2021.8.15「目を覚まして衣を身に着ける」 YouTube
ヨハネの黙示録16章1〜16節
1 また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
3 第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。
4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。
5 そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、かつておられた聖なる方、/あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。
6 この者どもは、聖なる者たちと/預言者たちとの血を流しましたが、/あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。」
7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。」
8 第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。
9 人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。
10 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、
11 苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。
12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。
13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
15 ――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
16 汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。
1.悔い改めを迫る神
①信じることによって何を得ることができるのか
昔、中国の皇帝が自分の住む宮殿に一人の高僧を招待しました。そこで皇帝はこの高僧にこう尋ねたと言うのです。「私はこれまでたくさんの寺院を建て、多額の寄付してきた。ところで私はいったいどのような功徳(ご利益)を仏さまから得るのでしょうか…」。するとその高僧は皇帝に向かって「無(功徳)」と一言答えただけでその場を立ち去ったと言うのです。
多くの人々が信仰について考えるとき、「それを信じたらどのようなご利益を得ることができるのか」と言うことを問題にします。つまり、その信仰は自分にどのような利益をもたらすかと言うことに関心を持つのです。「損をしてまで面倒な信仰を持つことにどのような意味があるのか」と思うのでしょうか。確かに、信仰を通して私たちは神から大きな利益を受けることは間違いないことだと言えます。だからと言って神がいつでも自分の都合のいいように働いてくださると言うことではありません。もし私たちの都合のいいように働くのが神の役目であるとすれば、神と私達との関係は「私が主人で、神は私の僕」と言うものになってしまいます。しかし、聖書が私たちに教える神と私達との関係はこのようなものではありません。いつでも「神は私たちの主人であって、私たちはその神の僕に過ぎない」と言えるのです。しかし、いくら神が私たちの「主人」だからと言っても、私たちを身勝手に取り扱われる訳ではありません。むしろ、神はいつも私たちにとって最善の道を準備し、私たちにその道を進ませてくださる方であると言えるのです。ですから神は私たちが行くべき道を間違えたり、見失ったりすれば、それを正して下さる方だとも言えるのです。
聖書が私たちに度々語っている「悔い改め」と言う行為は、この神からの私たちに対する配慮によって与えられるものだと考えることができます。ですから、私たちが神の求めに従って「悔い改める」ことができるなら、私たちは神が準備してくださった最善の道を歩み、真の救いにあずかることができると言えるのです。
②七つの鉢の災い
この黙示録を記したヨハネは、幻を通してこの地上に下される神の厳しい裁きについて今まで語って来ました。七つの封印が解かれるたびに地上に起こった災いがありました(6〜8章)。そして七人の天使がラッパを吹くたびに起こる七つの災いもありました(8〜14章)そしてこの16章からは神の怒りが盛られた「七つの鉢」が引き起こす災いが語られていきます。この七つの鉢の中身が地上に注がれるたびに、地上に深刻な災いが下されていくのです。
それではなぜ、神はこのような形で地上に災いを下し続けておられるのでしょうか。それは決してこの地上の人々をいじめて、痛めつけるためではありません。なぜなら、神はこのような災いを経験した者が自らの過ちを悟り、「悔い改める」ことを求めておられるからです。ですからもし、この災いを通して悔い改めることができる者がいれば、神はこの厳しい裁きの中にあってもその人に最善の道を備えてくださり、神の厳しい裁きから助け出してくださると考えることができるのです。しかし、黙示録が描き出した地上の人々の姿は悲惨です。なぜなら、彼らは自分たちにどのような災いが下されても、そこに神の業を認めることができないで、大切な悔い改めのチャンスを逃してしまうからです。そればかりではありません。彼らは自分の過ちの責任をこともあろうに真の神のせいにして、最後まで神に反抗し続けようとするのです。
今日の箇所には「ハルマゲドン」と言う言葉が登場します(16節)。今では大変多くの日本人がこの言葉を知るようになりました。しかし、この言葉が聖書に書かれた言葉であることを知る人は少ないかもしれません。さらにこの言葉の意味を正しく知る人はほとんどいないと言っても間違いではないと思います。いったい、黙示録はこの「ハルマゲドン」と言う言葉を使って私たちに何を教えようとしているのでしょうか。
2.悔い改めない人々
①神の御業を認めない人々
この16章では天使が神の怒りの盛られた七つの鉢の中身を地上に注ぐたびに災いが起こっていく姿を記録しています。まず第一の災いでは獣の刻印を押されている人間たち、これはすでに何度も学びましたようにローマの皇帝崇拝を自らの利益のために受け入れて、真の神に仕えるキリスト教徒を迫害した人々のことを意味しています。この人々に悪性のはれ物ができて、彼らが苦しむと言う出来事が起こります。さらに第二の鉢の中身が注がれるとすべての海の水が血にそまって、海の生き物がすべて死に絶えると言う出来事が起こります。その上で第三の鉢の中身が注がれると今度は川とその水源の水が血に染まります。そして第四の鉢の中身が注がれると太陽が高熱を発して人間を焼き殺すようになったと語られています。第五の鉢の中身が注がれると今度は地上が闇に覆われてしまい、人々は苦痛に苦しんで自ら命を絶ちたいとまで願うようになります。
この五つの災いの中でヨハネが記している特徴的な言葉は、地上の人々はこのような災いを経験しても「悔い改めて神に栄光をたたえることをしなかった」(9節)と言うことです。さらに彼らは「天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった」(10節)とも語られています。つまり、地上の人々はこれらの災いに出会いながらも、この現象を自分たちに「悔い改め」を求めておられる神の御業と認めることができなかったのです。彼らにとってはこれらの災いは今まで繰り返しこの地上で起こって来た疫病や自然災害の類でしかないと考えられてしまっています。そして彼らは結局自分たちに与えられていた悔い改めのチャンスを逃してしまったのです。
②ハルマゲドン
さて六つ目の鉢の中身が注がれたときに起こった災いは、それ以前の災いと語り方が大きく違っています。
「第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた」(12節)。
ヨハネの時代、広大な地域を治めていたローマ帝国の東の境にはユーフラテス川が流れていました。そしてその川の東にはローマ帝国に敵対するパルティア、これは現代のイランにあった国で、このパルティアの軍隊が度々ローマに侵入して人々を苦しめていました。そしてそのパルティアの攻撃からローマを守る自然の防衛線がユーフラテスと言う大河がだったのです。黙示録ではこの「川の水が枯れて、王たちの道ができた」と言われています。つまり、ローマの支配を揺るがすような出来事がここで起こると黙示録は言っているのです。しかし、よくこの箇所を読んでみるとこの出来事はもっと深刻はことを語っているのが分かります。
「わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである」(13〜14節)。
この言葉を読むと、六つ目の鉢の災いはパルティアによるローマ侵攻の危機どころではなく、悪霊の呼びかけによって集められた全世界の王が神に敵対して、最後の戦いを挑む姿が記されています。つまり、この悪霊によって集められた王たちが集う場所こそが「ハルマゲドン」と呼ばれるところだと黙示録は言っているのです。つまり、このハルマゲドンに集められた者たちは自分たちの上に下された神からの災いを経験しながらも、悔い改めることをせずに、自分たちが負うべき悪の責任をかえって神のせいにして、その神と徹底的に争おうとして出て来ているのです。このようにハルマゲドンは神に対して悔い改めを示さないで悪霊に支配されたすべての者たちと、神との間に起こる最終戦争の起こる場所を意味しているのです。
3.真の悔い改めとはどういうことか
さて、ヨハネはこのようなハルマゲドンの出来事について語りながら読者たちに次のような再臨の主イエス・キリストの勧めを語っています。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」(15節)。
黙示録ははるか将来に起こる出来事を私たちに教えて、そのことのために今から準備しなさいと教えているのではありません。むしろ、黙示録は私たちの人生で「今すぐに」信仰的な行動を起こすようにと奨めているのです。それでは、私たちは今、何をすればよいのでしょうか。それは明らかです、黙示録が何度も私たちに語って来たように「悔い改める」ことであると言えるのです。
しかし、この「悔い改め」について私たちには色々な誤解を感じているかも知れません。ですから、私たちはこの「悔い改め」についてここで正しく整理して考える必要があると思うのです。まず「悔い改め」は単なる「後悔」ではありません。
先日、フレンドシップアワーで聖書の士師記を勉強していて、こんなお話を読みました。ある時、カナン人の王アドニ・ベゼクはイスラエルの軍隊と闘って敗れ、彼らの捕虜となってしまいます。そのとき彼は手足の親指を切断されるという出来事を経験します。そしてこのようなひどい仕打ちにあったアドニ・ベゼクは次のように語ったと士師記は言っているのです。
「かつて七十人の王の手足の親指を切って、わたしの食卓の下で食べかすを拾わせたことがあったが、神はわたしが行ったとおりにわたしに仕返しされた。」(士師1章7節)。
アドニ・ベゼクは自分が受けた仕打ちは、自分がたくさんの王たちにして来たことの報いとして神から与えられたものであることをここで認めています。しかし、アドニ・ベゼクは神の御業を認めているのですが、決して「悔い改める」ことはしていません。彼は単に、自分の犯した失敗を後悔するだけで、それ以上のことはしていないのです。ですから結局、アドニ・ベゼクは捕虜の身となって一人寂しっく死んでいきます。
「悔い改め」は人間がよくする「後悔」とは違います。「悔い改め」とは自分の人生に起こった出来事を神の御業であると認めた上で、神がその御業を通して自分を正しい道に引き戻そうとされていることを信じ、その神の御心に応答することを言うからです。
新約聖書の福音書の最初の部分に登場する洗礼者ヨハネは当時の人々にこの「悔い改め」を訴えた人物として有名です。それではヨハネは人々にどのような「悔い改め」を教えたのでしょうか。それはヨハネの後から来られる方、イエス・キリストに人々の心を向けさせることでした。なぜなら、私たちの犯した罪は、このイエス・キリストによって完全に償われ、このキリストによって私たちと神との関係が正しくされ、私たちが神の子となって生きることができるようになるからです。ですからまことの悔い改めとは私たちに「悔い改め」を求める神の御業を認めて、私たちがイエス・キリストを信じるまでのことを表す言葉なのです。
4.キリストを着る
ときどき信仰生活を修行のように考える人がいます。そのような人は聖書の戒めに従って、自分の生活を少しずつ変えて行って、最後には神に喜んで受け入れてもらえるような聖人のような存在になりたいと考えます。しかし、彼らはいくらがんばっても結局、自分が聖書の教えに従えないのを知って、最後には気落ちしてしまうか、疲れ果ててしまう他ありません。何よりもこのような誤解をして信仰生活を送る人は、いつまでたっても自分が救われていると言う確信を持つことができないために悩み続けることになります。
また、他の人は信仰生活を知的な理解を深めることだと考えています。彼らは聖書や信仰書を読んで日に日に、自分の信仰的な理解を深めて、神との距離を縮めて、ついには「悟り」のようなものを得たいと考えるのです。しかし、どんなに神についての知識が深まったとしても、それだけでは本当に神を知ったと言うことができません。
私たちがもし自分の信仰生活についてこのような誤解を持っているとしたら、私たちは今日の黙示録の言葉をもう一度読み返す必要があります。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」
この言葉から分かるように、私たちには修行を積む時間も、知的な理解を深める時間も残されていないのです。聖書は私たちに残されてた時間でできることは「衣を身に着けること」、つまり上着を羽織ることだけだと言うのです。それでは私たちはどんな上着を身に着ける必要があるのでしょうか。その答えについてパウロは「主イエス・キリストを身にまといなさい」とローマの信徒への手紙の中で私たちに教えています(13章14節)。そしてさらにパウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「キリストを身にまとうこと」について詳しく説明しています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3章27節)。
結局、聖書は私たちが自分に残されたわずかな時間でできることは、キリストを着ることだけであると教えているのです。そして黙示録は今すぐにこの言葉に従ってこのキリストを信じ、キリストを着る者には厳しい災いの中にあっても神によって最善の道が準備されていることを私たちに教えているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.七人の天使が語った七つの鉢の中に盛られていたものとは何でしたか(1節)。
2.第一の鉢の中身が地上に注がれたとき、誰にどのようなことが起こりましたか(2節)。
3.つづけて、第二、第三、第四、第五の鉢の中身が注がれたときにはどのようなことが起こりましたか(3〜11節)。黙示録はこれらの出来事を経験した人々の反応をどのように紹介していますか。
4.第六の鉢の中身が注がれたときにどのようなことが起こりましたか。また、黙示録は「ハルマゲドン」をどのようなところだとここで語っていますか(12〜16節)