン」と言えば、それが何を意味しているのかを大抵の人は理解することができますから、こんな発言が生まれたのだと思います。

 アルマゲドンは正確には「ハルマゲドン」と言って、聖書の中に登場するキリストとそれに従う勢力と悪魔に代表され、その悪魔に従う地上の権力者たちによって構成される反キリストの勢力との間に起こる最後の戦いを意味する言葉となっています。そしてそのハルマゲドンについての聖書の預言は私たちが今、学んでいるヨハネの黙示録の中に記されています。ヨハネの見た幻の中でラッパを持った七人の天使が登場して、その一人一人がラッパを吹くたびに地上に様々な災いが襲い掛かります。黙示録はこの災いを地上の人々に下された神の厳しい裁きであることを明らかにしています。そして今日の部分ではいよいよ最後の七番目の天使が現れ、ラッパを吹く幻が紹介されています。そしてこの七番目の天使の吹くラッパの音が合図となって始まるのが「ハルマゲドン」、キリストに従う勢力と反キリストの勢力の間に起こる最終的な戦いです。

 今、物議を呼んでいる国際オリンピック委員会の関係者の発言は、この発言をした人物が黙示録が預言する「ハルマゲドン」を本当に信じているのかどうかはよくわかりません。むしろ彼は「オリンピックを中止するなどありえないことだ」と言う考えを強調するために「アルマゲドン」と言う言葉を使ったとも考えられるからです。なぜなら、聖書の預言を信じない人にとっては「ハルマゲドン」はあり得ないことの代名詞のように使われてしまうことがあるからです。


②世の権力を批判する黙示録のメッセージ

 しかし、私たちが今まで学んで来たように、黙示録は「ありえない」非現実的な幻を語る書物ではありません。むしろヨハネの黙示録はローマ帝国の迫害の下で厳しい信仰の戦いの中にある人々に勇気と希望を与えるために書かれた書物であったことを私たちはこれまで学んで来たのです。

 私は大学生のころに共産主義の影響を受けていました。そのころ、私は「宗教はアヘンである」あると語ったと言うマルクスの言葉を信じて生きていました。このマルクスの言葉は宗教が現実を変革しようとする民衆の心をだまして、それをあきらめさせために用いられて、結果的には邪悪な権力者を擁護する道具となっていることを指摘したものです。確かにキリスト教の歴史の中では、教会がそのような役割を果たしたことがあったと言うことは否定できないことだと思います。しかし、この黙示録の内容を読んでみて分かるように、聖書はこの世の権力者を擁護するような言葉を語ってはいません。むしろ、聖書は神に従わず、邪悪な力によって人々を苦しめる権力に対して神の厳しい裁きが下ると言う点では、この世の権力者たちに対して容赦ない態度で臨んでいます。

 また、ヨハネの見た幻は、神を信じて生きようとする人々に対して、この世の権力に従うのではなく、どこまでも神に従うようにと求めていることも忘れてはならないと思います。確かにキリスト者が武器を持ってローマ帝国に反旗を翻すと言うことは勧めてはいません。それは「剣を持つ者は、剣によって滅びる」と言うイエス・キリストの言葉を何よりも彼らが大切にしていたからです。しかし、彼らはだからと言って戦うことを諦めてしまった訳ではありません。むしろ、彼らは命がけで自分たちの信仰を守る戦いを続けたのです。


2.主の統治

 それではなぜ、彼らはローマ帝国の迫害の下で、命がけで信仰を守るための戦いを続けたのでしょうか。それは何よりも彼らが黙示録の示す幻を知ることでえ、この世の権力者が神の厳しい裁きによって滅ぼされる対象であることを知っていたからです。そして、この世界を本当に治めているのは地上の権力者たちではなく、イエス・キリストであること、彼こそが真の統治者であることを知っていたからです。今日の聖書の箇所ではこの世界の真実の姿が、天における礼拝の姿を通して明らかにされて行きます。

 ヨハネはこのとき「天にさまざまな大声が起こる」のを聞いたと語ります。この声はすでに地上での信仰の戦いを終えて天に帰った殉教者たちの声であったと考えることができます。そしてその声は次のような言葉を語ったと言うのです。

「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(15節)。

 この声を上げた人々は自分たちの地上での信仰の歩みが間違いではなかったことをここで高らかに宣言しています。自分たちがこの世界の真の統治者であるキリストに従って生きようとしたことは決して間違いではなかったことが証明されたと彼らはここで語っているのです。そしてこの大声に呼応する形で、二十四人の長老の賛美が続きます。この二十四人の長老はイスラエルの十二部族の代表とキリスト教会の代表である十二使徒たちを表していると言うことを以前に学びました。旧約時代、新約時代のすべての信仰者の代表としてこの二十四人の長老は賛美の声を上げたのです。

「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです」(17節)。

 この賛美の言葉の中で興味深いところは全能者である神について「今おられ、かつておられた方」とだけ語られていることこです。通常、神に対してこのような言葉を使う場合には「今おられ、かてておられた方、やがて来られる方」と言って現在、過去、未来、つまりすべての時間と歴史を神が支配してくださっていることをこの言葉を使って表現します。しかし、その定番の言葉の中でここでは「やがて来られる方」と言う表現が抜けています。ヨハネの幻は私たちにやがて起こる未来の出来事を語っているように思えます。しかし、この幻が示す未来はすでに確かな現実であることをヨハネの幻は強調しています。だからこそ、ここには「やがて来られる方」と言う言葉が使われていないのです。読者はこの幻を今すでに起こっている出来事として読んでよいと言えるからです。

 そして二十四人の長老たちは現実となった神の支配、キリストの支配に対して感謝をささげています。彼らは幻の中で示された確かな現実、キリストの統治の現実に対して感謝をささげているのです。そしてこの感謝こそがキリストの統治を信じる者の生き方の特徴と言ってよいと言えます。かつて伝道者であるパウロはキリストを信じる者の生き方の特徴として次のような勧めを語りました。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6〜7節)

 パウロが私たちに「感謝しなさい」と語るのは私たちの人生をイエス・キリストが導いてくださっていることが真実だからです。そして黙示録は幻によって明らかにされた真実に感謝をささげ、その真実に従って生きるようにと私たちを促しているのです。

 先日、テレビを見ていたらある一人の航空業に携わる起業家の話が紹介されていました。ご存知のように今、航空業界はコロナウイルスの問題で不況に襲われています。なぜなら、飛行機に乗って旅行する人が今はいないからです。しかし、その起業家はこの不況にも関わらず、新たな人員を募集して、事業を拡大する方針を打ち出したと言うのです。そしてその理由について「コロナウイルスの問題は必ず解決する日がやって来る。そのとき、航空業界は圧倒的な需要が生まれるに違いない。その需要にいち早く答えるためには今から、企業の体制を整えておく必要があるのだ」と説明するのです。私はその話を聞いていて「確かにそうだな…」と思わされました。今はコロナウイルスがいつどのような形で終息するのか誰にも分かっていません。しかし、コロナウイルスの問題がこのままいつまでも続くとも言えないはずです。それなら、コロナウイルス終息後に私たちは何をすべきなのでしょうか。私たちが今からそれを考えると言うことはとても大切なことです。ですから私も教会はその日のためにどんな準備を今からすべきなのだろうかと考えようと思わされたのです。

 私たちが確かな未来を信じて生きると言うことは、私たちの今の生き方に大きな影響を与えることになります。黙示録は幻を通して私たちに確かな未来の現実を示しています。それなら、私たちはその未来が実際に実現するときのために、今と言う時間を使って備える必要があります。そのような意味で私たちが今、何をしてよいのかわからないと思うなら。私たちはまずこの黙示録の示す幻から確かな未来を教えられる必要があります。そうすれば今、私たちが何を準備すべきなのかを考えることができるようにされるからです。


3.裁きと報い

 この後、長老たちの賛美は、神がすべての者たちに正しい報いを与えてくださることをうたっています。その際、神の統治に対して逆らい、神に対して「怒る」人々には神は怒りを持って報いを与えられると語られています。黙示録が語る厳しい神の裁きの原因は、彼らが神に対して「怒り」を抱いたことに対する当然の報いのであることが語られているのです。

 その一方で、神に従い、命がけで信仰を守った人々にはそれにふさわしい報いが神から与えられることも語られています。なぜなら、たとえ神の裁きによってこの地が滅ぼされたとしても、彼らは決して滅ぼされることがないからです。そしてこの正しい報いの根拠として考えられることは、神が私たち一人一人の歩みをよく知っていてくださると言うことが前提とされています。神は地上に生きる私たちの存在を一人一人覚えてくださり、決して忘れることはないのです。

 私は洗礼を受けてクリスチャンになる前に死をとても恐れていました。その恐れは、「死んだら自分はどうなってしまうのか…」と言う恐れというよりは、自分の存在が世界から無くなってしまうと言うことに対する恐れと言ったらよいと思います。「自分が死んだら、自分がこの世に生きていたと言うことは誰からも忘れてしまうに違いない」。そう考えると今、自分が生きていることに何の意味があるのでしょうか。その答えを見つけることのできなかった私の心は言いようのない虚しさに支配されて仕方がなかったのです。どんなに自分が頑張って生きたとしても自分の存在はすぐに誰からも忘れ去られてしまうはずだと考えると、何かともて恐ろしくて仕様がなかったのです。そしてその私が信仰を得て一番、慰められたことは神が私を知ってくださっていると言う事実、神は私を決して忘れることをされないと言う真理を知った時でした。

 スイスのジュネーブに行くと宗教改革者であるカルヴァンの墓という場所があります。しかし、よく調べて見るとこの墓は後代になって、「多分ここら辺にカルヴァンの墓があるのではないか…」と考えた人たちが作った偽物の墓のようです。実はカルヴァンの墓はどこにあるか今はわからないのです。これは私の自分の勝手な思い込みかも知れませんが、カルヴァンにとっては自分の墓がどこに立てられ、その墓に来て誰かが彼を思い出してくれるというようなことはあまり関心が無かったように思えます。なぜなら、どこに彼の体が葬られても神はそのことをちゃんとご存知だからです。そしてその上で神は必ず信じる者の遺体がどこにあったとしてもそれを見つけ出して、最後の日によみがえらせてくださることができるのです。私たちの存在がたとえ世界の人々に忘れられたとしても、神は私たちを忘れることなく、永遠の命の報いを与えてくださるのです。


4.契約の箱

 今日の箇所の幻の最後の部分には天にある神殿の中に「契約の箱」が置かれているのが見えたと語られています(19節)。この「契約の箱」の中には荒れ野でイスラエルの民を養った不思議な食物「マナ」が入った壺とアロンの杖、そして十戒が刻まれた石板が納められていたと伝えられています。そしてこの契約の箱は旧約聖書の中に何度もその存在が紹介されているのです。かつてもこの契約の箱はエルサレムの神殿の中に納められていました。しかし、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされた後に、この箱はどこかに行方不明になってしまったのです。この箱はイスラエルの民にとって神と自分たちを結びつける大切なものでした。彼らはこの箱を通して自分たちが神から守られていることを確信することができたからです。ヨハネはその失われた契約の箱が天の神殿の中に置かれているのを目撃したと語っています。いったい、この幻は私たちに何を教えているのでしょうか。

 契約の箱がエルサレム神殿から消えてしまった原因は、神を信頼せずにこの世の力に頼ろうとしたイスラエルの民の不信仰が原因であると考えられています。しかし、契約の箱がエルサレム神殿から無くなってしまったのはそれだけが理由であるとは思えません。実はこの後のイスラエルの歴史では、この契約の箱だけではなく、この箱を納めていたエルサレム神殿も無くなってしまいます。紀元70年に起こったローマ軍のエルサレム攻めによって神殿の建物は破壊されてしまったからです。そしてこの出来事は私たちに別の真理を教えています。それは契約の箱もエルサレム神殿も必要のない時代が新たにやってきたことを私たちに教えていると言えるからです。それは救い主イエス・キリストの到来の出来事です。私たちのためにイエス・キリストが来てくださったからこそ、もはや地上の神殿もまた契約の箱も必要はなくなってしまったのです。なぜなら、イエス・キリストこそが私たちと神との関係を結びつける唯一のお方となって下さったからです。

 神は私たちに一人一人の存在を忘れることなく、必ず私たちに正しい報いを与えてくださいます。なぜ、私たちはそのことを確信できるのでしょうか。それは私たちと神との絆を結びつける生きた神殿、そして契約の箱であるイエス・キリストが来てくださったからです。そして、黙示録はこの私たちの救い主が世界の支配者となられたとことを私たちに教え、その真の支配者であるイエス・キリストに従うことこそが、私たちが今を生きるための確かな生き方であることを教えようとしているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.第七の天使がラッパを吹くと、聞こえた天で起こった様々な大声は何をヨハネに語りましたか(15節)。

2.神の御前で座に着いていた二十四人の長老はひれ伏して神を礼拝しながら、何について感謝をささげましたか(16〜17節)。

3.神の報いは異邦人たちに対して、また神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者たちに対してそれぞれどのように与えらますか(18節)。

4.ヨハネは天にあった開かれた神殿の中に、何があるのを目撃しましたか(19節)。

2021.5.30「第七の天使がラッパを吹く」