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2021.7.11「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」 YouTube

ヨハネの黙示録14章1〜13節

1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。

2 わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。

3 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。

4 彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、

5 その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。

6 わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、

7 大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

8 また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」

9 また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、

10 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

11 その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」

12 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。

13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」


1.天のエルサレムに響く賛美

①歌う十四万四千人の人々

 今日も皆さんと共にヨハネの黙示録から学びます。今日の黙示録の箇所はヨハネが「小羊がシオンの山に立つ」と言う幻の中で見たことから始まっています。この小羊は明らかに私たちの主イエス・キリストを表していると言えます。そしてここに登場する「シオン山」はエルサレムの町を表しています。私たちはエルサレムと聞くとユダヤ人とパレスチナ人との間で紛争があって、絶えず人の血が流れているような物騒な町を想像してしまいます。しかし、ここに登場するエルサレムは私たちがよく知っている地上にあるエルサレムとは違います。このエルサレムは天で栄光に輝いている都を表しているからです。それではこの天のエルサレムの町には小羊であるイエス・キリストを中心としてどのような人が集められているのでしょうか。

 この天のエルサレムには神の玉座があって、その周りに四つの生き物と長老たちが陣取っています(黙示録4章)。さらにそれらのものたちを取り囲むように十四万四千人の者たちが集まって、歌っています。それでは彼らはいったいどんな歌を歌っていたのでしょうか。それは神を賛美する歌、小羊であるイエス・キリストを賛美する歌です。そしてヨハネが聞いたこの讃美の大合唱は、「大水のとどろく音、また激しい雷のように」聞こえたとも語られているのです。


②どうして神は守ってくださらないのか

 今日のお話は明らかに前回まで学びました13章の物語が伝える情景と対照をなすものとして描かれていることが分かります。この地上では、つまりヨハネが知っていた当時のローマの社会ではローマ帝国が巨大な権力を使ってキリスト教会とそこに集まる聖徒たちを迫害し続けていました。さらにそのローマ皇帝を神と崇める人々はサタンの力を借りて人々の心を巧妙にとらえていました。彼らは自分たちとは違ってローマ皇帝を拝まない人がいれば、その人たちから容赦なく生活のすべての手段を奪って、さらにはその人たちの命まで奪うという暴挙を行いました。この時、地上ではこのような信仰者を苦しめる出来事がまかり通っていたのです。実際にサタンに仕えるためにこの地上に現れた二匹の獣は、ローマの国家権力とその国家権力に結び付いた宗教勢力たちを表していて、この二匹の獣によって多くのキリスト者たちが苦しむことになったのです。これが13章で記されていたことであり、ヨハネがこの時に経験していたこの世の現実の姿だと言えるのです。

 旧約聖書に納められているダニエル書が伝えるところによれば、バビロンの異教宗教に屈せず真の神への信仰を捨てなかったダニエルたちには神の御業によって数々の奇跡が起こりました。ある時、王の命令によって燃える炉に生きたまま投げ込まれた三人の青年は全くやけどを負うことなくそこから助け出されることができました。また、空腹のライオンが待つ穴に投げ込まれたダニエル自身も無事にその穴から無傷で生還することができたのです。このようにダニエル書は地上の生涯で信仰を守り通した人々が神によってどのように守られて来たかを報告しています。しかし、ヨハネの前に繰り広げられている現実はダニエル書の報告とは違いました。信仰を守り抜こうとした人々がその信仰のゆえに命を奪われて行ったからです。どうして神はこのような現実を見ても彼らをそのままにされるのでしょうか。そこでこれらの出来事を知る者の心には「信仰のゆえに命を失っていった人々はどうなってしまったのか」と言う疑問が生まれてきます。そしてその深刻な問いに対する答えが今日私たちが読む箇所に記されていると言えるのです。


2.十四万四千人の意味

①本当の勝利者たち

 ヨハネはこの時、天上のエルサレムで小羊であるキリストと共に神を賛美する十四万四千人の人々の歌声を聞きました。そしてヨハネが聞いた歌声は決して悲しみや恨みの籠った歌ものではありませんでした。なぜなら、それは喜びを持って神を賛美する歌声だったからです。

 ヨハネの見た幻にはこの十四万四千人の人々の特徴が記されています。まず、彼らの額には小羊の名と、小羊の父の名が記されていました(1節)。これは明らかに13章16節に記されている右手か額に刻印を押された人と対照をなしています。このとき、地上では人々が進んで自らの右手や額に獣の刻印を押していました。なぜなら、そうすることによってこの世での生活が守られ、身の安全が保障されるからです。そして今日の14章に登場する人々はそれでもこの獣の刻印を自分の額に押すことを拒否した人たち、信仰を守りぬいて死んでいった殉教者たちを表していると考えることができるのです。ですからヨハネはこの幻を見ることで、信仰を守り抜いて死んでいった人たちが本当の勝利者であることを知ることができました。また、ヨハネは地上で信仰のゆえに命を奪われた殉教者たちが神の守りの中に置かれていたこを確信することができたのです。


②神に選ばれた救われた人の群れ

 この十四万四千人の数について以前に皆さんにお話ししたと思いますが。これは実際の人間の数を表していると言うよりも、この集団の意味を教えていると考えた方がよいと言えます。なぜならこの十四万四千と言う数字は「完全数」である12と言う数字に12をかけて、それを千倍すると完成する数字だからです。つまり、この十四万四千人は「完成した集団」、「完璧な集団」を表す言葉だと言えるのです。ですから、この十四万四千人は神に選ばれて、救われた人すべてが集められた集団を意味しています。そのような意味でヨハネは十四万四千人の人を見ることで、すでにこの世を去って行った信仰者たちだけではなく、時間と空間を超えて集められたすべての信仰者たちの姿を見ることができました。そして彼らがそこで勝利の讃美歌を歌う姿を目撃することができたのです。

 ヨハネはおそらくこのとき、その十四万四千人の集団の中に自分の姿も見出すことができたのではないでしょうか。このときヨハネの地上での信仰の戦いはまだ続いていました。ですからヨハネも自分の仲間たちと同じように殉教者のとなる可能性がありました。しかし、その困難の戦いを戦いぬいて、自分が天のエルサレムで神を賛美している姿を彼がここで見ることができたとしたら、それはどんなにヨハネにとって慰めであり励ましになったことでしょう。

 この黙示録を読む者は自分がすでにこの十四万四千人の中に入っていることを知ることができます。そのしてその事実を知ることでその人は信仰の戦いを戦い抜くための力を受けることができるのです。私たちはこの十四万四千人の中に入れてもらえるためにがんばるのではありません。すでに神の恵みによってこの十四万四千人の一人に自分がされているからこそ、私たちは希望を持ってこの地上の信仰生活を送っていけるようにされるのです。


3.小羊を讃える賛美

①神に従う者たちと偶像に従う者たち

 また黙示録はこの十四万四千人について「彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(4〜5節)と語っています。

 この「女に触れて身を汚したことのない者」とは偶像に自らの身をゆだねることをせず、真の神と小羊イエス・キリストに従い続けた人々であることを表しています。なぜなら、旧約聖書の時代から偶像崇拝の罪が「姦淫」にたとえられることがあったからです。

 13章に登場する二匹目の獣はサタンから不思議な力を授かり、人々の目を惑わす「しるし」を行うことができました。また彼は第一の獣をかたどって作った偶像に命の息を吹き入れることで、その偶像がものを言うことができるようにさせました(14〜15節)。

 おそらくこの獣の働きによって、人々は心惑わされ、むしろ熱狂して偶像の元に集まったに違いありません。しかし、どんなに成功に作られた偶像でも、人を救うことはできません。むしろ、これらの偶像に頼って生きようとする者は、最後には滅びるしかないのです。今日の箇所に登場する三人の天使はそのことを告げています。なぜなら多くの人々が偶像として崇めたローマという国家権力は神によってたちどころに滅ぼされる運命にあったからです。


②信じる者だけが知っている歌

 先日、日本の殉教者たちの記録を記した本を読む機会がありました。日本のキリスト者の中で初めての殉教者が現れた時、日本では豊臣秀吉が巨大な権力を持って君臨していました。この豊臣政権は急激に成長するキリスト教の勢力を恐れて、「バテレン追放令」と言う命令を全国に下します。そして豊臣政権はこの命令に従わなかった信仰者たちを逮捕して、京都から長崎まで縄につないだまま町中を引き回すことになりました。そしてその旅の終点の地、長崎の地で彼らを処刑すると言う事件が起こりました。このとき、彼らを随行した役人たちは不思議な気持ちになったと言います。なぜなら、縄に繋がれてやがて殺される運命にある信仰者たちが喜びながら歩む姿を目撃したからです

 一人の役人はこの囚人の中にまだ幼い顔した十二歳の少年がいることを知り、彼の命をなんとか助けてやりたいと思いました。そしてその少年に命を助ける代わりに信仰を捨てるように促したのです。するとその少年は「この世の短い命と永遠の命を取り換えるわけにはいきません」とその申し出を、きっぱりと断ったと言います。

 結局、役人たちもまた他の人々も命を捨ててまでも信仰を貫こうとする人々のことを全く理解することができません。まさに、彼らの生き方はこの世の常識では考えることができないものだったからです。黙示録では「この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった」(3節)と言う言葉を記しています。ひどい仕打ちを受けながらも神を賛美する信仰者たちの姿を見ても理解できず、「頭がおかしいのではないか…」と多くの人が思う原因は彼らにはこの小羊を賛美する歌を知ることが許されていなかったからです。しかし、神に選ばれ救われた人たちはそうではありませんでした。彼らは神の恵みによって喜んで小羊を賛美する歌を歌うことができるようにされたのです。


4.神に守られた人々

 日本においても安土桃山時代の末期から、明治時代の初期に至るまで長いキリスト教禁教の歴史がありました。その中で信仰を守りぬこうとした人々がどんなに厳しい戦いをしたかがこの殉教者たちの記録にも記されていました。この本を読んで私が気づかされたのは、この本の中で最初に登場するフランシスコ・ザビエルも、また次々の紹介される殉教者たちも決して完璧な人間ではなかったと言う事実です。

 ザビエルは病気で働けなくなった別の宣教師の代役として選ばれて突然、アジアに派遣されることになりました。しかし、ザビエルは派遣されたアジアで様々な争いの渦中に巻き込まれて思ったような福音宣教の働きができずに苦しみました。その中で巡り合った一人の日本人を通して、日本宣教の夢が与えられ、ザビエルは日本にやって来たのです。しかし日本でのザビエルの活動も決して順調ではありませんでした。結局、彼が所属していたイエズス会の要請で、日本にわずか二年二か月だけ留まっただけで別の国に向かいます。その後、ザビエルは再び日本に行きたいと言う願いを抱きながら、航海の途中で立ち寄った中国の地で病になって世を去りました。

 この記録の中で紹介される他の殉教者たちの生涯も、人々からの差別や偏見の中で生きながら、何度も挫折したり、失敗を繰り返す生涯を送っています。彼らに共通することはそれでも最後まで、キリストを信じ、永遠の命への希望を持って生き抜いたと言う点にあります。

 この本にはダニエル書に登場するような奇跡は何一つ紹介されていません。それはヨハネが体験したローマ時代の現実と同じだったと言うことができます。彼らは神に見捨てられた存在だったのでしょうか。神は彼らの祈りを無視して彼らに何もされなかったのでしょうか。そうではありません。神の奇跡は確かにここで起こっているのです。それは失敗を繰り返し、弱さしか持ちえなかった彼らがその生涯の最後のときまで信仰を守ることができたからです。彼らが信仰を守り抜くことができたことこそ、神の驚くべき御業であると言えるのです。

 地上の価値観はこの世の権力を偶像と崇めてそれを頼りにして生きることを奨めます。そして多くの人はその偶像が演じるパフォーマンスに惑わされ、酔いしれています。しかし、そのような時も、神に選ばれた人たちには別の価値観が与えられています。そして彼らは神に選ばれた人しか知ることを許されない小羊を賛美する歌を歌うことができるのです。そして黙示録はこの歌を歌える者のみが次のような確信を持って生きることができると教えているのです。

「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(13節)。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネはシオンの山に立つ小羊と共に十四万四千人の者たちがそこにいるのを幻の中で目撃しました。ヨハネの言葉からこの人たちがどのような人であり、彼らはこのとき何をしていたことが分かりますか(1〜3節)。

2.彼らは「女に触れて身を汚したことのない者」と言われていますが、このことのために彼らは地上でどのような苦しみにあったことが分かりますか(ヨハネの黙示録13章15〜17節参照)。

3.ヨハネが見た別の三人の天使たちはそれぞれどのようなメッセージを語りましたか(6〜11節)。

2021.7.11「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」