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  4. 5月9日「金持ちとラザロ」

2021.5.9「金持ちとラザロ」 YouTube

ルカによる福音書16章19〜31節

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


1.このたとえ話が語られた目的

 この礼拝では主イエスの語られたたとえ話から私たちキリスト教会の信仰について、またその信仰生活について皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。そして今日、私たちがこの礼拝のテキストとして取り上げるお話は多くの人に「金持ちとラザロ」と言う題名で呼ばれているイエスの語られたたとえ話です。このたとえ話に登場する二人の主人公は生前には全く対照的な生活をしていました。一方の金持ちは豊かな財産に恵まれたぜいたくな生活をして人生を送りました。しかし、もう一方のラザロは病に苦しみ、誰も彼を気にかけてくれないような孤独な生活を送って一生を送りました。やがてこの二人は同時にこの世を去ることとなります。皮肉なことにどんなに二人の人生は生前に違っていても、死は二人に平等に訪れます。これはこの二人に限らず、すべての人間に当てはまる現実です。金持ちも貧しい人も必ず一度は死を迎えなければならないからです。

 しかし、イエスの語られたたとえ話はこの死の後に二人がどうなったのかについてもさらに語り続けています。イエスがここで明らかにした二人の死後の状態は生前と同じように全く対照的なものでした。ところが、生前のものと大きく違う点は、二人の立場が全く逆転してしまっていたところです。貧しいラザロはアブラハムの元で救いの喜びを味わい、金持ちは陰府で苦しみを味わうことになってしまったからです。どうして、二人の立場は死後に全く逆転してしまったのでしょうか。

 まず、私たちがここで誤解してはならないことは、イエスはこのたとえ話を通して私たちが死んだ後に行く「死後の世界」を詳細に説明しようとしているのではないと言うことです。多くの聖書学者たちはここで語られているたとえ話の原型は当時のユダヤ人たちがよく知っていたお話が用いられていると説明しています。ですからイエスはすでにユダヤ人の多くの人々が知っていたお話をご自身のたとえ話に用いているにすぎないと言うのです。イエスはここで私たちに死後の世界を解説しようとしているのではありません。それではイエスはこのたとえ話で何を私たちに教えようとしておられるのでしょうか。そのことを理解するために、まずイエスがこのたとえ話を誰に向かって話したかと言う事情を調べる必要があります。実はこのたとえ話のすぐ前の箇所にこのような言葉が記されています。

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」(14節)。

 「金に執着するファリサイ派の人々」が今日の話の直前に登場しています。このファリサイ派はイエスの時代に活躍した宗教家のグループで、聖書に記されている神の律法を守ることに大変に熱心な人々でした。しかし、彼らの熱心さには重大な過ちが隠されていました。ですから、イエスは彼らの熱心さの中に隠された過ちを厳しく指摘して、非難されたのです。実はこのたとえ話の中にも、ファリサイ派の人々が持っていた誤った信仰の確信が取り上げられていると言えるのです。なぜなら、彼らは自分たちがこの地上で受けた豊かな財産は神の祝福のしるしであって、自分たちが救いに入れられている証拠だと考えてしまっていたからです。もちろん、私たちに与えられた財産、さらには私たちの健康までもすべては神が私たちに与えてくださった祝福であると考えることは間違いがありません。しかし、問題なのは金持ちだから救われていると言う点です。もし、この考えが正しいなら貧しい人や病気で苦しんでいる人は神の祝福から外されている人となり、救われていないと言うことになってしまいます。しかしイエスは別の箇所で「「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章20節)と語られています。この点で今日のたとえ話は私たちがこの地上で持つ財産と救いとは直接に関係していないことを説明しているものだと言えるのです。


2.救いにあずかれなかった金持ち

 このたとえ話には金持ちとラザロだけではなく、もう一人の登場人物が存在します。それはアブラハムと言う人物です。このアブラハムはユダヤ人が最も尊敬する歴史上の人物で、彼の生涯は旧約聖書の創世記に詳しく記されています。アブラハムは神を信じて人生を送りました。そして神はアブラハムを祝福し、その子孫までも祝福すると約束してくださったのです。このお話では死んだ後にラザロはこのアブラハムのところに行ったと語られています。これはラザロがアブラハムと同じように神の救いを受けたと言うことを表しています。そうなるとこのアブラハムの元に行けなかった金持ちは、神の救いにあずかることができなかったと言うことになります。それではどうして金持ちは神の救いにあずかることができなかったのでしょうか。この点に関しては彼の生前の生き方にヒントが隠されていると言えます。

 金持ちは自分の家の門前で横たわり、苦しんでいるラザロをその生前に全く助けることがありませんでした。金持ちはラザロの存在に気づいていなかったわけではありません。なぜなら、金持ちはこのお話の中で繰り返して「ラザロ」と言う名前を語っているからです。彼は間違いなくラザロの存在を知っていたのです。そして金持ちはアブラハムに何度も「ラザロを私のために遣わしてほしい」と願っています。しかし彼は生前、苦しむラザロを無視し続けて来たのです。金持ちにはラザロを助けても困ることのないような豊かな財産が与えられていました。しかし、彼はその財産を自分のためにだけ使って、ラザロのためには一円でも使おうとはしなかったのです。陰府の世界にいる金持ちにアブラハムは「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」(26節)と語っています。実はこの大きな淵は金持ちが生前にラザロとの間に作り出したものと考えてもよいものでした。なぜなら、金持ちにとって自分の家の門前に横たわるラザロは、自分とは全く関係のない、遠い存在だとしか考えられていなかったからです。このようにまさに、彼の生前の生き方が、死後の自分自身を苦しめることになったと考えることができます。


3.ラザロはなぜ救われたのか

 このように金持ちが死後に苦しむことになる原因を自分で作りだしたと言うことは分かりました。しかし、もう一方で私たちによくわからないのはなぜ、ラザロが死んだ後にアブラハムの元に行って、神の救いにあずかることができたのかと言う理由です。いったい、彼は生前に何をしたと言うのでしょうか。もう一度、ラザロについてイエスが語られた言葉を読んでみましょう。

「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(20〜21節)

 ラザロは癒されることがない病気で苦しみ続けました、財産もなくその日に食べるものさえ買うことができない貧しい生活を送ったのです。しかも、そんな彼に関心を持って助けてくれる人は誰もいません。彼はこの地上で孤独で寂しい人生を送って、死んで行ったのです。このような意味でラザロはその生前に特別なことは一切にしていないことが分かります。

 ラザロの人生の解き明かすヒントは彼の名前にあると考えられています。なぜなら、聖書の中で数多く語られているイエスのたとえ話の中で、その登場人物にわざわざ名前が付けられているのは、唯一このお話だけだからです。つまり、イエスはこの「ラザロ」と言う名前を特別な思い入れを持って用いられていると言うことが分かるのです。このラザロと言う名前は「エリエゼル」と言う名前を略した呼び名であると言えます。つまりラザロと言う名前はニックネームのようなものなのです。そしてもともとの「エリエゼル」と言う名前は「神が助けてくれる人」と言う意味を持っています。ですからこの名前にこそラザロが救われた理由がはっきりと示されていると考えることができます。ラザロは自分が救われるために何もすることができませんでした。しかし、そのラザロを神ご自身が助けてくださったからです。ラザロは神の恵みによって、その救いにあずかることができたのです。

 聖書の他の箇所にはこのラザロと言う名前を持った、もう一人の人物が登場しています。それはマルタとマリアという二人の姉を持っていたラザロと言う人物です。もちろん彼はこのたとえ話に登場するラザロとは全く違う人物であると言えます。しかし、聖書に記されたマルタとマリアの弟ラザロの人生はどこかこのたとえ話の主人公に似ているところもあるのです。聖書によれば、このラザロは深刻な病にかかって生死の境を彷徨(さまよ)っています。そして結局、病は癒されることなく死んでしまいます。その後に彼の遺体は墓に葬られ、イエスがそこに到着したときにはすでに腐りかけていました。しかし、このラザロはイエスの力によって墓から甦り、再び命を取り戻すことができたのです。まさに彼も「神が助けてくれる人」と言う名前の通りの体験をしていると言えます。この後、ユダヤ人はこのラザロを再び亡き者にしようと企んだと言われています。なぜなら、ラザロはイエスが神の子として人の命を支配することのできる素晴らしい力を持っている方であることを示す生き証人となったからです(ヨハネ11章)。

 このイエスのたとえ話の中でも、彼がアブラハムの元に行き、救いにあずかることできたのは神の一方的な恵みの業であることが示されていると言えます。神は自分の救いのために何もすることができなかったラザロを救うことができる素晴らしい力を持ったお方であることがこのお話を通して明らかにされているからです。

 私たちが救いにあずかることができるのは神の一方的な恵みによってであり、私たちが地上の生涯で行った何らかの善い業が救いの根拠になるのではありません。むしろ、私たちは地上での行いはこのたとえ話に登場する金持ちと同じように、神から厳しい裁きを受けなければならないものばかりなのです。しかし、イエス・キリストの救いの御業のゆえに、裁きを受けるべき罪人であった私たちが救いに入れられることが可能となりました。そのような意味で、私たちも「神が助けてくれる人」としてラザロと同じ恵みを受けることができるのです。


4.聖書がすべてを教えてくださる

 このお話の後半部分では陰府で苦しみ続ける金持ちが地上に残してきた兄弟を心配して、彼らのためにラザロを遣わして、彼らが自分と同じ過ちを犯さないように忠告してほしいとアブラハムに願い出ています。実はこの後半の部分は当時のユダヤ人に良く知られていたお話には登場せず、イエスご自身が作り出したオリジナルなお話だとされています。ここで金持ちは「自分も生前に、死んだ後にこんな苦しみに会うのが分かっていたら、自分の生き方を変えていたはずだ」と考えたのです。だからせめて自分の兄弟たちの生き方を変えさせたいと彼は思ったのです。

 しかし、アブラハムは金持ちに次のように答えてます。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)。当時のユダヤ人は旧約聖書の最初に並んでいる五つの書物を「モーセの書」と呼び、そのほかの書物を「予言者たちの書」と呼んでいました。つまりここで言われている「モーセと預言者」とは旧約聖書全体のことを指し示している言葉であると言えます。  しかし、このアブラハムの答えを聞いた金持ちはさらに次のように語りました。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』(30節)。実際に死んだラザロが生き返れば、兄弟たちもびっくりして、彼の言うことを聞くだろうと金持ちは考えたのです。しかし、この答えにもアブラハムは次のように答えています。

『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)。

 この言葉から分かるのは人を信仰に導くものは、人をびっくりさせるような奇跡ではないと言うことです。なぜなら、神は私たち人間を正しい信仰に導き、救いにあずかることができるために神の言葉である聖書を私たちに与えてくださっているからです。この聖書の言葉を読み、その言葉を信じて生きるなら、誰でも神の恵みによって救いにあずかることができるのです。

 またこの言葉は私たちに別の真理をも教えてくれています。なぜなら聖書の言葉を読み、その言葉に従う人だけが、神の行ってくださる驚くべき奇跡に気づくことができ、その神を褒めたたえることができるようにされるからです。もし私たちが聖書を読んで、その言葉を信じて生きようとするなら、イエスは私たちに天から聖霊を遣わして、ご自分が復活して今も生きておられるという驚くべき奇跡を私たちが信じることができるようにしてくださるのです。

 そればかりではありません。実は私たちの信仰生活は日々、神の御業である奇跡を体験する生活でもあると言えます。罪人である私がこのように神に救われて、神を礼拝する生活ができるのはすべて神の奇跡の業だからです。私たちが日曜日にこのようにして礼拝に出席できることも、神の御業によるものです。私たちは聖書の言葉を読むことによって、この世の人々が「当たり前の生活」としか考えていないことが、実は驚くべき神の奇跡によって実現していることを悟ることができるようにされるのです。

 聖書を読み、聖書の言葉を信じている者は、自分の持っている財産や力を誇ることはせず、むしろそのすべてを与えてくださった神に感謝することができます。またもし、この地上では貧しく、また苦難の人生を送っていたとしても、神が自分を導いて必ず救いにあずからせてくださることを確信することができるようにされます。そのように私たちは聖書の言葉に導かれて、自分こそが「神が助けてくれる人」であるラザロであることが分かるようになるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの語られたたとえ話に登場する金持ちとラザロはどのように対照的な人生を生前に送っていましたか(19〜21節)。

2.二人の立場は死んだ後にどのように変わりましたか(22〜25節)。

3.25節のアブラハムの言葉から考えて見たとき、金持ちが陰府で苦しむことになった原因は、誰が作ったものだと考えることができますか。

4.陰府で苦しみを味わった金持ちは、そこで何をしてほしいとアブラハムに願いましたか(27節)。

5.アブラハムはこのような願いを語った金持ちに「モーセと預言者がいる」と言う答えを語りました。この言葉から私たちが救われるためには何が大切であることが分かりますか(29節)。

6.あなたが神を信じることになった理由は何ですか。奇跡を体験したからですか。それとも神の言葉である聖書に導かれたからですか。

2021.5.9「金持ちとラザロ」