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2021.9.12「砂上の家」

マタイによる福音書7章24〜28節

24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。


1.山上の説教の結論

 神学校を卒業して伝道者として初めて青森にある教会に派遣された後、私は茨城県のつくば市にある教会に転任して来ました。青森では教会の礼拝に出席する人がほとんどいなかったために、私一人で礼拝をささげるということが多くありました。そのために私は会衆の前でちゃんと説教するという機会に恵まれませんでした。つくばの教会にやって来て、私ははじめて会衆のいる礼拝で説教をすることになったのです。そのときに、私が説教のテキストとして選んだ聖書箇所がマタイによる福音書に記されている有名な「山上の説教」と呼ばれるお話です。今思えば、無謀な計画だったのかも知れませんが、私は毎週、懸命に準備しながらこの山上の説教の連続講解説教を行いました。今は、その時に私がどんな話をしたのかさえ覚えていませんが、牧師として機会があればもう一度このイエスが語ってくださった「山上の説教」を礼拝説教のテキストとして取り上げてみたいと言う願いを持っています。

 第二週の伝道礼拝では毎月、イエスの語ってくださった「たとえ話」を取り上げて、そこからキリスト教信仰について私たちは学んで来ました。今日はお知らせしたように「砂上の家」と言う題でお話をすることになりましたが、このお話の内容を読めばすぐわかるように、イエスは私たちに「砂上」ではなく「岩の上」に私たちの人生を建てていくようにと勧めてくださっています。

 まず、今日のイエスのお話を学ぶために重要になるのは最初にイエスが語られている言葉です。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて」とイエスはここで語られています。つまり、このお話の前提はイエスが語られた何かの言葉を聞いた人々がいると言うことです。それではイエスはいつどこで、誰に向かってどのような言葉を語ったと言うのでしょうか。そこで忘れてはならないことは、今日のお話はイエスによって語られた「山上の説教」を聞いた人たちを対象にして語られていると言うことです。つまり、このお話はイエスの語られた「山上の説教」の結論部分として語られた箇所であると言えるのです。

 おそらくイエスの語られたこの「山上の説教」は新約聖書の中でも多く人々に特に知られた箇所であり、またその言葉に影響を受けた人々もたくさんいると言えます。たとえばインドの独立運動の父と言われたマハトマ・ガンジーはヒンズー教徒でしたがこの山上の説教の言葉を愛し、彼が提唱した非暴力の運動はこのイエスの言葉に影響を受けていると言われています。このようにキリスト教信仰を持たない人々の間でも「山上の説教」を愛され、このイエスの言葉に影響されたと言う人も多いのです。しかし、だからと言ってこの「山上の説教」が多くの人たちに正しく理解されて来たかと言えば、決してそうではないと言えるのです。

 何よりもこの「山上の説教」もまた、救い主イエスによって示された「福音」を伝えるために語られているものであると言えます。ですから、この山上の説教を正しく理解するためには、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じて生きることが大切になってくると言うことができるのです。今日は残念ながらこの「山上の説教」全体の内容を取り上げる時間はありません。そこで私たちは今日のお話を通して、イエスの語られた「山上の説教」を含めた聖書の言葉をどのように理解すれば、私たちにとってそれが福音の言葉になって来るのかについて少し考えて見たいと思うのです。


2.聖書を正しく理解するためには

 今、私はいつものくせで「どのように理解すれば」と言う言葉を使いました。私たちはふつうこの「理解する」と言う行為をどのように考えているでしょうか。たとえば、私たちが聖書を正しく理解しようとすれば、その箇所を熱心に読んで、分からなければその参考書の助けを借り、さらに聖書の内容を詳しく教えることができる教師にアドバイスを求めます。そのような方法を通して、私たちは聖書の言葉を正しく理解することができるようにします。

 しかし、今日のイエスの言葉から考えると、イエスの言葉、あるいは聖書の言葉を正しく理解するためにはそれ以上にもっと大切なことがあると言っていることが分かります。なぜならイエスは、私たちに次のように語っているからです。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(24節)

 ここでイエスは聞くだけではなく、それを行うことが大切だと私たちに教えています。イエスの言葉を聞くだけでなく、実際に行う人は「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われています。一方で、それとは逆に「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(26節)と語られてもいるのです。両者ともイエスの言葉を同じように聞きました、違った点はそれを行ったか、行わなかったかと言うところにあると言うのです。そしてそれによって自分の家がどこの上に建てられたかが違ってくると言っているのです。もちろん、家の建て方は人それぞれであって、その人が他の人の家と違う家を建てたからと言って問題になることはありません。しかし、その家の土台がどこの上に建てられているかで、その家の運命が大きく違ってしまうとイエスはここで教えています。

 まず、私たちはどちらかと言うと人に見える部分をよく見せようとして考えます。しかし、その反対に普段、人が見ることができない部分はあまり関心を持ちません。しかし、家を建てるときはこの見えない部分、つまり土台が大切であると言うことは誰でも知っていることだと思います。

 数年前に私の故郷がある茨城県が大きな水害に襲われたことがあります。この一帯に住む農家の家庭の多くは、大きくて立派な家を建てて暮らしています。しかし、鬼怒川と言う川の堤防が切れて濁流がその地域を襲うとその立派な家が次々と流されて行ってしまったのです。ところが洪水を伝えるテレビ中継に一軒だけその濁流の中でも流されることなく立っている一軒の住宅が映し出されていました。後で、この家が多くの人の話題となり、実はこのような災害を予想して、特に土台の部分に新しい工法を使って建てられたのがその家であったようです。日本では近年、異常気象のせいで水害に襲われる地域が増えています。だからこそ、家を建てるためには人に見える部分だけではなく、むしろその土台をしっかりと作る必要があるのです。

 もちろん、イエスがここで語っているのは実際の家の建て方ではありません。イエスはここで私たちの人生の建て方、私たちの信仰生活の建て方を教えて下さっているのです。ですからイエスの語られた「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても」と言う表現は単なる自然災害のことを言っているのではなく、私たちの人生に起こる厳しい試練を言い表していると考えることができるのです。なぜなら砂上のような確かな土台の上に建てられていない人生は試練に会うと、簡単に崩壊してしまう可能性があるからです。一方で岩の上のような確かな土台に建てられた人生は試練に会ってもびくともしないのです。ですからイエスはそんな人生を私たちが送りたいなら、イエスの言葉を聞くだけではなく、行うことが大切だと語ってくださっているのです。つまり、聖書の言葉を聞くだけではなく、実際にその聖書の言葉に従って生きて見る必要があると言っているのです。そうすれば、私たちは本当の意味で聖書の言葉を正しく理解することができるようになるからです。


3.自分が罪人であることを知る

①本当にできるのか

 ところでイエスの言葉、あるいは聖書の言葉を聞くだけではなく、行うことが大切だと言われる場合、そこで私たちが次に考えることは、「そもそも、私たちはイエスの言葉や聖書の言葉を正しく行うことができるのだろうか」と言う問題です。そして何よりも聖書の言葉を聞くだけではなく、その言葉を実際の自分の生活で実践している人ほどイエスの言葉を行うことは難しいと痛感するはずです。

 たとえば山上の説教の中には「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言う有名な言葉があります。私たちはこの言葉をどのように日常の生活で実践しているでしょうか。世界では今も戦争が絶えることなく、殺戮が続けられる惨状な状態が続いています。そんなニュースを聞いて「どうしてあの人たちは憎しみ会って殺し合いまでするのか。話し合えば大抵のことは解決するのに」と語る人がいます。しかし、案外そのような言葉を口にする人も自分の家族といつも言い争っていて、まともに会話も交わすことができないと言う問題を抱えていることがあります。人は実際に他人に傷つけられたと言う経験を持つと、その人を赦すことは簡単にはできないのです。


②行って見ることで、できないことを知る

 イエスの時代のユダヤ人はこの問題を解決するためにある方法を採用しました。それは自分が愛さなければならない相手を特定の人たちに限定すると言う方法です。また相手に対して赦すことが必要な場合でも、それは「何回」までと言う制限を作ったのです。学校が入学試験でたくさんの合格者を出すためには、事前に「合格ライン」を低くする方法がとられるます。同じように当時のユダヤ人は聖書の言葉を自分たちが実際に行うことができるように、聖書が求めている内容を自分のレベルにまで引き下げると言う方法を使いました。それは、彼らが聖書の言葉を自分が実際に行わなければ神に認めていただけない、つまり神に救ってはいただけないと考えたからです。

 しかし、もし私たちがイエスの教える「山上の説教」の教えの内容を自分で行うことができるレベルに引き下げてしまったら、それはむしろこの「山上の説教」の教えの内容を空虚なものに変えてしまうことになると考えてよいでしょう。なぜなら、イエスの「山上の説教」の教えは、私たち人間がそのままでは行うことができないことを言っているからです。もちろん、イエスは人間が最初からできないことを教えて、人間を欺くようなことをしているではありません。むしろイエスは私たち人間が神に造られたときの本来の状態から変わってしまっていることを教えるためにこの山上の説教を語ってくださったと考えることができるのです。なぜなら人間は本当なら行えるはずのことが今やできなくなっているからです。聖書が語る「罪人」とは神が造って下さった状態から変わってしまって、本来であればできるはずのことができなくなってしまった人間の姿を示しています。つまり罪人である人間は神の教えに従う力を持っていないのです。だからイエスの語られた言葉を行うことはそのままでは不可能に近いのです。それでは、その罪人である私たちはどうしたらよいのでしょうか。イエスはこの「罪人」を招くためにやって来られた方、救い主であると語ってくださっています。だから、私たちはこの救い主を信じて、その助けを受ける必要があるのです。

 聖書の言葉を聞くだけではなく、行うことが大切である理由の第一は私たちが罪人であることを知り、救い主イエスを信じる必要性を認めさせるところにあると言えるのです。


4.権威ある人の教え

 しかし、私たちが聖書の言葉を聞くだけではなく、行う必要がある理由はそれだけに限定されるわけではありません。いえ、聖書の言葉を行うことの意味にはもっと大切な理由がと言えるのです。今日の聖書の箇所の終わりにはイエスの言葉を聞いた人々がどのような反応を示したかという記述が記されています。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(28〜29節)。

 イエスの言葉を聞いた人々はその教えが他の教師たちが語った教えとは全く違っていたことに驚いたというのです。それではイエスの教えのどこが違っていたのでしょうか。それは「権威」であると言われているのです。

 あるとき、ローマ軍の隊長がイエスの元にやって来て、病気で苦しんでいる自分の僕を癒していただきたいと願い出た話があります。イエスはこの願いを快く受け入れて、その僕のいるところに行こうとするのですが、その隊長は「その必要はない」とイエスに答えました。なぜなら、権威ある者の言葉であれば実際にその人がそこに行かなくても、その言葉通りのことが実現すると考えたからです。その隊長はイエスの言葉にはそのような権威があると信じていたのです。そしてその後、この隊長の僕は「あなたの信じたとおりになるように」と言うイエスの言葉の通りに、すぐに癒されたと言うのです(マタイ8章5〜13節)。

 イエスの語る言葉は人間が語るような無力な言葉ではありません。その言葉自体に権威があり、その言葉には何事でも行う力があるのです。つまり、イエスの言葉はその言葉を聞いた者を変える力を持っていると言うことです。確かに罪人のままの人間には神の言葉を行う力がありません。しかし、イエスの言葉はその罪人である私たちを変えることができるのです。

 先日、教会の兄弟姉妹と雑談をしているときに社会主義や共産主義と言う政治制度についての話題が上がりました。私は共産主義者からキリスト者に変わった経歴を持ちます。だからかも知れませんが私は社会主義や共産主義の掲げた理想は決して間違いではないと今でも思っています。実際にこの資本主義社会にはたくさんの矛盾が存在しています。しかし、私は今、この社会制度だけをいくら変革しても、人間自身が変わらない限り、新たな問題が生まれると考えています。

 イエスは社会の変革者でも革命家でもありませんでした。しかし、彼の語った言葉はたくさんの人を変えることができる権威を持っていました。その言葉には罪人を変える力、権威があったのです。だからこのイエスの言葉を本当に聞いて信じた人は皆、その言葉を行う人に変えられるのです。第二次大戦下でナチスドイツに最後まで抵抗し、処刑されたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは「信じる者だけが従順であり,従順な者だけが信じる」と語ったと言います。

 イエスの言葉を信じるだけではなく、それを行う人はイエス・キリストが実際に生きて、その生涯を自分と共にしてくださることを知ることができます。そしてその人はイエスの言葉を聞いて、行うことによってイエスとの命の交わりを深めていくことができるのです。そしてこのイエスとの命の交わりをしっかりと持つことができる人は、試練の嵐の中でも耐えることのできる岩の上に自分の人生を建てた者であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはここでどのような人が「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言っていますか(24節)。

2.それではどのような人が「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」のでしょうか(26節)。

3.「岩の上」と「砂の上」に家を建てた人の違いはどのようなときに分かりますか(25、27節)。

4.あながた「岩の上に自分の家を当てた」人のようになるためには、どうしたらよいと思いますか。

5.イエスの言葉を聞いた人々はどのようなことで驚きましたか(26節)。あなたはイエスの教えに権威があることを今まで送ってきた自分の信仰生活の中で体験したことがありますか。

6.時間があればマタイによる福音書5章から始まるイエスの山上の説教を読んでみましょう。この言葉を読んだ後で、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」と言われたイエスの教えをもう一度考えて見ましょう。

2021.9.12「砂上の家」