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2021.7.18「ふたりの息子」 YouTube

マタイによる福音書21章28〜32節

28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。

29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。

30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。

31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。

32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


1.兄は喜んでぶどう園に行ったのか?

 私は以前、東部中会(関東甲信越の教会の集まり)に属する高校生たちを教育する委員をしていたことがあります。そのために毎年高校生のために春や夏、そして冬に修養会を開催する仕事をしていました。今考えて見るとこれはとても忙しい仕事であったと思います。ある年の春に行われた高校生のための修養会のときに起こった出来事です。私はその時も委員をしている数人の牧師仲間と修養会の会場に早く到着して、いろいろな準備をしていました。そのとき私たちのところに修養会に参加する予定の一人の高校生から電話がかかってきました。その高校生は他の参加者より少し遅れて駅についたようです。そして電話で「駅から会場に行くにはどうしたらよいのか?」と尋ねて来たのです。

 そのとき、高校生の電話を取ったのは友人のA牧師でした。私はその話を横で聞いていて「駅からバスが出ているから、それに乗って来させればよい」と言ったのです。するとA牧師は私のその話を聞いてその高校生の電話で次のようなことを話したのです。

「大変だね。本当なら駅まで僕が車で迎えに行ってあげたいのだけれども、残念ながら免許証を家に忘れて来てしまったんだ。今、いっしょにいる櫻井先生なら車を出せるのだけれど、櫻井先生は「バスで来なさい」と言っている。だからごめんなさい。バスで来てくれない…」。

 私はそのときA牧師の話を横で聞いていて、びっくりしてしまいました。それでは自分だけが悪者になってしまうと思えたからです。そこで私は「わかった。私が車で迎えに行くから…」と答えて、結局その高校生を駅まで迎えに行ったのです。ところがお話はこれで終わりではありません。その高校生は会場に着くとすぐに私にではなく、A先生に向かって微笑みながら「本当にA先生はやさしいのだから…」と言ったのです。私はその高校生の話を聞いて何か自分が損をしたような気になってしまったことを思い出します。

 結局、私は「後で考え直して」その高校生を迎えに行ったのでが、喜んで行った訳でなかったので、感謝の言葉をもらえなかったのです。今日の聖書に登場するイエスの語られたたとえ話では、父親から「ぶどう園に行きなさい」と命じられた兄弟が登場しています。兄は最初、父親に「行くのはいやです」と答えたのですが、後で考え直して、ぶどう園に行くことになりました。私はこの話を読んだとき、今お話したことを思い出しました。そして「この兄は本当に、喜んでぶどう園に行ったのだろうか…」と言う疑問が浮かんで来て仕方がなかったのです。いったい、このイエスのたとえ話は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。


2.本当の権威は誰に与えられているのか?

①権威を巡るユダヤ人の宗教指導者たちとの論争

 このたとえ話を正しく理解するためには、イエスがいつ、どこで、何のためにこのたとえ話を語ったのかという事情を知っておく必要があるようです。実はこのたとえ話の直前には「権威」と言う問題についてイエスと当時のユダヤ人の宗教指導者たちとの間で論争が起こっていたのです(21章23〜27節)。

 このときイエスは神殿の境内でそこに集まる人々に向かってお話をしていました。すると、そこに「祭司長や民の長老たち」と呼ばれる当時のユダヤ人の宗教指導者たちがやって来たのです。そして彼らはイエスに向かって「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか」(23節)と問い質して来たのです。これは「この神殿で何かをする許可を与える権威を持っているのは私達だ。お前はその私たちに何の断りもなく、こんなことをしている。はけしからん…」とイエスに文句を言っているのです。そこでイエスはこのとき、彼らのこの問いには直接には答えずに、ユダヤ人の宗教指導者たちに洗礼者ヨハネの例を上げて「彼は何の権威に基づいて人々に洗礼を施したのか」と問い返したのです。ところがユダヤ人の指導者たちは自分たちの立場が悪くなることを恐れて、このイエスの問いに答えることができませんでした。そしてこの論争の後ですぐにイエスが語ったのがこのたとえ話なのです。つまりこのたとえ話はこの権威についての論争と深く関係していると言うことが分かるのです。


②誰に権威は与えられているのか

 このたとえ話では口先だけでは父親の気に入る答えをして、実際には何もしなかった弟息子が登場しています。ところが兄息子の方は違いました。彼は最初、「いきたくありません」と父親の命令に反抗しました。しかしその兄は後になって考え直して、父親の命令通りにぶどう園に出掛けて行ったのです。言葉や態度が立派に見えてもそれだけでは何の意味もありません。大切なのは、父の命令に従ったのかどうかです。つまり、このたとえ話は本当の権威とはたとえ話の兄のように父なる神の御心を聞き、それを行う者にのみ与えられているものであると言うことを教えていると考えることができます。

 かつてイギリスの教会では牧師がその権威を示すために豪華な式服を着ることが長い間の習慣となっていました。ところが聖書の教えに忠実に生きようとする清教徒たち(ピューリタン)は、この習慣に反対したのです。なぜなら清教徒たちは「牧師の権威」についてこう考えたからです。「牧師の権威は、その牧師が神の言葉を忠実に語るときにだけ表される。だから豪華な式服を着てその権威を示すようなことは誤りだ」。私たちの改革派教会はこの清教徒たちの伝統を今でも引き継いでいます。ですから、牧師が教会の礼拝で豪華な式服を着ることをあまりないのです。

 このときイエスにケチをつけたユダヤ人の宗教指導者たちは誰から見ても立派な身なりをしていました。その日常の生活でもいかにも自分たちに権威があるようにふるまって見せていたのです。しかし、イエスは真の権威とは神の御心を忠実に行う者にのみ与えられていると言うことをこの話を通して教えられたのです。ですから、真の権威はユダヤ人の宗教的指導者たちにではなく、神の御心に忠実に生きたイエスに与えられていたことが分かるのです。


3.父の願いとは何か

①もう一つの解釈

 しかし、このたとえ話を権威の問題と言う点から考えると以上のような解釈ができますが、イエスがこのたとえ話に加えられている適応の言葉を読むと、このたとえ話はもう一つ別のことを私たちに教えているとも考えることができます。なぜなら、イエスはこのたとえ話に次のような言葉を付け足して語られているからです。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(31〜32節)

 このイエスの言葉から考えると、たとえ話の中で最初は「行きたくありません」と言いながら、考え直して父の命令に従ってぶどう園に行った兄は、洗礼者ヨハネの権威を認め、その言葉を聞いて心から悔い改めた徴税人は娼婦たちのことを語っていることが分かります。また、最初は愛想よく父の命令に言葉では答えておきながら、結局は何もしなかった弟息子は洗礼者ヨハネの持つ権威を否定して、彼の言葉を信じないで、悔い改めることもしなかった当時のユダヤ人の宗教指導者たちのことを言っていることが分かるのです。


②明らかにされた神の御心

 このようにイエスはこのたとえ話を通して洗礼者ヨハネの権威を認め、彼を信じて、悔い改めた徴税人や遊女たちを評価しているのです。それではその洗礼者ヨハネが彼らに語ったメッセージはどのようなものだったのでしょうか。ヨハネは救い主イエスの到来を準備した人物として聖書の中で知られています。そして彼のメッセージの中心も救い主イエスにありました。洗礼者ヨハネはこの救い主イエスを迎えるために人々に大切な心の準備を呼びかけたからです。つまり、洗礼者ヨハネを通して示された神の御心はイエスをこの地上に遣わして、このイエスを通してすべての人々を救い出すことにあったと言えるのです。

 しかし、ここに登場するユダヤ人の宗教指導者たちはこのヨハネのメッセージに耳を傾けませんでした。そしてその洗礼者ヨハネが指し示した救い主イエスをも受け入れることができなかったのです。つまり、彼らがどんなに口先では善いことを語り、宗教的に敬虔な生活を送っていたとしても、結局彼らは神の御心を受け入れないと言う点で、たとえ話に登場する弟息子と同じだと言われているのです。


4.神は私を招いてくださっている

①どうしてヨハネを信じられなかったのか

 ところで、イエスが語られた今日のたとえ話をよく読んでみると分かることは、父親から「ぶどう園に行って働きなさい」と言われたのに、「いきたくない」と答えた兄も、また最初は「お父さん承知しました」と答えたのに結局、父の言いつけに従わなかった弟も、二人とも父の命令を無視して、できれば従いたくないと思っていたことです。つまりこの兄弟はともに父の言葉に反抗している点では同じ存在なのです。ですからもしこの父親が真の神を言い表しているとすれば、ここに登場する兄弟はその神に従う意思を持っていない「罪人」であることが分かります。聖書の語る「罪人」と言う存在はこの世の法律を犯した犯罪者のことを言うのではなく、神に従うことのできない者のことを言っているからです。その点で、このたとえに登場する兄弟は神に従うことのできない「罪人」である人間を表していると言ってよいでしょう。

 それではこの二人の兄弟はどこが違っていたのでしょうか。このたとえ話ではその分かれ道を「後で考え直して」と言う言葉で表現しています。「後で考え直す」。この言葉は兄が後になって父親の言葉に「いやです」と答えたことが間違いであることに気づき、もう一度父の命令に従う決意をしたことを表す言葉です。つまりこの「後で考え直す」と言う言葉は私たちがよく知る「悔い改め」を表す言葉として考えることができます。

 それではなぜ兄だけが悔い改めることができて、弟は悔い改めることができなかったのでしょうか。この答えはイエスの語られたたとえ話からは導きだすことができません。しかし、このたとえ話の適応部分のイエスの言葉から考えると私たちにもその答えが少し分かってくるような気がします。なぜなら先ほども触れましたように、このたとえ話の兄は洗礼者ヨハネを信じた徴税人や遊女たちを表し、弟はユダヤ人の宗教指導者たちのことを表しているからです。

 いったい洗礼者ヨハネは荒れ野で誰を招き、誰に悔い改めを求めたのでしょうか。ヨハネは自分の力では神の御心に従うことのできない「罪人」たちを招いたのです。そして徴税人や遊女たちはヨハネが語っているメッセージが自分たちのために語られていることが分かったのです。なぜなら彼らはヨハネが招いている「罪人」が自分たちのことであることが分かったからです。だから彼らはヨハネの元に行きって、自分たちの誤りを認め、悔い改めたのです。しかし、もう一方のユダヤ人の指導者たちはそうではありませんでした。彼らはヨハネが招いている「罪人」が自分たちのことを言っていると言うことが分からなかったのです。だから彼らはヨハネを通して明らかにされた神のメッセージを少しも理解することができなかったのです。


②私は「罪人」

 神の言葉である聖書を読むときに私たちに最も大切な姿勢は、そこに書かれていることが自分のために語られていると言うことを認めることです。聖書を読んで、「この言葉は自分には関係ないが、あの人には必要だ。あの人に教えてあげよう…」と言うように思うことはふさわしくありません。そのように読んでしまったら、結局、私たちは自分が悔い改める機会を逃してしまい、神の恵みを受けることができなくなってしまうからです。

 アメリカに悲惨な奴隷制度があった時代のお話です。ある日、白人の農園主が自分の大きな綿花畑を馬車に乗って見回っていました。すると彼は一人の黒人奴隷が道端に座っているのを見つけました。農場主はその奴隷に近づいてこうÚϟりつけました。「おい、お前こんなところで何をしている…?」。するとその黒人奴隷は「ご主人様、私は聖書を読んでいるのでございます」と言うのです。その答えを聞いた農場主は奴隷に向かって「その本はお前のような者が読むような本ではない」と怒鳴りつけます。ところがこの言葉に黒人奴隷は首を振り、開かれた聖書のページを指さして、こう答えたと言うのです。「ご主人さま。そう言いますが。この聖書は私のために書かれた書物だと思います。なぜならこの聖書の中には私の名前が何度も出て来るからです」。この言葉を不思議に思った農場主がその黒人奴隷の指さしている聖書の箇所をのぞいてみました。するとそこには「罪人」と言う言葉が記されていたと言うのです。

 聖書は私のために書かれている書物です。なぜなら神がこの聖書を通して招いてくださっている「罪人」とは私のことを言っているからです。このように神の言葉である聖書を読むことができる人は幸いです。なぜなら、その人は聖霊の働きによって真の悔い改めに導かれ、イエス・キリストによって救われた人生を送ることができるからです。

 神は私たちがどのような人間であるかを問題とされているのではありません。今までどのように私たちが生きて来たかということも問題としていません。大切なのは、今語られている聖書の言葉、神のメッセージが自分のために語られていることを信じ、悔い改めてそのメッセージに従うことなのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが語られたたとえ話に登場する父親は二人の息子にどのような願いを語りました(28節)。

2.この父親の願いに対して二人の息子(兄と弟)はそれぞれどのように反応を示しましたか(29節)。

3.父親の言葉に対する二人の兄弟の反応から、二人に共通しているところは何だと思いますか。また、全く違う点はどこですか。

4.どうして「徴税人や娼婦」の方が「あなたたち」(祭司長や民の長老たち)よりも先に神の国に入ることができるとイエスは言ったのですか(31〜32節)。

5.洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)とはどのようなものだと思いますか(3章1〜12節、11章2〜6節参照)

2021.7.18「ふたりの息子」