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  4. 6月20日「不正な管理人」

2021.6.20「不正な管理人」 YouTube

ルカによる福音書16章1〜9節

1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。

2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。

4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。

6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。


1.難解なたとえ話?

 今日、皆さんと学ぶイエスの語られたたとえ話は内容としては決して難しいものではないと言えるかも知れません。この物語の主人公となる管理人がやった行為は法的、あるいは道徳的に正しいかどうかと言う問題は別にしても、よく理解できるものだと言えるからです。現在でも自分の職権を利用して、不正を働き、会社や団体に多額の損害を与える人がたびたび現れ、それがニュースとなることが後を絶ちません。

 しかし、このお話で私たちの理解を妨げている問題は、この管理人によってさらに多くの損害を被った主人が「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)と語られている点です。いったいこの主人はどんな性格の持ち主なのでしょうか。おそらくこの主人は自分の財産を預けている管理人が多額の無駄使いをしたことを知って彼を解雇しようとしたはずです。その管理人がその負債を返済したと言うなら別でしょうが、お話ではこの管理人は主人の財産をさらに減らしてしまう結果となっています。そのような損害を被ったはずの主人がどうして管理人のやり方を褒めることができるのでしょうか。どうもこの物語を読むとこの主人の考えには一貫性がないようにも思えてなりません。

 さらに、このお話の理解を最も困難にする材料は、このたとえ話から語られたイエスの教えにあります。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)。イエスはこのたとえ話から私たちにこのような奨めを語っているのです。

 神学生の頃に、町で会った初対面の韓国人宣教師にいきなり「「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言うイエスの言葉の意味は何か」と問われたことがありました。神学生だった私の聖書理解がどのくらいかを試すためだったのでしょうか…。私はそのとき、自分で考えたこの言葉についての解釈を語りました。そのときにその宣教師が私の答えを聞いて満足したのかどうか…その様子は今ではすっかり忘れてしまいした。しかし、この聖書の言葉の意味を問われたと言う記憶は今でも不思議と残っているのです。皆さんならこのイエスの言葉の意味を誰かに問われたときに、何と答えられるでしょうか。今日はこのお話を難解にしているこの二つの問題を中心に皆さんとイエスの語られたたとえ話について考えて見たいと思うのです。


2.解雇される管理人

①管理人の失敗が主人に報告される

 このお話は主人が自分の財産を任せている管理人の無駄遣いを知ったところから始まります。ここでは「無駄遣い」と言われていますが、これは管理人が自分のために主人の財産を散財してしまったと言うよりは、むしろ主人の財産の運用に失敗して、多額の損失を出してしまったと考えた方が良いかも知れません。管理人は自分に任された権限でその財産を自由に使うことができます。しかし、その管理がいつもうまくいくとは限りません。もしかしたら管理人は先に出してしまった損失の穴を埋めるために、さらに新たな投資をして、結局、気づいたら取り返しのつかないような大きな損失を作ってしまったのかも知れません。その損失額があまりにも多額となったために最後には主人の耳にもこの管理人の不正が他の誰からを通して報告されたのです。

 その報告を聞いた主人は管理人を自分の前に呼び出してこう語ります。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」(2節)。主人のこの言葉は「管理人の不正を明らかにするための調査をこれからする」と言うものではありません。むしろ、管理人の解雇はこの時点ですでに決定していて、そのための残務処理をするようにと主人は管理人に命じたのです。このように主人の財産に損失を与えてしまった管理人の解雇はすでに決定していましたが、幸いなことにこの管理人には解雇までのわずかな時間が残されてもいたのです。


②自分では解決できない問題

 主人に解雇を言い渡された管理人はそこで考えました。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」(3節)。

 この管理人の年齢がこの時、どのくらいであったのかは記されていません。しかし、主人の財産をすべて任せられるくらいですから、彼はかなりの年齢であったように思えます。私も神学生のときに一週間だけ道路工事のアルバイトをした経験があります。その頃はまだ私も二十代後半の年齢でしたから、そんなアルバイトができたのだと思います。今の私には到底、そんな仕事は一日もできないと思います。

 さらに「物乞いをするのも恥ずかしい」と言う管理人には、これだけ追いつけられていてもまたプライドを持っていたことが分かります。もしかしたら彼はいつも道で物乞いをする人を見て軽蔑のまなざしを向けていたのかも知れません。その自分が軽蔑していた物乞いをすることなど到底考えることはでなかったのです。

 この管理人の言葉から分かるのは、解雇と言う彼の人生に起こった最大の危機に対して、彼は自分では何も対処できる力を持っていないことが分かります。彼の持っている力は彼の人生の危機に対して何の役にも立たなかったのです。


③思いついた名案

 ここで管理人は自分がこの危機を乗り越えるための名案を考え出します。それは自分が解雇された後に自分を受け入れてくれる場所を作ると言うアイデアです。もちろん、彼の周りに親しい友人たちがすでにいたのなら、こんなことを彼が心配する必要はなかったはずです。つまり、彼はこの時点では自分を助けてくれる本当の友人を誰一人持っていなかったのです。

 時間はあとわずかしか残されていません。そこで彼は仕事に取り掛かります。彼はまだ自分に残さされていた管理人としての権限をここで有効に用いています。そして、主人に借金のある人たちを呼んで、その借金の借用証文を彼ら、つまり借り手に有利なように書き換えてしまったのです。

 ここで登場する油百バトス、これは現代の単位にすると2300リットル(2.3キロリットル)となります。小麦百コロスは23000リットル(23キロリットル)となります。そして管理人はそれぞれの証文を主人に無断で「油五十バトス」、「小麦八十コロス」に書き換えてしまいます。つまり、自分の借用証文を管理人に書き換えてもらった人々はこの管理人に対して大きな貸しができたことになります。ですから管理人はこの貸しを根拠に彼らから保護を受けようとしたのです。こうすれば、自分が主人から解雇さえても、当面は路頭に迷うことがなくなり、そこで改めて次の手立てを考える余裕もできるからです。


3.不正にまみれた富で友を作れ

①誤解されるたとえ話とイエスの奨め

 さて、やがてこの管理人がしたことの一部始終が主人に報告されます。するとこの主人は「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)と言うのです。「あいつはどこまでズル賢いのか、転んでもただではおかない人物だ」と主人は考えたのでしょうか。この主人は心の広い人物だったのか…。それとも愚かな人間だったのか…、この物語だけ読んでもよくわかりません。そもそもこんなことを許していたらこの主人自身が破産に追い込まれてしまう可能性があります。

 ただこの文書には別の読み方があるのです。それはこの「主人」と言う言葉を実際の管理人の主人と考えるのではなく、「主」つまり神ご自身を表す言葉として読む方法です。つまり、神がこのような管理人の行動を高く評価していると言うのです。それはどうしてなのでしょうか。

 私たちはこの答を知るために、続けて語られているイエスの奨めの言葉の意味を考えていく必要があると思います。イエスはこのたとえ話から得る教訓として次のような奨めを語ります。

「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。

 先生。今度、宝くじが当たったら教会に多額の献金をします」。誰からかそう言われても私は「宝くじが当たるようにお祈りしましょう」とは言わないと思います。むしろ「真面目に働いて得た給与から神さまに献金するなら、たとえその額は少なくても神さまは喜んでくださるでしょう」とお話しするはずです。

 以前、教会に知らない方から電話がかかってきて「自分の妹が両親の蓄えた財産を勝手に持ち出して、あるキリスト教会に献金してしまった。どうしたらよいでしょう?」と言う相談を受けたことがあります。私はそのとき「その教会の牧師にお金を返してもらうために、詳しい事情をお知らせしたらどうでしょうか」と答えました。

 このイエスの言葉を誤解してしまうと、「どんな不正をしてもいいから、神さまに献金すれば、天国に宝を積むことになる」と言うような教えとなる可能性があります。おそらく、こんな解釈を教えているのは高額な壺を売って、人々から金を騙して取っている統一教会くらいかもしれません。


②不正な富とは何か

 このイエスのお話の中でポイントとなるのは「不正にまみれた富」とは何かと言う点です。そこで多くの聖書の解釈者たちが教えることは、「不正にまみれた富」とは人々が悪巧みを尽くすようなある特殊な仕方で手に入れた富を言っているのではなく、私たちがこの世で得ることのできる富、つまり財産すべてを指しているという解釈です。実はこの後、イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)と語って、神と富を対立的な存在として教えている言葉が登場しています。もちろん、この世の富自身には悪も善もないのだと思います。しかし、ひとたび、人間がこの富を手にいれると、人間はこの富を真の神に置き換えて、自分の神としてあがめてしまう弱さを持っているのです。だから聖書はこの世の「富」に対して細心の注意を払う必要があると言うことを私たちに教えているのです。ですからこのたとえ話ではそのようなこの世の富の性格を表すために「不正にまみれた富」と言う表現が取られていると考えることができるのです。


4.イエスを友とする生き方

①この世の人生をどのように生き、用いるのか

 実はこのたとえ話の後に私たちが先日の伝道礼拝で学んだ「金持ちとラザロ」(19〜31節)と言うお話がイエスによって語られています。そして今日のたとえ話はこの「金持ちとラザロ」のお話と対になっていると考える人もいるのです。なぜなら、今日のお話に登場する管理人は自分に残されたわずかな時間を使って、主人に解雇さえた後の自分の居場所を必死になって準備しようとしました。しかし、「金持ちとラザロ」の物語に登場する金持ちはそうではありませんでした。彼は有り余る財産を持っていながら、自分の居場所を作るべくその財産を用いて友を作ろうとはしませんでした。金持ちにとって彼の家の門前に横たわっていたラザロは、この金持ちの大切な友となる可能性があったのです。しかし金持ちは結局、自分の財産も自分に残された人生の時間も自分のためだけに無駄遣いしてしまったのです。ですから彼に起こったこの後の悲劇は彼の生き方の間違いを指摘しています。

 一方、今日のたとえ話の主人公と言える管理人は違いました。彼は自分に残された時間を大切に用い、自分の持ち物ではありませんでしたが、自分の主人から彼に委ねられていた財産を使って親しい友人を作り、自分の居場所を準備しようとしたのです。

 そう考えると分かるのは、このたとえ話は私たちのこの世の人生の生き方、人生の用い方を教えていると言うことが分かります。私たちが持っているものすべて、私たちの持ち物、そして私たちの命は神から管理を委ねられたものと言えます。つまり、私たちも確かに管理人なのです。そして私たちにその管理を任せてくださった主人は神ご自身なのです。神は、私たちに委ねられたものを使って、私たちが賢く生きることを求めています。私たちの人生の決算日が来る前に、私たち行くべき居場所を作るために、大切な友人を作ることを奨めているのです。


②私たちの居場所を作ってくださる真の友

 私たちの主イエスは私たちのために次のような言葉を残してくださいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14章1〜3節)。

 私たちの行くべき居場所をすでにイエスは私たちのために準備してくださっていると言うのです。そして主イエスは私たちの本当の友となってくださるとも約束してくださいます(ヨハネ15章15節)。さらにこの私たちの友である主イエスは私たちに聖書の中で次のようにも約束してくださっています。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14章18節)。

 讃美歌312番は「いつくしみ深き友なるイエス」と歌っています。主イエスはたとえこの世の友が私たちを見捨てたとしても、決して私たちを見捨てることはありません。いつも、私たちを導いてイエスがいてくださる天の居場所に招いてくださる方なのです。今日のたとえの主人公である管理人はこの世の人生の中で真の友であるイエスを見出し、そのイエスに従った賢い人を表していると言えるのです。もちろん私たちがイエスを信じることができたのも神さまの恵みによるものであって、私たちの能力や力によるものではありません。しかし、天の神は私たちがイエスを信じることができたことを、あたかも私たちのなした業のように評価してくださるのです。いずれにしても、私たちはもう、自分たちが行くべき場所を心配する必要はありません。私たちの真の友である主イエスが「わたしにすべてまかせないさい」と言ってくださっているからです。だから私たちはこのイエスに感謝して、私たちの持っている命を私たちだけではなく、神のために、また友のためにも使うことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ある金持ちにつかえた管理人がその主人に呼びつけられた理由は何でしたか(1〜2節)。

2.主人の言葉を聞いて、管理人は何を心配しましたか(3節)。

3.管理人が主人に借りのある者たちを一人一人呼んだ理由は何でしたか(4節)。彼はその人たちのために何をしましたか(5〜7節)。

4.主人はこの管理人のやり方を見て、どう思いましたか(8節)。

5.イエスはこのたとえ話からどのような教訓を語られましたか(9節)。

6.私たちは自分が永遠の住まいに迎え入れてもらえるように、この世で人生をどのように生きる必要があると思いますか。

2021.6.20「不正な管理人」