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2021.8.22「子羊と勝利を共にする」 YouTube

ヨハネの黙示録17章6〜18節

6 この女を見て、わたしは大いに驚いた。

7 すると、天使がわたしにこう言った。「なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。

8 あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。

9 ここに、知恵のある考えが必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。

10 五人は既に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるのはごく短い期間だけである。

11 以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。

12 また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威を受けるであろう。

13 この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる。

14 この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」

15 天使はまた、わたしに言った。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。

16 また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。

17 神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。

18 あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである。」


1.ローマの正体

①ローマの歴史から何を学ぶのか

 今日もヨハネの黙示録の言葉から私たちの信仰生活についての知恵を学んで行きたいと思います。前回の16章の箇所では神の怒りが盛られた七つの鉢が、七人の天使たちによってこの地上に注がれたこと、そしてそのたびに、地上では様々な災いが起こったと言う幻が語られていました。ここで示されている災いは単なる天変地異と言った自然現象ではありません。この災いは神に背を向けて歩む地上に住む人々に対して、悔い改めを迫っておられる神の御業であることを私たちは学んだのです。ところが、神のこのような御心にも関わらず多くの人はこれを無視して、悔い改めを拒否し続けます。そして彼らはこの災いの責任を神のせいにして、その神を冒涜するような救いようのない反応を示したことをヨハネの黙示録は記録しています。

 これに続く17章や18章の記事は16章に語られた災いの中で特にローマと言う大帝国の都がどのような神の裁きを受けるかを詳しく語った箇所であると考えられています。この世界の歴史はそこに住む人間のさまざまな営みを通して形成されると考えることができます。しかし、聖書はその人間の営みを用いて歴史を導いてくださるお方がおられることを教えています。つまり人間の歴史を作る本当の主人公は神ご自身だと言うのです。ですからローマの歴史も神の御心によって導かれていると考えてよいと言えます。それではなぜ、この黙示録は神の裁きがこのローマの都に下されると語るのでしょうか。それはローマ自らが犯した罪によると黙示録は語っているのです。

 かつてこのローマ帝国の歴史を取り扱った書物を書いた日本の作家が「今までのローマ帝国に対する多くの評価はキリスト教というフィルターを通して考えられているので誤っている」と語っていたのをどこかで読んだことがあります。ですからその作家はキリスト教のフィルターを通さないローマの歴史を紹介したいと思い本を書いたと言うのです。確かに、ローマ帝国が残したものは数多くあり、人類に残された大切な遺産として評価することもできると思います。その点に関して聖書はローマが作り出したものがすべて悪いと言っているのではないと言えます。しかし聖書はこれらの優れた文化を持ちながらローマの都が退廃し、すたれていった原因がどこにあるのかを私たちに教えようとしていると言えるのです。なぜなら、現代社会に生きる私たち自身がローマと同じ誤りを犯すことがないようにするためです。それを学ばなければ優れた文化と繁栄を誇ったローマが滅んでいったように、私たちの生きる現代世界も同じ運命をたどる可能性があるからです。


②致命的な罪

 この17章は「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。」(1節)と言うヨハネに語り掛ける天使の言葉で始まっています。この「多くの水の上に座っている大淫婦」と語られているのがローマの都自身を指す言葉であると考えられています。ローマはベニスのような水の都ではありませんが、聖書解釈者たちはこの言葉はかつての世界帝国の都バビロンを表していると解説しています。なぜなら、バビロンはユーフラテス川の上に建てられた自然の要塞都市であったからです。黙示録はローマを「バビロン」と言う都市名を使って表すことをしています。それはローマがこのバビロンとよく似ていると考えられたからかも知れません。それはこの二つの都市が繁栄と豊かさを誇った町でありながら、致命的な欠点を持っていたからです。その欠点こそが「大淫婦」と言う言葉で表現されているものです。この「大淫婦」と言う言葉はその町が真の神との関係を捨てて、偶像礼拝に陥っていることを表している言葉です。なぜなら、旧約聖書は偶像礼拝の罪を度々「姦淫」と言う言葉で表現しているからです。つまり、これらの都市は神によって豊かな繁栄をいただいたにも関わらず、その神を忘れ、むしろその神の栄光を自分や他の偶像に与えるような致命的な罪を犯してしまったのです。ですからむしろ、神からの祝福として与えられたものが、返って彼ら自身が滅びてしまう原因を作るものになってしまったのです。

 確かにローマは神からの祝福を受けて繁栄しました、しかし、ローマはそれらの繁栄を自らの力で生み出したものと考え、その力を誇る点で大きな間違いを神の前で犯してしまったのです。そして黙示録の表現はこのローマの繁栄に酔いしれる人々の姿を記しています。しかしローマの繁栄に酔いしれる人と違って、黙示録はこの女、つまりローマの都がどんなにすばらしい装飾品で身を飾っていても、その飾りの下は神を冒涜する言葉で覆われていたと語っているのです。


2.キリスト者の生き方

①私たちの生活を祝福する神

 意外と多くの人がキリスト教の信仰生活について誤解していることがあります。その中でも信仰を持った人たちは世間の人とは違う生き方をしなくてはならないと考える人がいます。極端な考え方では世俗の生活を捨てて、聖書を読み、祈りに励むような清い生活を送る必要があると考えるのです。しかし、私たちの信仰生活は禁欲主義のようなものではありません。もちろん、聖書を読み、神に祈りをささげることは信仰生活にとって大切なことです。しかし、私たちはこの世の生活が自分の信仰と矛盾するものとは考えていません。むしろ、私たちは信仰者としてこの世界に深く関わることで、神に奉仕することができると考えているのです。なぜなら、この世界を造ってくださり、また私たちのためにそれを与え、今もなお保ってくださっているのは神であることを私たちはよく知っているからです。

 ですから私たちの信仰生活にとって大切なことは、私たちを祝福してくださっているのが神であり、私たちはその神からいただいたものを通して、どのように神に仕えるのかを考えて行動していくことかと言うことなのです。そうすれば、神が私たちのために与えてくださったものが本当の意味で私たちを生かすためのものとなるからです。

 黙示録が指摘するローマの誤りは祝福の源である神を忘れて、あたかもすべての祝福は自分の力で勝ち取ったものと考えて、それを自分勝手に用いてしまったことにその悲劇の原因があると教えているのです。


②神なしでは正しく用いることはできない

 先日、アフガニスタンの政権を倒したイスラム原理主義者の広報官がテレビのインタビューに答えているニュースを見ました。その広報官は「アフガニスタンには民主主義はなじまない。すべての事柄はイスラム法によって統治される」と言って民主主義を真っ向から否定するような発言をして、人々を驚かせていました。

 私は原理主義というものは、それがイスラム教であっても、キリスト教であっても、人間の歴史を否定して、すべてを聖書の世界に戻してしまおうと主張する点で大きな過ちを犯していると考えています。なぜなら、歴史を否定することはその歴史を導いてくださっている神の御業を否定することに繋がるからです。

 確かに民主主義と言う制度は人間の歴史の中で生み出された最高の統治形態であると言えるかも知れません。しかし、民主主義だけで本当に世界は平和になるかと言えばそうではないと言うことができます。なぜなら、民主主義を国家原理とする国々が最新の兵器を使ってテロリストたちが奪った人間の命よりもたくさんの人々の命を奪うということが現代でも繰り返されているからです。ですから民主主義と言う政治制度は人間にとってよいことだけではなく、さまざまな問題をも生み出すのです。

 信仰者にとって大事なことは歴史を否定し、また現代文化を否定することではありません。それらのものを使ってどのように神に仕えていくのかを考えて行くことが大切になってくるのです。つまり、どんなに優れた文化も政治制度も神との関係を見失ってしまえば、その祝福が人々に災いをもたらすものと変わってしまうことがあるのです。

 これは私たちの生活の中でも適用できる原理であると思います。信仰を持ったからと言って私たちは今までの生活を否定してしまう必要はありません。なぜなら、信仰を持つ以前から私たちの人生は、生まれたときから神の御手の内にあって、神が導いてくださったものだからです。私たちは、神が与えてくださったものを自分勝手に使うことで、神の祝福を呪いに変えてしまっていたのです。しかし、信仰を得た今は違います。なぜなら私たちが神の御心を求めつつ、人生を送るなら神が与えてくださったものすべてのものが本来の役目を取り戻し、私たちの人生を変えてくださるからです。


3.ローマの最後

①ローマの正体を知っているキリスト者

 さて、神を忘れて自分の力を誇るローマの都は必ず滅ぼされることを黙示録は私たちに教えています。この黙示録の表現の中で大変興味深いのは「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう」(8節)と語られたり、また「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」(11節)と言うわれている点です。ここでは「以前いたが、今いない。やがて現れるが、ついに滅びる」と言う表現が繰り返されているのです。

 この言葉が何を意味しているのか聖書注解者たちが語っていることは次のようなことです。これまでローマに君臨した歴代の皇帝の中でネロという人物がいます。ネロはローマの都に火をつけて、その責任をキリスト教徒に負わせて弾圧した皇帝として有名です。しかしそのネロは結局、最後は自殺という悲劇的な死を迎えています。しかし、ローマの人々の中にはこの「ネロが死んでいないで生きている」、あるいは「生き返って再び現れると言ったうわさが当時、広まっていたと言うのです。ですから、「以前いて、今いない。やがて現れ、ついに滅びる」と言う言葉はこのネロを指していると考えられています。もちろん、ネロが生き返ることはありませんでした。しかし、キリスト教会はやがてこのネロの迫害よりも強力な迫害を行うドミティアヌスと言う皇帝が現れたことを体験することなりました。ですから、この言葉はその皇帝ドミティアヌスを表していると考える人もいるのです。

 しかし、このヨハネの聞いた言葉が誰を指し示しているかが分からなくても、大切なことは結局、この人物は「やがて滅びる」者でしかないと言うことです。いくらローマの市民たちが皇帝の力を賛美し、その力に酔いしれていたとしても、その存在は必ず消え去る定めなのです。しかし、命の書に名を書き知るされている人々はたとえこのローマ皇帝にどのような力があったとしても、他のローマの市民とは全く違った生き方をすることができると言うのです。なぜなら、彼らは「昔おられ、今もおられ、永遠におられる方」のことをよく知っているからです。だから、彼らは迫害の中にあっても、ローマ皇帝ではなく神に従う道を選んだのです。

 さらにこの黙示録はそのような信仰者たちの勝利を次のような言葉で報告しています。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(14節)。

 キリスト者の勝利の秘訣は、人の目を引き付けるような豪華な飾りを身にまとった大淫婦として描かれるような神を忘れて自分の力を誇るローマの正体を見極めていたところにありました。だから彼らはローマでなく、イエス・キリストに従うことができたのです。なぜなら、このイエスこそ真の神の子であられ、「昔おられ、今おられ、永遠におられる」方だからです。


②黙示録が示す警告

 黙示録は神に背を向けて、生きる大淫婦の悲劇的な最期を次のように記しています。「また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう」(16節)。ローマの都は同じように神を冒涜する獣の仲間たちとの争いによって滅びるとここでは語られています。その原因は彼らが神を忘れて、神の祝福を自分勝手に用いたからです。だから本来祝福であったものが自分を苦しめ、滅ぼすための災いに変わってしまったのです。

 黙示録はローマの最期を語るだけではなく、今を生きる私たちにも警告を与えようとしています。神はこの世界の歴史を通して、また私たちの人生を通して、私たちを導き、すべての祝福を与えてくださいました。ところがもし、私たちがこの祝福の源である神を忘れてしまうなら、これらの祝福は、私たち自身を滅ぼす災いと変わってしまうことが起こるのです。

 しかし、もし、私たちがこの神との関係を回復し、イエス・キリストに従う信仰生活を送るなら、神が私たちのために与えてくださったものが本来の意味で私たちを祝福するものと変わり、繁栄をもたらすものとなるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.天使がヨハネに示した「大淫婦」と呼ばれる女はどのような姿をしていましたか。地上の王たちはこの女とどのような関係を結びましたか。また、この女はイエスの証人たちに対してどのようなことをしましたか(1〜6節)。

2.「以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう」獣を見て驚く人々はどのような人ですか。また、イエスを信じる者たちはどうしてそうならないと言えるのでしょうか(6〜14節)。

3.ヨハネはまたこの「淫婦」と呼ばれる大きな都がどのような形で滅んでいく姿を幻の中で見ましたか(15〜18節)。

2021.8.22「子羊と勝利を共にする」