1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2021
  4. 8月8日「ぶどう園と農夫のたとえ」

2021.8.8「ぶどう園と農夫のたとえ」 YouTube

マタイによる福音書21章33〜46節(新P.42)

33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。

36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。

37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。

38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』

39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」

41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』

43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、

46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。


1.イスラエルの歴史

①イエスの語るたとえ話の特徴

 今週はいつもの黙示録の学びから離れて、伝道礼拝をささげます。この伝道礼拝ではしばらくの間、主イエスが語ってくださったたとえ話から学び続けています。ふつう、たとえ話と言うものは相手に伝えるメッセージをできるだけわかりやすくするために語られるものです。ですから主イエスの語られたたとえ話もそのような特徴を持っていると言えます。しかし、もう一方では主イエスの語るたとえ話はこちらの意志を伝えたいと考える特定の相手だけに内容が分かるように語られていると言う特徴も持っています。つまり、イエスのたとえ話は暗号のように、それを読み解く技術を持っていない人には理解できないと言えるのです。その点で主イエスの語られたたとえ話は分かりにくいと言うこともできるのです。


②神の御心に従わない宗教指導者たち

 今日、私たちが取り上げるお話は「ぶどう園と農夫」のたとえと呼ばれるお話です。このお話は前回学びました「二人の息子」のたとえ(28〜32節)に続けて、イエスが語られたものとなっています。つまり、前回のたとえ話と今回のたとえ話は対をなしている双子のような物語だと言えるのです。ですからこのたとえ話を聞いている人々も前回と同じように、エルサレム神殿に仕えるユダヤ人の宗教指導者たちであったようです。彼らはエルサレムの神殿の境内でイエスがそこで働いていた商売人を追い出したり、神殿に集まる民衆に勝手に教えを語ったことに腹を立てていました。なぜなら、エルサレム神殿で何かをすることを許可できる権威を持っているのは自分たち以外にはいないと彼らは考えていたからです。だから彼らは自分たちの権威を無視する主イエスの行動を容認することができなかったのです。

 このような人々に対して、真の権威は神の御心に忠実に生きる者に与えられると言うことをイエスは前回、私たちが学んだたとえ話を使って教えられたのです。そして、今日のお話はさらにユダヤ人の宗教指導者たちの行為を批判し、彼らがなぜ神の御心に従っていないのか、そのことを明らかにする意味で語られていると言ってよいのです。

 確かにこのたとえ話自身は決して複雑なお話ではありません。しかし、このたとえ話を理解するためには旧約聖書を通して示された神の約束に対するユダヤの宗教指導者たちの犯した過ち、さらにはその神の約束と主イエスとの関係を理解していないとこのお話はよくわからなくなってしまう可能性があるのです。


2.ぶどう園を自分のものにしようした労働者

①ぶどう園を作った主人

 このお話の登場人物は立派なぶどう園を作った主人とそのぶどう園を借りてぶどうを育てる農夫たちです。簡単に言えば地主と小作人との関係がこのお話で取り上げられているのです。日本でもたくさんの土地を持つ地主から小作人が土地を借りて農業を営むと言う関係が戦前には多く存在していました。しかし、日本が戦争に敗れてアメリカ軍がやって来た後、「農地改革」と運動が奨められて、地主の土地が実際にその土地を耕していた小作人たちに分け与えれました。私の母方の祖母はよく「マッカーサーに土地を取られた」と言っていたことを思い出します。祖母のつぶやきは別として、実際に汗水を流して働いた農民がその収穫物のほとんどを地主に取られてしまうような戦前の小作制度には大きな問題があったと考えることができます。

 しかし、このたとえ話に登場するぶどう園の主人とそのぶどう園を借りている農夫たちの関係はこのような社会制度の問題とはだいぶ違っています。このたとえ話を読むと、まずこのぶどう園を苦労して作り上げたのが主人であったことが分かります。つまりこの主人はぶどう園を不正に手に入れた訳ではないのです。その点で彼がぶどう園を農夫たちに貸したのは、農夫たちに労働の場所を提供すると言う意味合いがあったからかも知れません。イエスの語られた他のたとえ話の中には働くところがないために仕事につけないで苦しんでいる人が登場し、ぶどう園の主人がその人たちを自分のぶどう園に労働者として送り、賃金を支払ったということがそのお話にで語られています(マタイ20章1〜16節)。つまり、このお話に登場するぶどう園の農夫たちは本来、自分たちを雇ってくれた主人に対して恩を感じるべき人たちだったと考えることができます。


②神とのイスラエルの民との関係

 ところがこのお話に登場する農夫たちは違います。彼らはこのぶどう園でとれた収穫物をすべて自分のものにしたいと思っています。さらにはこのぶどう園自身も自分たちのものにしたいと考えるのです。

 この農夫たちに対してぶどう園の主人は常識では考えられないほどに寛容であり、また忍耐を持って農夫たちに接しようとしています。契約違反をしているのは農夫たちですから、主人は法的な処置をとって農夫たちをぶどう園から追い出すこともできたはずです。しかし、主人は農夫たちから収穫物を受け取るために何度も僕たちを送ります。しかし農夫たちはその僕たちの「一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」(35節)と言うのです。そして忍耐深い主人はこの後も何人も僕たちを遣わしましたが彼らも同様な目に会ったと言うのです。

 このたとえ話はある意味で非常に現実離れしたお話のように聞こえます。しかし、この物語にはイスラエルの人々がたどってきた歴史的な出来事を示していることを見逃してはなりません。なぜなら、ここの主人が農夫たちの元に遣わした僕たちは、旧約聖書に登場する数々の預言者たちを示しているからです。この旧約聖書に現れる預言者たちの使命は、いつの間にか神を忘れて、自分の思い通りに生きようとするイスラエルの民に神の御心を伝えて、彼らと神との関係を回復させることにありました。しかし、イスラエルの民はこの預言者たちの言葉に聞き従うことがなかったし、返ってその預言者たちを迫害しようとしたという歴史的な事実がこのたとえ話の背景には隠されているのです。つまり、この物語は神を忘れて、自分勝手に生きる者たちの生き方を表しています。そしてイエスはエルサレムの指導者たちこそこのたとえ話に登場する農夫たちであると言っているのです。なぜなら、彼らは預言者たちが伝えた神の約束を信じなかったからです。その証拠に彼らは神の約束に従って来られた救い主イエスを拒否し、それだけでなくその救い主である主イエスを殺そうとまでしたからです。つまりこのたとえ話に最後に登場する農夫たちに殺されてしまった主人の息子は神の独り子であるイエスを指し示しているのです。


3.隅の親石とされた主イエス

 このようにこのたとえ話は神の御心を無視して生きるユダヤ人の宗教指導者たちに対する主イエスの厳しい批判を表していると言うことが分かります。なぜなら、彼らは神から与えられた使命を忘れて、自分の利害を第一に考えることで、神が約束してくださった救い主イエスを拒否することになったからです。ところでこのたとえ話には続けてイエスが語られたたとえ話への解説が載せられています。

「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」(42節)。

 この言葉はイエスが旧約聖書の詩編118編22〜23節から引用したものです。この「隅の親石」は家の基礎の部分なす大切な石で、これがもしなくなったり、壊れてしまうと家は簡単に崩壊してしまう可能性があります。しかし、詩編が語っているこの石は家を作る者たちが最初、「これは役に立たない」と言って捨てた石だったと言うのです。その石は見栄えが悪かったのでしょうか。それとも親石にするには頼りないような石に見えたのでしょうか。結局この石は大工たちのお眼鏡にかなうものではないために捨てられる運命にあったのです。しかし、神の御心ではこの石こそ、神のすべての計画を支える石とされていたのです。

 主イエスが十字架につけられて殺されたのは、主イエスの存在やその働きが当時の人々の持っていた期待に合わなかったからです。しかし、神はこの主イエスこそ神の救いの計画の中心に位置する方であることを明らかにしてくださいました。キリストの教の信仰にとって最も大切なのはこの主イエスの存在です。なぜなら、彼を抜きにしたら、私たちの救いは実現することがないからです。

 ここでは「主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」と語られています。確かにその通りであると言えます。なぜならば、主イエスが十字架にかけられて、殺されたことは人間の目から見れば失敗と判断される出来事であったからです。主イエスは懸命になって人々に神の福音を伝え、弟子たちを育てました。しかし、このとき主イエスから福音を聞いていたものが、主イエスを十字架に掛ける群衆に変わってしまっています。また弟子たちは主イエスを置き去りにして逃げ去ってしまいました。これを見ると、主イエスのそれまでの地上での働きは失敗だったと言えるかもしれません。しかし、神はこれらすべての人の思いや、行動を用いて救いの計画を実現させてくださったからです。罪のない主イエスが罪人として十字架にかけられて殺されることで、本当の罪人であるはずの私たちの罪が許され、私たちが神の救いにあずかることができるようになったからです。


4.実を結ぶ者たちとは誰か

①イエスが実を結ばせてくださる

 主イエスはこのたとえ話の結論部分で「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)と語っています。この言葉の通りに神の救いはやがてイスラエル民族の壁を越えてすべての民族に告げ広められて行きます。私たちの信仰はこの主イエスの言葉が成就していることを表しているのです。しかし、ここで「ふさわしい実を結ぶ民族」と呼ばれている言葉に私たちは注意を払うべきです。なぜなら、このふさわしさの根拠にこそ「隅の親石」である主イエスの存在が必要だからです。

 イエスはこのことを別の箇所でこう語っています。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15章4節)。

 この言葉の通り私たちがふさわしい実を結ぶことができるとしたら、それは私たちと共にいてくださる主イエスの御業のおかげなのです。なぜなら、主イエスは私たちの人生がたとえどのようなものであっても、その人生を通してふさわし実を結ぶことができるようにしてくださる方だからです。


②信仰の詩人水野源三さんの残した証し

 私は先週、水野源三と言う詩人の書いた信仰の歌を懐かしく読み返すことがありました。

「もしも私が苦しまなかったら/神様の愛を知らなかった。もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら/神様の愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら/神様の愛はあらわれなかった」(新聖歌292番)。

 水野さんは幼い頃にかかった伝染病によって脳性麻痺となりました。全身まひのために体を動かすことも、言葉さえしゃべることのできない状態となってしまったのです。当時はこのような障がい者は人の目から隠されるような社会の習慣がありましたから。ですから水野さんの存在もごく限られた人たちにしか知られていなかったのです。しかし、その水野さんの元にやがて神の福音が届けられ、水野さんは主イエスを救い主として受け入れました。そしてその後、水野さんは自分ができる唯一の意志伝達の方法である「まばたき」を使って、自分の信仰の証しを詩と言う表現方法で使って、人々に伝えて行ったのです。やがて水野さんが作った信仰の詩を通して、彼の存在は日本全国に、いえ、世界にまで知られるようになって行ったのです。

 もちろん、私たちも主イエスを信じればこの水野さんと同じような詩が書けると言っているのではありません。しかし、私たちと共に生きてくださる主イエスは必ず、私たちの人生を用いて、豊かな実を結ばせてくださる方なのです。神は家を作る人がいらないと判断して捨ててしまった石を、主イエスを隅の頭石とされたように、私たちが今、早合点して「こんな人生が何の役にたつのか」と考えているようなものをさえ、豊かに用いてくださるのです。ですから私たちは主イエスが私たちの人生にふさわしい実を結ばせてくださることを信じて、信仰生活を続けて歩んで行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの語られたたとえ話の中に登場する主人はぶどう園のために何をしましたか(32節)。

2.ぶどう園を借りていた農夫たちは、主人の僕たちにどのようなことをしましたか(34〜36節)。農夫たちはなぜこのようなことをしたのでしょうか。

3.どうして主人は自分の息子をぶどう園に送ろうとしたのですか(37節)。ぶどう園の農夫たちはその息子を見て、何を考え、どのような行動に取りましたか(38〜39節)。

4.どうして主イエスはこのようなたとえ話をユダヤ人の宗教指導者たちに向かって語ったのでしょうか(40〜41節)。

5.イエスが語った詩編の言葉から、イエスについて、またユダヤ人の宗教指導者についてどのようなことが分かりますか(42節)。

6.祭司長たちやファリサイ派の人々はこの話をイエスから聞いてどのようなことを考えましたか(45〜46節)。

2021.8.8「ぶどう園と農夫のたとえ」