2021.8.1「最後の七つの災い」 YouTube
ヨハネの黙示録15章1〜8節
1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
2 わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。
4 主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」
5 この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。
6 そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。
7 そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。
8 この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。
1.時間は繰り返さない
①いつでも初体験
今年も暑い夏の季節に突入しています。この季節になると、今は施設に入居されていてこの礼拝ではお会いする機会がなくなっていますが、私たちの信仰の仲間のY姉のことをよく思い出します。毎週、熱心に教会の礼拝に通って来られていたY姉は、夏の暑い日差しの中、汗を流して教会にやって来られます。そしてそのとき、Y姉が必ず口にする言葉があります。「今年の暑さは異常だ。こんな暑さは、今まで体験したことがない…」。そう言われるのです。確かに近年、世界的に起こる異常気象によって日本の夏の暑さも年々、厳しくなっていることも事実です。しかし、私はこのY姉の言葉を聞くたびに「Y姉は確か去年も同じようなことを言っていたような気がする。そしてその前の年も同じような言葉を聞いたはずだ…」。客観的なデーターでいえば、夏の暑さは酷暑や冷夏の差はあっても、毎年必ず訪れるもので、毎年のように「初めて体験した」とは言う表現は少し言いすぎなのではないか…そう思えてならなかったのです。
しかし、自分が年をとって高齢者の仲間入りをするような年頃になって、私はY姉の言葉の意味が少しわかるようになりました。確かに夏の暑さは、毎年やってくるもので大きな違いはありません。しかし、その暑さを経験する自分の体力は毎年、歳をとるごとに少しずつ衰えて来ているのです。つまり、たとえその年の夏の暑さが昨年と同じものであったとしても、それを感じる自分の方の身体の条件が変わってしまっているのですから、やはりそれは自分にとって「初めての体験」と呼んでも誤りではないのです。そのような、意味で私たちは全く前と同じような体験をしたとしても、決してその体験は以前のものと全く同じではなく、ある意味で初めての体験をしているということと言えるのです。
②すべてのものに始まりがあり、終わりがある
私たちはどこかで日常の生活を同じことの繰り返しと考えてしまうところがあるのかも知れません。インドにその起源をもつ仏教には「輪廻」と言う思想があります。人間の命を含めたすべてのものは繰り返し続いていく、それはちょうど車の車輪に似ていると言う教えです。この思想に影響されているすべての宗教では始まりも終わりもありません。すべてのものは形を変えながらも繰り返しずっと続いていくと考えるのです。私たちも知らず知らずにこのような思想の影響を受けて育てられてきました。だから、日本人は特に旧約聖書のコヘレトの言葉に親近感を持つのかも知れません。コヘレトの言葉は次のように語っているからです。
「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。」(1章9〜10節)
しかし、聖書の教えは私たちの知っている東洋思想とは違います。なぜなら、聖書は私たちの人生には始まりがあり、終わりがあること語っているからです。また聖書は同じようにこの世界にも始まりがあり、終わりがあることをはっきりと告げているのです。つまり、私たちの人生もこの世界の歴史も一見繰り返しのように見えることがあったとしても、それは誤解であって、単なる繰り返しのような出来事は起こらないのです。私たちは今、新約聖書の中で一番最後に収められているヨハネの黙示録の言葉を学んでいます。この黙示録は私たちにこの世界の終わり、また私たちの人生の終わり、つまり「終末」の出来事を取り扱っていると言ってよいものです。ですから、私たちがこの黙示録の言葉を理解するためには、私たちは「すべてのことは始まりもなく、終わりもない。すべては繰り返されている」と言った古い東洋の思想を捨てて、聖書の教える正しい考え方から学ぶ必要があるのです。
2.七人の天使の登場
①満ち溢れた神の怒り
これまで、私たちはこの地上にくだされる神の厳しい裁きについて学び続けて来ました。それではなぜ、神は厳しい裁きをこの地上に下す必要があるのでしょうか。それは悪魔によってこの地上に遣わされた二匹の獣、それは神に敵対する地上の国家権力と、その国家権力を絶対化して崇める宗教を表すものでしたが、この二匹の獣によってこの世界に不正が蔓延ることになったからです。この不正の結果、神に従う人々の命と生活が脅かされることとなりました。神はこのような不正をいつまでも見逃されることはありません。なぜなら、世界の歴史は神の御業による完成に向かって進んでいるからです。その完成のためには神の計画に敵対し、それを邪魔するすべてものは取り除かれなければなりません。
今日の聖書の箇所では「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである」(1節)と言う言葉で始まっています。ヨハネはここで七人の天使が最後の七つの災いを携えて来るのを見ます。そしてその災いで「神の怒りがその極みまで達する」ものと語っています。神の怒りが「極みまで達する」とは、もはやその怒りを収めておく場所がどこにもなくなったことを表しています。福島の原子力発電所からでる放射能を含んだ汚染水を貯め置くために、たくさんの貯水タンクが作られました。しかし、もはやそのタンクでは汚染水を収めることができないので、日本政府は海にその汚染水を放出するという計画を発表しました。まさに、神の怒りをもはやどこにも収める場所がないほど満ち溢れていると黙示録はここで語っているのです。
②他人を裁く誤り
ところでこの神の裁きを心待ちにしていた人々がいたことを黙示録は既に紹介していました。それは二匹の獣に従わず、その刻印を押されることのなかった人々、この世の生涯でキリストに従うために命をささげることになった殉教者たちです。彼らはこの黙示録の中で神に向かってこのような叫びをあげています。
「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(6章10節)。
人は神に代わって自分が裁き主になろうとする傾向を持っています。いつも自分は正しくて、他人は間違っていると考えるからです。そのような思いで他人を厳しく裁くことを好むのです。しかし、ここに登場する殉教者たちは違いました。彼らは他人を裁くのを止めて、すべての裁きを神に委ねようとしたからです。なぜなら、私たち人間の怒りにはいつもどこかに誤りが存在しているからです。だから人間は麦畑に撒かれた独麦を抜き取るために、大切なよい麦まで抜き取ってしまうような愚かな過ちを繰り返してしまうのです。私たちがこのような過ちから解き放たれるためには、自分で他人を裁くことを止め、それを正しい裁き手である神に委ねる必要があるのです。
神の裁きを待ち望む者は決して、自分を正当化することはできません。なぜなら、その神の裁きの対象の中には自分も含まれていることを彼らは知っているからです。だからこそ、殉教者たちはこの世の大切な命を、他人を裁くことに使うのではなく、神に従うために用いることができたのです。
3.勝利した者たちの歌
この15章では神による最後の災いが始まることが告げられていますが、実際にその災いの出来事が続けて語られているのではなく、その代わりに天上で起こった聖徒たちの賛美の歌声が報告されています。この賛美を歌う人々は「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」(2節)です。つまり彼らはローマ帝国の権力と皇帝崇拝への誘惑を退けて、キリストへの信仰を貫いた人々であることが改めてここで語られています。さらに彼らは「神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた」とも語られています。そしてその人々が歌ったのは「モーセの歌と子羊の歌」と言われているところから、ここに登場するガラスの海はかつてイスラエルの民が渡った紅海の海を連想させるものであると考えらえています。
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民を追って、エジプトの王の軍隊がやって来ました(出エジプト記14章)。そのエジプトの軍隊とイスラエルの民の運命を分けた出来事がこの紅海で起こった奇跡の出来事です。このとき神の不思議な力によって紅海の中に作られた乾いた道をイスラエルの民は進むことで向こう岸に着くことが出来ました。しかし、そのイスラエルの民を追って来たエジプトの王の軍隊はこの紅海の海に飲み込まれて死んでしまったのです。このとき紅海の「岸に立つ」たイスラエルの民はこの神の起こされた奇跡を目撃して、神を賛美する歌を歌いました(出エジプト15章1〜21節)。ただしこの黙示録の中で「岸に立つ」人々はモーセの歌だけではなく、子羊の歌をも共に賛美しています。つまり、彼らはこの最後の神の怒りを通して、神の大いなる業を目撃し、それを賛美しているのです。
どうして彼らはこの神の厳しい裁きから免れることができるのでしょうか。それは彼らのために命をささげてくださった小羊イエスの贖いの御業のためです。神の厳しい裁きから自分を救うことのできるものはこの世に一人もいません。しかし、子羊であるイエスは私たちに代わって十字架で神の厳しい裁きを受けてくださったので、私たちは救うことができるのです。だからこそ、彼らはここで自分たちを神の厳しい裁きから逃れさせ、救い出してくださった小羊イエスを心からほめたたえて賛美しているのです。
4.終末の勝利を見つめながら
①人生のゴールを目指して生きる意味
このようにヨハネの黙示録は神の最後の怒りを取り扱う部分に際しても、まず、その厳しい裁きから自分たちが守られているという事実をここで信仰者たちに再確認させています。そしてその厳しい裁きから自分たちが免れることができるのは小羊であるイエス・キリストの救いの御業によると語るのです。私たちの救いの根拠は私たち自身ではなく、この子羊に置かれているからこそ、確かなものであり、絶対に変わることのないものだと言うことができるのです。
それでは私たちがこの天上で歌われている賛美歌、勝利の歌声を聞く意味はどこにあるのでしょうか。それは私たちの人生のゴールの確かさをここで私たちが再確認することで、私たちの日々の歩みが決して、無駄ではないことを知るためです。なぜなら、この確かな人生のゴールを知らない者にとっては日常の生活は無意味で耐え難いものになってしまうからです。そのような人々にとって毎日繰り返される出来事は、無意味な繰り返しを強いられる拷問のようなものになってしまうのです。しかし、この人生のゴールを知らされている人の歩みは違います。その人にとって今日のわずかな歩みも、このゴールに達するための一歩であることが分かるからです。ですからこの真理を知る者は毎日の日常の歩みを大切に生きることができるのです。
②勝利の賛美が私たちに生きる力を与える
アメリカの公民権運動の際によく歌われた賛美歌に「We shall overcome」(讃美歌第二編164番)と言う歌があります。かつてこの公民権運動の指導者だったマルチン・ルーサー・キング牧師が教会で集会をしている時のことです。その教会の周りをたくさんの人種差別主義者の暴徒たちで取り囲むと言う事件が起こりました。暴徒たちは教会に集まるルーサー牧師たちを「血祭りにする」と意気込んで集まって来たのです。このとき、教会に集まっていた人々は恐怖に震え、パニックに陥ってしまいます。そのとき、キング牧師がその会衆に対して呼びかけました。「皆さんで賛美歌を歌いましょう。大きな声で、ゆっくりと、そして一つ一つの言葉の意味を確かめながら賛美歌を歌いましょう」と言うものでした。このキング牧師に促されて会衆が歌った賛美歌こそ、勝利を待ち望む歌であったと言われています。やがて、会衆はこの賛美によって冷静さを取り戻し、暴徒たちに対しても適切な対応を取ることができ、その場を切りぬけることができたと言うのです。
ヨハネが生きた時代のキリスト者はローマの国家権力による弾圧に苦しめられていました。彼らは「自分たちはこれからどうなってしまうのだろうか」と言う不安を抱いていたのです。だからこそ、ヨハネはこの黙示録を通して彼らに天上で歌われる勝利の賛美の歌声を届けたのです。その歌声こそが彼らを不安や恐怖から解き放ち、冷静な態度を持って、今日と言う二度とは来ない一日を、勇気をもって生きる力を与えることができるからです。
そしてこのヨハネの黙示録は今を生きる私たちにもこの天上の賛美を届けよとしています。その上で私たちにもこの天上の賛美に加わるようにと促しているのです。私たちが彼らと共に神の勝利を確信する歌を賛美するなら、私たちにも神から力が与えられます。そして、この賛美を歌う者たちは今日と言う日の出来事が無意味な繰り返しではなく、私たちの人生のゴールに向かうための大切な一歩であることを知らされます。そして私たちが二度と来ない今日と言う日を確かに生きることができるようにしてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.この時ヨハネが天で見た「もう一つの驚くべきしるし」とは何でしたか(1節)。
2.ヨハネが見たガラスの海の岸に立つ者たちはどのような人たちでしたか。彼らはそこで何をしていましたか(2〜3節)
3.ガラスの海の岸辺に立っていた人たちが歌った賛美の内容はどのようなものでしたか(3〜4節)。
4.このとき神殿から出て来た七人の天使たちはどのような姿をしていましたか。彼らは何をするためにここに現れたのですか(6〜8節)。
5.もし神の怒りから自分の力で免れることができたと考える人はその自分を誇るはずです。しかし、ここに登場する聖徒たちは自分ではなく小羊を賛美しています。それはなぜですか。