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2021.7.25「収穫の主の到来」 YouTube

ヨハネの黙示録14章14〜20節

14 また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。

15 すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」

16 そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。

17 また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。

18 すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」

19 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。

20 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。


1.主に結ばれて死ぬ人の幸い

 今日も皆さんと共にヨハネの黙示録の言葉から学び、ともに礼拝をささげて行きたいと思います。皆さんも覚えておられると思いますが、前回の聖書箇所には大変に有名な聖書の言葉が登場していました。

「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」」(13節)。

 この黙示録の言葉が有名な理由は葬儀の際に読まれる聖書箇所として改革派の式文に載せられているからです。おそらく、この言葉は改革派だけではなく、キリスト者の葬儀においてよく読まれる聖句であると思います。人の死と言う厳粛な出来事に際して、私たちが体験するのは人間の言葉の無力さです。私は牧師をしていて長い年月を過ごしましたが、今でも葬儀で肉親を失って悲しんでいるご家族に何と声をかけてあげればよいのか…、とても悩むことがあります。かけるべき慰めの言葉が見つからないのです。しかし、そんなときにこの聖書の言葉を読むことができることは、本当に牧師をしていて幸いでると思うのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と言う言葉は人間が語ることのできる言葉ではありません。この言葉は神だけが語ることのできるものだと言えます。なぜなら、神はこの言葉を私たちに対する単なる気休めの言葉ではなく、真実な言葉として語ってくださるからです。たとえその人の地上での死がどのようなものであったとしても、その死を幸いなものと神は言ってくださるのです。なぜなら神はこの言葉を私たちに責任を持って語ってくださっているからです。神の御業がこの言葉を真実なものとしてくださるのです。ですからこれほど、私たちの心を慰める言葉はないのです。

 私がこの黙示録の説教をするためにいつも参考にしている、ある牧師の語った黙示録の説教を集めた本があります。その説教集の中でこの言葉は黙示録の主題と言ってもよい言葉だとその牧師は語っていました。そしてヨハネの見た幻はこの言葉が真実であることを私たちに示すために記されていると説明しているのです。

 今日も私たちはヨハネの見た幻を続けて学びます。そこでは「人の子のような方」が雲に乗って現れる姿が語られています(14節)。これは明らかに天に昇られたイエスが、そこから再び地上に来てくださる再臨の主の姿を表していると考えることができます。そしてその再臨の主はここでは「手には鋭い鎌を持って」おられたと言われています。再臨の主イエスはその手に鋭い鎌をもって、この地上に来られて刈り入れ、つまり収穫をされるとこの幻は語っているのです。それではこの収穫は何のためになされるものなのでしょうか。それは私たちが今、確認した「主に結ばれて死んだ者」たちに語られた神の言葉と深い関係を持っていると言えるのです。


2.報われる人生とは?

 ところで聖書が言っているように「主に結ばれて死んだ者」はどうして幸いだと言えるのでしょうか。先ほどの言葉の中にその答えが簡単に記されていたことを、私たちはここでもう一度確認すべきかもしれません。なぜなら、「主に結ばれて死んだ者」は「報いを受ける」とここに語られているからです。

 どんなに苦しい人生をその人が送っていたとしても、それにふさわしい報いが与えられるなら、その苦労には意味があったと言うことができます。いえ、人は素晴らしい報いを得るために、苦労を惜しむことなく努力して生きようとするのではないでしょうか。ですからその反対に報いのない人生ほど、私たちにとって虚しい人生はありません。人生の多くの時間を使っても、何の報いも与えられないとしたら、その人はただ空虚な時間を送り、人生の時間を無駄遣いしたと言うことになるからです。

 イエスの語れたたとえ話の中に「愚かな金持ち」と呼ばれているお話があります(ルカ12章13〜21節)。その主人公の金持ちは自分の畑が豊作になってたくさんの穀物を手に入れると言う幸運を得ました。もちろん、畑がひとりでに豊作になるわけではありませんから、彼もこの豊作を手にいれるためにいくぶんかの労苦をしていたのかも知れません。このとき彼が手に入れた収穫物は彼の生涯を使っても食べ尽くすことのできないような量でした。そこで、彼は思案を重ねて、自分の持っていた古い蔵を取り壊して、すべての収穫物をしまっておける大きな新しい蔵を作る計画を立てました。やがてすべての計画が彼の思い通りに進んで、主人公の金持ちは安心します。しかし残念ながら彼の命はその晩に尽き果てて、金持ちは死んでしまいます。結局彼が、自分のためにと残した物はすべて無駄に終わってしまうことになりました。まさにこれこそが、報われない虚しい人生を送った人の姿だということを主イエスは私たちに教えてくださったのです。そして主イエスはこのたとえ話の結論で、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12章21節)と私たちに警告をしてくださっているのです。

 先日、この礼拝で少しお話した日本に初めてやって来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルはもともと貴族の家の出身でした。彼はその当時のエリートたちが集まるパリ大学で学び、将来を人々から期待される青年の一人でした。しかし、そこでザビエルはイグナチウス・ロヨラと言う彼よりだいぶ年配の学生に出会います。フランシスコはこのロヨラを通して語られた聖書の言葉に心を捕らえられます。その言葉は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16章26節)言うイエスの言葉でした。このときザビエルはこの聖書の言葉に出会うことで、その人生が変えられます。彼は今まで歩んできたエリートへの道を捨て、ロヨロの仲間になって修道士となる人生を選んだのです。そして、彼ははるばる東の果ての日本にやって来て、キリストの福音を日本人にはじめて伝えた者となりました。このようにしてザビエルはこのときから本当に価値のある人生に目指して歩み始めたのです。


3.収穫の主の再臨

①二つの収穫

 先ほども、触れましたように今日のヨハネの黙示録の箇所では再臨の主イエスが鋭い鎌を持ってやって来られ、この地上で収穫をされる姿が描かれています。実はこの箇所を読んでみると、ここでは性格の違った二つの収穫の出来事が語られているのが分かります。

 まず第一の収穫では、再臨の主イエスが雲に乗り、鋭い鎌を持って現れます。すると神殿から出てきた天使が「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」(15節)とイエスに向かって大声で叫びます。この天使の言葉はこれから起こる出来事が神の計画に従って起こるものであることを読者に示そうとしていると言えます。そして、この神の計画に従って再臨の主イエスが天から地に鎌を投げて、地上で穀物の刈り入れが行われるのです(14〜16節)。

 次に17節から再び別の第二の収穫が行われることが語られています。なぜなら、ここでは再臨の主ではなく別の天使が鋭い鎌を持って現れているからです。この天使に対して「祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使」が現れて、「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」(18節)と語りかけます。するとこの言葉に促された鋭い鎌を持った天使は地上にその鎌を投げ入れて、「地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた」(19節)と言われています。この結果、収穫されたぶどうの房を納めた搾り桶から大量の血が流れ出ると言う凄惨な光景がここでは語られています。

 このように前半の再臨の主による穀物の収穫が語られていますが、後半はぶどうの房の収穫と呼ばれ、前半と違い厳しい裁きのための収穫が語られているのです。それではこの二つの収穫はどのような関係を持っているのでしょうか。


②収穫の時を待って、毒麦を刈り取る

 イエスの語られたたとえ話の一つに「毒麦のたとえ」と言うお話があります(マタイ13章24〜30節)。このたとえ話では麦畑の持ち主が収穫のために麦の種を畑に蒔きます。ところが、そこに畑の持ち主の敵がやって来て毒麦の種をこっそり蒔いて行ったと言うのです。やがてこのことを知って慌てた使用人は畑の持ち主の元にやって来て、このことを報告します。そして、一刻も早くその毒麦の苗を抜き取ることを提案します。しかし、主人は意外にも使用人に「そのままにしておけ」と命じています。なぜなら、今それを抜き取ろうとすると、毒麦の苗と間違ってよい麦の苗まで脱ぎ取ってしまう可能性があるからだと言うのです。毒麦とよい麦は苗の段階ではその姿を見ただけでは見分けることが困難です。しかし、ひとたび収穫の時を迎えれば、その姿の違いは誰にでも見分けが着くのです。だから、畑の主人は収穫の時を待って、そのときすべての毒麦を処分すればよいと教えたのです。

 黙示録に語られた二つの収穫の出来事はこのたとえ話が語るように、結局は一つの収穫のことを語っていると言うことができます。つまり、再臨の主はこの収穫でよい麦を取りいれ、悪い毒麦、つまりぶどうの房を処分されるようとしているのです。そしてこの収穫の目的は最終的には主イエスを信じて生きた人々の人生に報いを与えるためだと言えるのです。


③一つも無駄にならない人生

 主に従い、主に救われた者の人生は皆、この収穫の時、再臨の主が実現してくださる救いの完成ために計画され、導かれています。ですから使徒パウロはこのような人の人生について次のような言葉で説明しています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)。このパウロの言葉は「すべてのことが自分の都合のいいように進む」と言うことを言っているのではありません。この言葉は神がその救いを完成させてくださるために、私たちの人生を用いてくださるのですから、その人生には無意味なことは何一つ起こらないと言うことを説明しているのです。そしてその言葉が真実であったことを私たちは主イエスが再臨されたとき、この収穫の出来事を通して自分の目で確認することができるのです。

 ですからヨハネはこの幻を通して、再臨の主が来られるときに私たちの人生の秘密がすべて明らかになり、私たちが本当に「自分は生きてきてよかった」と言える時がやって来ることをここで明らかにし、この黙示録の読者たちを励まそうとしているのです。


4.神の前に豊かになる人生を送るために

①他人の生き方をまねてもどうにもならない

 おそらく、この地上に生を受けた人間は誰でも自分の人生に確かな生きがいが与えられて、「本当に自分は生きてきてよかった」と言えるような人生を送りたいと心から願っているはずです。しかし、残念ながら神を忘れた人間は、どう生きれば、そのような人生を送れるのかわからないまま生きているのです。だから、多くの人は他人のまねをして、何とか自分の人生に生き甲斐を得ようと考えます。しかし、いくら他人のまねをしても、自分の人生にその人と同じような生きがいが与えられるとは限りません。私たちはどんなに人のまねをしてもその人と全く同じになれるわけではないからです。

 それはまるで、暗い夜道で迷って運転を続ける車のドライバーの姿によく似ています。彼は自分が今、どこの道を走っているのか全く分からなくなっています。すると幸いなことに、自分の車の前を走る一台の車があることを彼は発見します。そして道に迷ったドライバーは「これ幸い」と、その前を行く車の尾灯を目印に、その車の後を着いて行こうとしました。しばらく走ると前の車がいきなりある場所で止まりました。ドライバーが驚いていると、前の車の運転者が車から降りてきて、「あなたは、私の家に用事でもあるのですか」と尋ねます。その時、道に迷っていたドライバーが車の周りを確かめると、そこはすでに他人の家の敷地の中であったことに気づいたのです。


②流された血と汗は一滴たりとも無駄になることはない

 神の言葉である聖書は私たちがこの人生で進むべき道を教えています。そしてその言葉に従って生きるならば、私たちの人生は神によって豊かに用いられて、私たちの人生に本当の生き甲斐が与えられるのです。主イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と語りました。そして私たちに神の前で豊かになる人生を送る道を教えてくださったのです。

 何度も語って来たように、ヨハネがこの幻を神から見せていただいた時代、聖書の言葉に従い信仰生活を送っていた者たちはローマ帝国の激しい迫害の中に生きていました。その一方で、この世の権力者の言葉に従う人々は地上で豊かな富を得て、何不自由ない人生を送ることができていたのです。しかし、彼らの生き方は自分の人生を本当に豊かにさせるものではなく、むしろ自分の人生を無駄遣いし、神の裁きを自分に招いていることをこの幻は私たちに教えようとしています。

 この幻の中に祭壇のところから火をつかさどる権威を持つ天使が現れたと言う場面があります(18節)。そしてこの黙示録の別の箇所では、この祭壇でささげられる香の煙が殉教者たちのささげた祈りと共に立ち上ったと言う話が記されていました(8章4節)。ですからこの天使の言葉はこの殉教者たちの祈りに対する神の答えを示していると言われています。つまり彼らがこの地上で流した血と汗は一滴たりとも無駄になることはないことが語られているのです。なぜなら神が必ず彼らに正しい報いを与えてくださるからです。しかし、ここで別の天使に刈り取られたぶどうの房たちは違います。彼らの入れられた搾り桶から流れ出る血は、この世の人生を神なしに生きようとした虚しい人生の結末を表しているからです。

「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」」

 このようようにヨハネの見た幻はこの聖書の言葉が私たちの人生にとって真実であることを教えるためにここに書かれていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネはここで「白い雲が現れて」、そこに誰かがいるのを目撃しました。それ方は誰で、どのような姿をしていましたか(14節)。

2.このお方に向かって別の天使はどんな言葉を叫びましたか(15節)。この言葉によってはじまったことは何でしたか(16節)。

3.さらに17節に登場する別の天使はどのような姿をしていましたか。この天使に語り掛けた別の天使はどこからやって来て、どのようなことをこの天使に語りましたか(18節)。

4.この天使が取り入れたぶどうはやがてどのようになりましたか(19〜20節)。このような表現から、このぶどうの収穫は神のどんな御業を表していると考えることができますか。

2021.7.25「収穫の主の到来」