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  4. 6月27日「忍耐と信仰が必要なとき」

2021.6.27「忍耐と信仰が必要なとき」 YouTube

ヨハネの黙示録13章1〜10節

1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。

2 わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。

3 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。

4 竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」

5 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

6 そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。

7 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

9 耳ある者は、聞け。

10 捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。


1.キリスト教会を迫害する国家権力と悪魔との関係

①敗北した悪魔に残された最後の時間

 今日も皆さんと共にヨハネの黙示録の言葉に耳を傾けながら、この礼拝をささげて行きたいと思います。少し時間が空きましたが、私たちが前回学んだヨハネの黙示録12章の部分では竜にたとえられるサタン、悪魔がどのような経過をたどり、キリスト教会を迫害するものとなったかが語られていました。悪魔は神に反逆し、またその神の計画を破壊するために働いています。その悪魔の当初の目的は、この神の計画を遂行するために地上に遣わされる御子イエス・キリストを抹殺することにありました。しかし、悪魔は大天使ミカエルに率いられた天の軍勢との戦いに敗北してしまい、天から地上に落とされてしまうことになりました。そこで次に悪魔がその魔の手を伸ばした相手は、この御子イエス・キリストを生み出し、またそのイエス・キリストを信じ、彼に従う者たちによって作られている教会です。ですから教会はこの悪魔の働きによって厳しい試練に立たされることになったのです。しかし、黙示録の12章が強調することはこの悪魔がすでに神との戦いに敗れた敗北者であることです。つまり、悪魔は神にもそしてその神に仕える教会にも勝つことはできないと言うことです。さらにこの悪魔の地上での活動の期間もすでに神によって終わりが定められていると言うことです。ですから歴史はこの神による完全な勝利に向かって進んでいると言ってよいのです。そして黙示録はこの真理を読者たちに語ることで、今、試練の中に立たされている教会に集う者たちが勇気と希望を持って生きることができるようにしたのです。


②ローマ帝国の宗教政策

 この13章に入っても教会に対する悪魔の攻撃はさらに続いています。そしてその働きはさらに厳しさを増しているように見えます。私たちは悪魔の働きと聞くとオカルト映画に登場するような不思議な存在を想像しがちかもしれません。映画に登場する悪魔は人々を恐怖に陥れるような超自然的な現象を起こすのですが、この点ではどちらかと言うと非現実的な存在のように私たちには思えます。しかし、黙示録がこの13章で紹介する悪魔の働きは、オカルト映画に登場する悪魔よりもっと現実的な働きをしています。なぜなら、悪魔は国家権力というこの世に存在する力を使って教会を弾圧し、そこに集う信仰者たちを苦しめようとするからです。

 この黙示録を学びながら何度も私たちが確認しているのことはヨハネによってこの黙示録が記された時代の背景です。このとき、教会はローマ帝国という巨大な国家権力によって迫害を受けていました。そしてヨハネはこのローマ帝国による迫害の結果、信仰の仲間たちから切り離されて、地中海に浮かぶパトモスという島に流刑囚として送りこまれていたのです。

 歴史家によればこのローマ帝国は地中海沿岸に広がる広大な支配地域を治めるために寛容な宗教政策をとったと言われています。ローマは征服した地域を治めるために、そこに住む人々が昔から信じて来た神々や宗教を容認する政策を取っていたからです。たとえば新約聖書にはイエスが地上で活動された時代にパリサイ派やサドカイ派と言うようなユダヤ人の宗教グループが活発に活動していたことを紹介しています。当時既にユダヤはローマ帝国の植民地の一部とされていました。それでもユダヤ人たちが昔からの信仰生活を変わらず続けることができたのはこのローマ帝国の行った寛容な宗教政策によるものだと言えるのです。


③ローマ帝国によるキリスト教会への迫害

 しかし、このような寛容な宗教政策をとったローマ帝国もキリスト教会に対しては違った政策を取りました。ローマ帝国はキリスト教会を徹底的に迫害するという政策をとったからです。なぜ、ローマがそのような特別な政策をキリスト教会に対して行ったのでしょうか。それについてはいくつかの理由が考えられます。第一に考えられることは当時、驚くべき勢いで成長するキリスト教会の力を彼らが恐れたと言う理由です。キリストがローマの力によって十字架に掛けられて死んだとき、こんな予想を考えた人は一人もいなかったはずです。イエスが死んだのだからその弟子たちもすぐに消えて無くなってしまうと誰にでも思えたからです。しかし、歴史の事実は違います。この後、キリスト教会はローマ帝国の内部に広がっていき、誰もがその力を無視することができない存在となって行ったのです。

 さらにローマによる厳しい迫害を招いた理由は、キリスト教会の「皇帝崇拝」に対する態度にあったと考えられます。ローマは寛容な宗教政策をその支配地域で行う一方で、その支配地域を統制するためにローマ皇帝を神として拝ませるという「皇帝崇拝」を強要しました。これはある意味で戦前の日本の姿によく似ていると言えます。日本でも戦前にはすべての日本国民に「天皇を神として崇める」ことが強要されました。もし、それに従わない人々がいれば「非国民」、つまり「日本人ではない」と判断され非難されることになりました。そして国家権力はこのような政策をとることで国民の命を自分たちが行おうとする戦争のために使おうとしたのです。ローマ帝国による「皇帝崇拝」はこのような戦前の日本の政策とよく似ているようです。ところがキリスト教会はその信仰のゆえにこの皇帝崇拝を固く拒否したのです。ですから、ローマ帝国はキリスト教会に対して厳しい態度で臨むことになったと言えるのです。

 しかし、このヨハネの黙示録はローマ帝国がキリスト教会を迫害する別の理由をここで示そうとしています。それが悪魔の働きです。悪魔が自らの目的を遂行するために、ローマと言う国家権力を用いて教会を迫害していると言うことを黙示録は語ろうとしているのです。


2.海から上って来た一匹の獣

 今日の箇所では海から上ってきた一匹の獣の姿がヨハネの見た幻の中に登場します。

「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。」(1〜2節)。

 旧約聖書のダニエル書7章に預言者ダニエルがあるときに見た不思議な幻が記されています。その幻では四頭の獣が海から上って来る姿が描かれています。その獣の一頭は獅子のようであり、もう一頭は熊のようであり、さらにもう一頭は豹のようであったとダニエル書は記しています。そして最後に現れた動物は十本の角を持った恐ろしい生き物だったと言うのです。この後に記されたダニエル書の解き明かしによればこの四頭の生き物は当時の中近東に現れた巨大な国家を表していると言うのです。

 明らかにヨハネの黙示録が記す一匹の獣の姿はこのダニエルの見た幻とよく似ています。しかし、大きく違うのはその獣の数です。ダニエル書の四頭の獣は旧約時代に起こった、バビロニアやメディア、そしてペルシャ、さらにはセレウコス朝シリアと言った強大な国家を表すと考えられています。しかし、ヨハネが見た幻の中に現れる獣はダニエルが見た四頭の獣の力を一つにしてもかなうことができない力をもつ獣です。ですからこの獣はローマ帝国を表していると考えられているのです。そしてこの巨大な力は竜と言われる悪魔が、この獣に授けたものだとヨハネの黙示録は語っているのです。


3.国家権力を動かす悪魔の力と神の計画

①異なる二つの理解

 実はこのヨハネの黙示録が教える国家についての考え方は、使徒パウロが教えた国家に対する考え方と全く違った理解を示しています。この点でこの黙示録の記述はキリスト教会に対して問題を提起していると言うことできます。地上の国家権力とは何であり、その国家の権威は何に基づいているかと言う問題です。皆さんのご存知のようにパウロは国家権力、つまり地上の支配者たちはすべて神によって立てられた者たちであると教えました。ですから信仰者は彼らに服従することを通して神に従うことが求められていると教えたのです(ローマ13章)。

 もちろん、パウロがその手紙を記した時代とこの黙示録の時代の状況はかなり違いがあったと言えます。しかし、パウロの時代にもローマ帝国やその支配者たちは必ずしも教会や信仰者たちにとって善い支配者であったとは言えませんでした。実際に、イエスはローマ帝国の総督の下で裁きを受け、不当な死刑判決を受けて殺されてしまいました。使徒パウロもローマ帝国の権力によって捕らえられて、ローマに囚人として護送されました。伝説によればパウロはその地にあってローマによって処刑されて殉教の死を遂げたと言われています。パウロは自らもそのような厳しい立場に立たされていながら、ローマの国家権力も神が立てたものであり、信仰者はその地上の支配者に従わなければならないと教えたのです。

 一方、私たちが学んでいるヨハネの黙示録ではローマの国家権力もその支配者である皇帝も神でなく、悪魔がその権威を与えたものであると教えています。この点でパウロの理解とは全く違っているのです。それでは私たちはこの国家権力をどのように理解すればよいのでしょうか。国家権力は神が立てたものだから私たちは黙ってその支配に従う必要があるのでしょうか。それとも、国家権力は悪魔の手先のようなものだから、その悪しき策略に信仰者として徹底的に戦う必要があるのでしょうか。


②神の計画をだれも邪魔することはできない

 この矛盾の鍵を解くカギはこの黙示録の言葉に隠されていると言えます。黙示録はこの箇所でも「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた」(5節)と語っています。また「獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」とも言っています(6節)。

 この表現で分かることは獣の活動は限られた時間、限られた対象にその力を行使することが許されていると言うことです。つまり、誰かの許しがなければ、獣がその力をこの地上で使うことはできないのです。それではそれを許しているのは誰だと言うのでしょうか。簡単に考えれば、これはこの獣を利用して、自分の願望を実現しようとしている竜、つまり悪魔であると考えることができます。しかし、これまで学んで来たように実際の悪魔はこのような力を持っていないのです。なぜなら、悪魔はすでに神との戦い敗北し、その結末の時が決められているからです。さらには「あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威」を持っておられる方は悪魔ではなく神ご自身であることも聖書を読む人にはよく分かっていることではないでしょうか。つまり、この悪魔と悪魔に従うローマ帝国と言う国家権力の働きも、真の神の支配の中にあると言うことです。ですから彼らがどんなに力を尽くしてもこの世界に対する神の計画を邪魔することも、破壊することもできないのです。かえって、悪魔も悪しき国家権力もこの神の計画の中に用いられていることがこの言葉から明らかにされていると言えるのです。

 確かに私たちには今、目の前で起こっている出来事の本当の意味を理解することはできません。おそらくこの黙示録を書いたヨハネも同じ思いであったと思います。どうして教会がそして信仰者が国家権力の力によって迫害を受けるのか、彼にはよく分からなかったのです。しかし、ヨハネが見た幻は、明らかにこの出来事の背後に神の計画があることを教えているのです。


4.忍耐と信仰が必要な時

①忍耐と信仰の関係

 だからこそ、ヨハネは私たちに「忍耐と信仰」が必要であるとここで教えているのです。ヨハネがここで語っている「忍耐と信仰」は決して切り離して考えることができないものです。なぜなら聖書が語る「忍耐」とは私たちがよく知っている人間の単なる「我慢」ではないからです。聖書の語る忍耐は人間の力によるものではなく、信仰によってのみ可能となるものなのです。目の前の現実がどんなに厳しくても、信仰はその現実を超える希望を私たちに与えるものだからです。だからこの信仰も持つ者だけが忍耐することができると言えるのです。

 先週の水曜日の祈祷会では会堂長ヤイロの娘の癒しという物語が取り上げられていました(マルコ5章21〜43節)。「病気で苦しむ娘を癒していただきたい」と考え、イエスを自分の家に迎えようとした会堂長ヤイロはその願いも虚しく、帰宅の途中で自分の娘が死んでしまったと言う知らせを受けました。誰もが「もう何の希望もない。あきらめるしかない」と言う現実の中でイエスは会堂長ヤイロに「信じなさい」と信仰を要求されたのです。そして私たちにもこのヤイロと同じように目の前の現実に支配されてしまうのではなく、イエスを信じて生きて行くことが求められていると言えるのです。聖書が語る「忍耐」とは目の前の厳しい現実にも関わらずイエスを信じ続けていくという私たちの信仰の姿勢を表すものだと言えるのです。ですから忍耐は単なる我慢ではありません。私たちが忍耐して生きるなら、必ず私たちの信仰が真実であると言うことを私たちが知るときが必ずやって来るからです。


②神の忍耐に支えられて生きる

 また、私たちは聖書が奨める「忍耐」の背後には、神ご自身の「忍耐」が存在をすることを私たちは忘れてはならないと思います。人は厳しい現実に出会うと簡単にあきらめてしまうような弱い存在です。しかし、そのような私たちに「忍耐」が与えられるとしたら、その忍耐はどこから来るのでしょうか。それは、どんなに私たちが弱く、失敗を繰り返す者たちであったしても、決してその私たちを見捨てることなく、最後まで責任を持って私たちを導いてくださる神の「忍耐」にあると言えるのです。

 改革派教会の重要な教理の一つには「聖徒の堅忍」と言う教えがあります。この教理は神に選ばれた聖徒はたとえその人生でどのようなことが起こっても、最後には完全な救いに導かれると言う教えです。私はこの教理が「聖徒の堅忍」と言う言葉のように「忍」と言う言葉で表されてることを昔から不思議に思っていました。しかし、神の忍耐と言うことを考えることでこの文字の意味が分かるような気がしました。何よりも、神は私たちに一人一人を忍耐して導いてくださる方なのです。おそらく、他の人間であれば、「こいつは見込みがない」と真っ先に捨てられるべき存在が私達だったはずです。神はその私たちをイエス・キリストにあって救いに選んでくださったのです。そして、どんなことがあっても神は私たちを捨てず、その救いを私たちの上に実現してくださるのです。

 確かにヨハネはここで私たちに「忍耐と信仰が必要である」と教えています。私たちがこの言葉に従って、厳しい現実の中でも「忍耐と信仰」を持って生きるならば、私たちは私たちを忍耐して救いへと導いてくださる神の恵みを知ることができるようにされるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ある金持ちにつかえた管理人がその主人に呼びつけられた理由は何でしたか(1〜2節)。

2.主人の言葉を聞いて、管理人は何を心配しましたか(3節)。

3.管理人が主人に借りのある者たちを一人一人呼んだ理由は何でしたか(4節)。彼はその人たちのために何をしましたか(5〜7節)。

4.主人はこの管理人のやり方を見て、どう思いましたか(8節)。

5.イエスはこのたとえ話からどのような教訓を語られましたか(9節)。

6.私たちは自分が永遠の住まいに迎え入れてもらえるように、この世で人生をどのように生きる必要があると思いますか。

2021.6.27「忍耐と信仰が必要なとき」